「オレンジペコー」第3話。

 「お…」
郁実は師匠の工房に来ていた。作業を終え、道具を洗っているとき、師匠が珍しく声を上げた。
「コレ、作ったのか?」
「はい、そうですけど…」
「へぇ~」
と、師匠が、いま出来上がったばかりの指輪を手に取り、虫眼鏡で観察し始めた。
「これは、いいよ。ものすごくよくできてる」
「本当ですか!」
「うん、いぶしにムラもないし、ハの字にもなってない。デザインもすごくいいと思う。仕上がりもキレイだ。これなら、そこそこの値段をつけても文句ないよ」
「うっわ!嬉しいです!実は、それ、ちょっと自信あったんですよ!」
「うん。いい指輪だと思う。自信もっていいぞ」
そう言って、師匠が笑った。郁実は「ありがとうございます!」と深く、頭を下げた。
「うまくいったんだな?」
「え?」
「前に言ってた、大事な仕事」
「…はい、喜んでもらえたみたいです」
「だろうな。お前自身、成長してるよ」
「ありがとうございます!」
「感謝だな」
「え?」
「その、大事な人に、感謝だな」
「…はい。ほんと、あの人には、感謝してもしきれません」
郁実が笑った。師匠は、いい笑顔だと思った。
「だな」
そう言って、師匠も笑った。

 夕暮れの帰り道は、とても心地が良く、体が軽かった。気づけば、飛び跳ねるように歩いていた。道中、小さい女の子と母親が笑顔で歩いているのに気づき、あわてて落ち着いているフリをした。
「…見られてないだろうな…」
しかし、女の子の「あのお兄ちゃん、スキップ上手だねー」の一言で、その希望は打ち砕かれた。今度は、逃げるように早足で歩き出した。
「…あ、そういえば、晩飯なんかあったかな?」
母親が手に持っていたスーパーの袋を見て、ふと思い出した。
「…ま、適当でいいや、金もないし」
また、飛び跳ねそうになる足を、意識して落ち着かせ、ゆっくりと家に帰った。

 「おい」
郁実の父親が、鋭い目を向けた。
「あ?」
郁実はその目は見ずに返事をした。
「こりゃなんだよ」
「晩飯だよ、なんか文句あんのかよ」
「あるにきまってんだろっ!」
父親が怒鳴った。
「これが晩飯とかなめてんのか!」
父親の目の前には、白いご飯と生卵が置いてあった。
「たまごかけご飯うめぇだろうが」
郁実は構わず生卵をお箸でかき回した。
「晩飯だっつんならもっとマシなもん出せや!」
と、父親がご飯の入った茶碗を郁実に投げつけた。茶碗は郁実の額に当たって割れ、そこから血が流れた。その血が、かき混ぜていた生卵に混入した。
「てめぇ、たまご一個ムダになっただろうが!」
郁実がテーブルを父親の方に向けて足で蹴った。
「てめぇがゴミみてぇなメシ出すからだろうが!」
父親が、蹴られたテーブルを手でひっくり返した。
「金がねーんだからしょうがねぇだろうが!」
「イヤミかこらぁ!」
「事実だろうが!」
「なんだと、このやろう!」
父親が郁実の顔面を真正面から蹴り飛ばし、郁実は「ぐっ」と声を上げ、その場に倒れた。
「事実だろうよ!お前が働かねぇからこんなゴミみてぇな暮らしなんだろうが!」
郁実が、鼻血を乱暴にぬぐった。
「健康なら働いてんだよ!」
「てめぇ、人けとばすぐらい元気なんじゃねぇか!」
「うるせぇ!」
父親が郁実の顔をふみつけようとした。郁実は、その足をつかむと、「ぐいっ」と引っ張って、父親を投げ飛ばした。父親は、壁に頭をぶつけ、その場にうずくまった。
「ぐ…このやろう、ふざけやがって」
すると、父親が、郁実の机の引き出しに手を伸ばした。
「あ!おい!」
そこには、郁実の作ったアクセサリーや道具が入っている。父親が、引き出しごと机から乱暴に引き抜いた。
「やめろ!」
「こんなもん作ってる暇あんなら金稼いで来いっつんだよ!」
父親は、引き出しを地面に叩きつけると、その中身を足で何度も踏みつけた。
「何すんだ、てめぇ!」
「いってぇ!」
父親の足の裏に、何か工具が突き刺さった。痛がっている父親の首根っこを郁実が背中からつかみ、そのまま父親の頭を床にたたきつけた。
「ぐぅ…」
父親はまたも頭を抱えてうずくまった。
「ふざけんな、このやろう!」
郁実は、父親の頭を何度も踏みつけた。父親は、はじめは「ぐっ」「うっ」と声を上げていたが、何度も踏みつけられるうち、次第に無言になった。
「ふざけたことしてんじゃねー!」
父親は、気を失っているようだった。しかし、郁実は踏みつけるのをやめなかった。頭、腹、胸と、父親の体中を踏みつけた。
「右手…どこだ右手…!」
郁実は、自分の引き出しを引いた父親の右手を壊そう思い、辺りを探した。
「…あ!」
しかし、郁実の目がみつけたのは、ぐにゃぐにゃに歪んだ郁実の指輪だった。
「…うそだろ…」
その指輪は、あの時師匠が「いい出来だ」とほめてくれた指輪だった。それを作れた事が自分自身の自信になり、これから夢を追う上で心の柱となるような、そんな作品だった。それが、ぐにゃぐにゃに歪んでいた。郁実は、まるで、自分の夢が踏みつぶされ、へし折られたような、そんな気持ちになった。郁実の中で、何かがプツンと切れた。郁実は、黙ったまま指輪を拾うと、外に出た。

 「あら…」
美雪が仕事帰りに歩いていると、頭にポツポツと雨が当たるのを感じた。手をかざすと、急にその勢いが増し、一気に大雨になった。
「うわ、ちょっと!」
慌ててカバンの中から折り畳み傘を出し、傘を開くと、雨が傘に当たる音が耳に響いた。
「ふぅ…。早く帰ろっと」
再び歩き出し、いつもの空き地の前を通るとき、空き地の奥の古いベンチが気になった。
「…人?」
誰かが、傘も差さずにただ茫然としていた。その様子や雰囲気から、思わず「おばけ?」とつぶやいてしまった。しかし、そのおばけの正体がわかると、慌てて駆け寄った。
「ちょっと!なにしてんの、あの子!」
おばけの正体は、郁実だった。
「ちょっと!何してんの!傘も差さないで!」
郁実が、うつろな目を美雪に向けた。美雪がハンカチで郁実の顔の雨水をぬぐった。
「あぁ、美雪さん…」
「何やってんのよ、こんな所で」
「いや…」
美雪が、郁実の左手の中にあるつぶれた指輪に気づいた。袖口から、あの時についた傷跡が少しだけ見えていた。
「俺の指輪、つぶれちゃって…」
郁実は、絞り出すように言葉を紡ぎだした。
「俺は、なんでいつも…」
美雪は、指輪がつぶれた事以上に何かがあったのだと、察しがついた。美雪は、雨水に濡れた郁実の顔をもう一度ぬぐい、二つの目を、よーく見た。涙は、流れていなかった。「本当に強い子だ」と思った。
「そっか。悲しいことがあったのね」
郁実が、美雪の顔を見た。美雪は、微笑んでいた。その笑顔の意味は、郁実にはわからなかった。美雪が、話し出した。
「きっと今、郁実の周りは真っ暗で、何も見えない状態なのかもしれないけど、でも…」
美雪は言葉をつづける前に、あの時、この空き地で感じた幸せを思い出していた。その幸せが、笑顔の理由だとは、郁実にはわかるはずもなかった。
「あなたの幸せは、あなたのそばにあるはずよ。それは、わかってなきゃ」
「幸せ…」
「私は、自分の幸せをちゃんと見て、信じたの。その幸せからまた力をもらって、また新しい幸せをつかむことができたわ。だから郁実も、自分には幸せがあるって事を、ちゃんとわかってなきゃ」
郁実は、美雪の目を見て言った。
「それをわかったら、俺は…?」
美雪も、その眼をまっすぐ見た。
「そうよ。よく思い出してごらんなさい。あなたには、遠くに離れているけど、お母さんや、妹さんだっている。友達だっている。それに、あなたには夢だってあるじゃない。とっても素敵な夢が」
「夢」と言われ、郁実は、自分の左手にある歪んだ指輪を改めて見た。その郁実に、美雪が言った。
「壊れても、また作ればいいじゃない。あなたは、こんなに素敵なものが作れるのよ?」と、左手の薬指を見せ、微笑んだ。郁実は、自分でも、どんな顔をしているのかわからなかった。
「あなたは?」
郁実の心の声は、外に出ることはなかった。
「あなたは、いないの?」
そんな、郁実の心の声が届くはずもなく、美雪は笑顔で「ね。たくさん幸せがあるでしょ?」と言った。
郁実の目には、もう何も映っていなかった。
「帰ろう」
美雪がそう言ったが、郁実は「…どこにですか?」と答えた。美雪は、「そっか」と答えた。
「独りになりたい時もあるよね」
そう言うと、美雪は持ってた傘を郁実の肩にかけた。そして、そのまま踵を返すと小走りに去って行った。郁実を抱きしめる事も、両手で肩を持つことも、手を握ることも、しなかった。雨が傘に当たる「ざーーーーーーー」という音だけが、郁実の耳に響いていた。

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