楽園へ 第10話
六年前
窓の外で鳴く蝉の声。それ以外の音は何もない。人の声も車の音も風の音も。じっと息をひそめて黙りこくっている。蛍光灯の光がふたりの少年の顔を青白く照らしている。
ひどく蒸し暑い。クーラーをつけたのに汗が止まらない。そういえば今日は、今年一番の暑さになるとニュースで言っていた。
それなのに京吾の手は震えていた。
震える手で手紙を握りしめている。あまりにも強く握るせいで手紙はいまにも破れそうだ。
京吾はそこに書かれている文字を何度も読んだ。筆圧は弱い。手紙の一部がよれている。涙をこぼした痕だろうか。文字の端々に震えがみられる。怯えた字、恐怖を感じている字、しかしそれでも、あとからこの手紙を読む人のことを考えて、つとめて綺麗に書こうとしている字。
『お父さん、お母さん、お兄ちゃん。
先に死んでしまってごめんなさい。わたしはもう生きているのが耐えられません。
あの夜のことを何度も忘れようとしました。でも、どうしても消えないんです。あの男の手の感触が、においが、頬にかかった息が、どうしても離れません。
あの夜のことを思い出すたびに、いつも思ってしまいます。
どうしてお父さんもお母さんもお兄ちゃんも、あの男を殺してくれないんだろう、と。
そしてそのたびに自分のことが嫌いになります。わたしのことを愛してくれる大切な家族に、憎しみを向けてしまう自分が嫌で嫌でたまらなくなります。
だからわたしは、自分の心が壊れてしまう前に、自分で自分の命を終わらせます。
お父さん、お母さん、いままで育ててくれてありがとう。だめな娘でごめんなさい。
お兄ちゃん、いつも優しくしてくれてありがとう。京吾くんに、ずっと避けててごめんなさいと謝っておいてください。
さようなら』
京吾は何度も読んだ。何度も何度も視線を往復させて、薫が最後に書いた文字を呼んだ。言葉はわかる。文字の意味も分かる。それなのに内容が理解できなかった。いや、理解することを頭が拒んでいた。
京吾は、慧の家の庭に生えている柿の木を見た。
白いコンセントのコードがぶら下がっている。コードの先は切断されている。ついさっき慧がハサミで切ったのだ。
部屋の中に視線をもどした。
床に薫が仰向けで寝そべっている。切断されたコードの先が首に巻きついている。警察に電話をした際に、コードは巻いたままにしておくように言われたのだ。自殺かどうかを判断する際に、結び目が重要になるらしい。
薫は首をななめに傾けて目を閉じている。もともと白かった肌はさらに白く、灰色に近い状態になっている。薄く開いた唇の隙間から、紫色の舌がのぞいている。
「あの男って」京吾はカラカラに乾いた口を開いた。声がかすれていた。
「宮下。一か月前、薫はあいつに犯された」
京吾は息をのんだ。この一か月、薫の様子がおかしかったことの理由がやっとわかった。でも、わかった時にはもう薫は死んでいた。
「警察は?」
「大事にしたら、薫がされたことが島民に知れ渡るから、黙ってろって父親が。薫も警察には行きたくないって言っていた。だから薫も僕たちも、あの夜のことは忘れて何もなかったように振舞っていた」
慧が薫の髪の毛にからまっていた細い木の枝を、指でそっとつまんで取った。肩が震えている。涙がぽたぽたと畳の上に落ちた。
「でも無理だった。なかったことにするなんて、無理だったんだ」
廊下を慌ただしく走る音がして、障子が勢いよく開いた。
顔を真っ赤に上気させた慧の母親が部屋に入ってくる。母親は京吾の体を押しのけて薫の遺体にすがりついた。「薫、薫」と悲痛な叫び声が部屋の中に響く。
母親は京吾をにらみつけてきた。畳の上に置いてあったレジ袋を京吾に向かって投げつける。
レジ袋が京吾の胸に当たって、中身がこぼれ出た。
「あんたのせいよ! あんたみたいなのと一緒にいたから薫は…っ」母親が半狂乱になりながら泣き叫ぶ。「出てって! 今すぐ出ていきなさい! 出てって、早く!」
慧が母親の肩を掴む。「母さん、そんな言い方やめろよ」
だが母親は聞き入れようとしない。むしろ余計に興奮した様子で慧にわめきたてる。
「どうしてあんたが生きているのよ。薫じゃなくて、どうしてあんたが。あんたが死ねばよかったのよ」
「母さん…」
「うるさい! 母さん母さんって、あんたにそう呼ばれるたびに虫唾が走るの。死ね、今すぐ死ね!」
慧は何も言い返さなかった。俯いて、強く握りしめた拳を震わせながら母親の言葉を聞いている。
京吾は間に入ることもできず、ただ二人から目を逸らすことしかできなかった。
双子であるにもかかわらず、彼の両親は妹の薫ばかりを溺愛しているというのは知っていた。薫だけが唯一自分のことを家族として扱ってくれるということも。
だが、ここまでとは思っていなかった。
京吾は畳に落ちたものを拾ってレジ袋に入れた。やたらに値段の高いクッキー。よく知らないアイドルグループのぬいぐるみ。ここ最近、学校を休みがちだった薫を元気づけるために、わざわざ慧と本土に行って買ってきたものだ。
でも、もう必要なくなった。
京吾は、出ていけと怒鳴る母親に言われるまま慧の家を辞した。
京吾が慧と再会したのは、それから一週間後のことだった。
慧の目の下には黒い隈ができていた。ただでさえ細い体がさらに細くなっている。目も当てられないほどの憔悴ぶりだった。
京吾は禁足地の入り口のフェンスにもたれかかって空を見あげた。青々と生い茂った木々の葉の隙間から青空がのぞいている。太陽はまぶしく輝き、空には雲ひとつない。それなのにここは肌寒い。どんよりとした冷たい空気がわだかまっている。
これより先、禁足地につき立ち入り禁止。京吾の脇に立つ看板にはそう書かれている。人に聞かれたくない話をする時、京吾たちはよくここに来た。
そういえば京吾が薫に告白されたのもこの場所だった。何と答えればいいかわからず黙り込む京吾の肩を小突いて、「そういうの逆に傷つくんだからね」と薫は頬を膨らませていた。
京吾は慧に目をやった。
慧は地面に座りこんで、どこか一点を見つめている。右手はずっとポケットに入ったままだ。京吾をここに呼び出したのは慧だ。それなのに彼はまだ一言も口をきいていない。木漏れ日が、慧の白い横顔の上でさざ波のように揺れている。
京吾はしばらく慧を見つめていた。
女みたいに白い首に薄い胸板、服の袖から伸びる腕は触れただけで折れてしまいそうなほど細い。まるで生気を感じられない身体。それなのに目だけはぎらぎらと光っている。
京吾の視線に気がついた慧がこちらに顔を向けた。
ふたりの視線が肌寒い森の中でぶつかった。しばらくの沈黙のあと、ようやく慧が口を開いた。
「殺そうと思う」
「え?」
「あいつを」慧が立ちあがる。立ち眩みなのか、すこし体がふらついている。「宮下を、殺そうと思う」
京吾は慧の右手に握られたナイフを見た。ナイフの表面に反射した光が京吾の目を刺した。
「葬式に呼んでやれなくて悪かったな、京吾。しばらく会えなくなると思うから、それだけ伝えたかったんだ」
慧はそう言って微笑むと、覚束ない足取りで歩きだした。
京吾は慌てて慧の腕をつかんで引き止めた。「ちょっと待て、考え直せよ。そんなの間違ってるって」
「薫が死んだのに、あいつは何の罰も受けないことの方が間違ってるだろ。離してくれ。もう決めたんだ」
慧が京吾を見る。
京吾ははっと口をつぐんだ。この目を知っている。京吾の姉であり母でもある女が、島民を刺し殺した時も、こういう目をしていた。
行かせてはいけない。絶対に引き止めなければならない。
京吾は慧の腕をつかむ手に力を込めた。慧は振り払おうとするが、それは叶わない。力が弱すぎるのだ。いまの慧なら、京吾ですら簡単に押さえ込むことができる。そんな彼を宮下のところに行かせたら、どうなるかなんて目に見えている。
「京吾、行かせてくれ。もうこれ以外に方法はないんだ」
京吾は首を振る。今この手を離したら慧は行ってしまう。それだけは駄目だ。必死に頭を働かせる。どうすれば慧を引き止められるか。どうすれば宮下に罰を与えることができるか。
しばらくして京吾は顔をあげた。慧の目を見つめて口を開く。「ひとつだけある。俺に任せてくれないか」
人でにぎわう漁港。人々は真上で輝く太陽に目を細めながら、漁で獲れた魚を船から荷下ろししている。酒焼けした漁師の声、談笑する女たちの声、自転車のベルの音。ここは人々の活気で満ちている。
宮下はそこからすこし離れた場所にいた。風雨にさらされて色あせた黄色いビールケースに座って海を眺めている。
この男は他人とのかかわり方を知らない。幼い頃から父親に暴力を振るわれつづけてきたせいで、暴力でしか他人と関わることができない。だから彼の周りには誰も近寄らない。彼が暴力を振るうたびに、周囲との溝は深まっていく。本当は人と関わりたくて仕方がないのに、誰よりも人との交流に飢えているというのに。
一匹狼を気取っているくせに、孤独が嫌いで嫌いで仕方がないのだ。だから彼はいつもこうして他人の声が聞こえる場所にいる。そうやって孤独を慰めている。
京吾には宮下の気持ちが手に取るようにわかる。京吾も宮下と似たような境遇で育ったから。
父親から暴力を振るわれたことはなかった。しかし父と姉の近親相姦の末にできた子、人殺しの子として、島民たちから向けられる視線は暴力そのものだった。だから宮下が抱える、気が狂うほどの孤独の味も京吾にはわかる。
それでも京吾がまともでいられたのは、幸生や慧や薫がいてくれたおかげだ。
「宮下」京吾は宮下の前に立った。
宮下の顔に影が差す。彼はまぶしそうに目を細めて京吾を見あげた。
「薫が死んだ」京吾は言った。
「らしいな」
「お前のせいで、死んだ。お前が薫を死に追いやったんだ」
「どんな死に顔だった? 燃やす前に一発ヤッたか? あの女、お前のことが好きだったらしいな。俺に犯されてる間ずっと、京吾くん京吾くんって泣いてたぞ」
京吾は宮下の顔に唾を吐いた。
宮下の顔色がさっと変わった。勢いよく立ち上がる。ビールケースがガタンと大きな音を立てた。
宮下は京吾よりもずっと大きかった。三歳も年が離れているのだ。大人の体に成長しきった十八歳の宮下と、まだ成長過程にある京吾では体つきがまるで違う。いや、体つきだけではない。幼い頃から暴力の中で生きてきた宮下には、異様な威圧感がそなわっていた。そのせいで彼の体は何倍にも大きく見える。
慧に行かせなくてよかったと京吾は思った。
「この人殺し」京吾は叫んだ。
漁港にいた人たちが手を止めてこちらを振り返る。怪訝な顔でささやき合う人もいる。
宮下が京吾の胸倉をつかんだ。呼吸が速くなっている。爆発寸前だ。
京吾は宮下にだけ聞こえる声で言った。「友達の作り方も女の作り方も知らないなんて、かわいそうにな、宮下。そんなだからずっと一人ぼっちなんだ」
つぎの瞬間、京吾の体は吹っ飛んだ。左の頬がじんじん痺れる。それでやっと殴られたのだと気がついた。
顔をあげると、宮下がビールケースを振り上げるのが見えた。慌てて寝返りを打って避ける。
バキッ、と大きな音がしてビールケースが割れた。
京吾は素早く立ち上がって走り出した。
京吾のわきをビールケースが飛んでいく。宮下が投げたのだ。
ビールケースは近くを走っていた自転車の前輪に当たった。中年の主婦が「きゃっ」と悲鳴をあげて自転車から転げ落ちる。
気にしている余裕などなかった。京吾はまっすぐ前だけを見て走り続けた。
うしろから宮下の怒声と足音が聞こえてくる。
すぐそばまで来ている。だが、いま捕まるわけにはいかない。
京吾は必死に脚を動かし続けた。
漁港を抜け、広場を横切り、住宅街を通って、小学校の脇を走り抜ける。
息はすっかり上がっている。喉が焼けるように熱くなって、足も腕も鉛をつけられたかのように重たくなっている。
それでも走り続ける。薫を殺した男に罰を与えるために。
京吾の頭の中でさまざまなことが浮かんでは消えた。
薫の首に絡まった電気コード。遺書。震える文字。“あの男”と書かれた文字だけ他と比べて筆圧が強く、シャーペンの芯が折れた跡もあった。やつれた慧の横顔。右手に握られたナイフ。
墓地へつづく階段を駆け上がる。振り返ると、京吾と同じように息を荒げながら階段をあがる宮下の姿が見えた。
馬鹿な男だ。
最後の階段を上りきり、墓地の真ん中に立った。涼しい風が頬をなでる。海に向かって並び立つ墓石の中で京吾はゆっくり振り返った。
宮下が肩で息をしながら近づいてくる。
京吾は身体のわきに両腕をだらりと垂らして宮下を見つめていた。暴力と孤独によって作り出された哀れな男の姿を。
宮下、お前はもうすぐ終わるんだよ。
宮下が拳を振り上げた時も京吾は動かなかった。
左頬に衝撃が走り、京吾の体は地面に倒れた。横向きに倒れたところで続けざまに腹を二度、蹴られた。猛烈な吐き気に襲われる。平衡感覚がなくなって頭がくらくらする。
しかし宮下は容赦なく蹴りを入れてくる。
京吾は思わず体を丸める。
すると宮下が京吾の腹の上に馬乗りになった。左右の拳を交互に振るい、強烈なパンチを浴びせてくる。
京吾もはじめのうちは宮下の顔を引っかいたりして抵抗していたが、しだいにその気力も失せて、最後の方はされるがままになっていた。
あちこち殴られすぎたせいで顔も体も燃えるように熱い。目が腫れているのか、瞼がほとんど開かない。けれど宮下のうしろで、一匹の鷹が青い空を悠々と旋回しているのは見えた。
しばらく経った頃、宮下がようやく京吾の体から離れた。肩で息をしながら立ちあがる。京吾の顔をのぞきこみ、唾を吐いた。
京吾は寝そべったまま遠ざかっていく宮下の背中を見ていた。唾をぬぐう気力もなかった。
「京吾っ」
遠くから慧が駆け寄ってきた。泣きそうな顔で京吾のそばに座りこむ。
京吾はようやく起き上がった。すこし動かしただけで痛む腕で唾をぬぐう。
「どうしてこんなこと……」慧が言う。
宮下がこの墓地にやって来て、京吾に唾を吐いて去るまでの一部始終を、慧は隠れて見ていた。助けに来なかったのは京吾に言われていたからだ。何があっても絶対に出てくるな、と。
「ごめん…」慧が声を震わせる。「やっぱり助けに行くべきだった」
「いや、いいんだ。これでいい。お前が助けに来ていたら、すべて台無しになっていた」
京吾は立ちあがった。痛みと疲労で悲鳴をあげる体を無理やり動かして、墓地を横切る。崖の前に設置された木の柵に両手をつく。手が震えているのは、宮下に殴られたことだけが原因ではないだろう。唇から流れ出た血が柵にポタポタと落ちた。
「京吾、お願いだから説明してくれ。どうしてこんなことをしたんだ」
「宮下を刑務所に送る」
「まさかお前、そのためにわざと宮下に殴られたのか?」
京吾がうなずく。
慧はしばらくの間、京吾の服の袖をつかんで黙っていた。大きく見開かれた目が京吾を見つめる。怒っている時の顔だ。
ふたりとも何も言わない。静かな波の音だけが響く。柵の向こうでは大きな入道雲が浮かんでいる。
京吾は目を細めて慧を見た。切れ長の瞳とその下の涙袋、すっと通った鼻筋、色白の肌。この顔も今日で見納めだと思うと無性に愛おしくなって、その頬に触れたくなった。
やがて慧が深いため息をついた。
「わかった。薫のためにそこまでしてくれてありがとう。でも、もう二度とこんな真似はやめてくれ。僕も薫もこんなことは望んでいない」
病院へ行こう、と言って慧が京吾の肩に触れる。
しかし京吾はその手を優しく払いのけた。
「ひとつだけ頼まれてくれないか」京吾が言う。「警察が来たら、宮下が俺をつき落としたと証言してくれ」
「は…?」
その途端、慧の顔色がさっと変わった。これから京吾がやろうとしていることを悟ったのだ。
「だめだ、京吾っ──」慧が手を伸ばす。
しかしその時にはもう手遅れだった。京吾の体は柵の向こうにあった。
慧の手が空をつかむ。
内臓が浮くような感覚のあと、京吾の体は落下した。
上の方から慧の叫び声が聞こえる。
つぎの瞬間、京吾の体は岸壁に叩きつけられた。
宮下に殴られた時とは比べ物にならないほどの痛みに襲われた。喉の奥から血があふれてきて、京吾は咳き込んだ。
目の前に自分の右腕があった。おかしな方向に曲がっているうえに、白い骨が肉から飛び出している。
たぶん死ぬのだろうな、と思った。でも、これでいいとも思った。
宮下は薫の命を奪った。直接手を下していないとはいえ、宮下が殺したことに変わりはない。
だから宮下は殺人罪で罰を受けるべきだ。
宮下が京吾を追い回していたことは多くの島民が目撃している。それに慧の証言、京吾の爪の間に挟まっている宮下の皮膚片。十分すぎるほど証拠はそろっている。
宮下、お前はもう終わりだ。
京吾は海の向こうに目をやった。
視界がかすんで空と海の境目がぼやけている。キャンパスを青と白の絵の具ででたらめに塗った抽象画のような世界が広がっている。
その水平線のずっとずっと先にある楽園に薫はいるのだろうか。
京吾は水平線に手を伸ばした。しかしその指先が何かにとどく前に、京吾の意識は闇に包まれた。
楽園は、遠い。
