「オレンジペコー」第2話。
あの事件の次の日。警察から聡に、あの男を捕まえたという連絡が入った。それからあの真っ赤なネクタイの男は見なくなり、数日経って、美雪もすっかり元気を取り戻した。相変わらず、朝、郁実と会うと、「おっはよ!」と言いながら背中を「バシッ!」とたたくのだった。いつもの朝を取り戻したことに、郁実は安心していた。
郁実も、わりと平和に過ごしていた。左腕に傷跡が残ったが、全く気にしていなかった。相変わらず父親はうっとおしかったが、「いつものこと」程度のことだった。
「コーヒー飲もう~」
花屋でのバイトからの帰り道。缶コーヒーを買おうと、いつもの空き地へ寄った。
「…あれ?」
そこには、美雪がいた。郁実は、そーっと近づいた。
「なにやってるんですか?」
「わっ!」
驚かせないように近づいたつもりが、逆に驚かせてしまったようだ。郁実が「すいません」と謝った。
「あぁ、郁実…」
「どうしたんですか?もう遅いですから、早く帰った方がいいですよ」
「うん、そうなんだけど…」
と、美雪は郁実の目を見ずに地面をキョロキョロと見回した。
「…何か、落としたんですか?」
「うん…」と美雪が話し出した。
「明日、会社で会議があるのよ。その会議で使う資料をまとめたデータが入ったUSBをね、落としちゃったみたいなのよ」
「あらら」
美雪が焦っているのが目に見えてわかった。
「会社に置いてきたって事はないんですか?」
「あるかもしれないけど…可能性は低いなぁ…。会社から帰るときに、しっかりカバンに入れたはずなのよ。で、今ここで紅茶買おうとして、財布を出したときに、何か落とした気がして…。で、カバンの中を見てみたら、そのUSBがなくて…。落としたのはそれだったのかもって」
「そうですか…」
しかし、今は夜の十時だ。女性がひとりで外にいるのは好ましくない。
「どんなのですか?」
「ミッキーの形の、黒いやつなんだけど…」
「黒のミッキー…」
黒と聞いて、郁実は残念に思った。明るい色なら、まだ少しは見つけやすかったのだが。
「やっぱり、今日はもう遅いから帰りませんか?こう暗くちゃ、見つかる物も見つかりませんよ」
「うん…」とは言ったが、帰る様子はない。
「明日の朝、ちょっと早めに来て、少し探してみましょう。明るい状態で探したら、意外と見つかるかもしれませんし。それでもなかったら、会社にあると思って」
「そうね…」
「ね、送って行きますから、帰りましょう」
郁実がそう言って、美雪はようやく、「わかった、そうするわ」と返事をした。送っていく帰り道、郁実が色んな話をしたのだが、美雪の顔から不安の色が消えることはなかった。
「送ってくれてありがとう」
「いえいえ。きっと、会社にありますよ」
「だといいんだけど…」
「俺も、朝早くに行って探すの手伝いますから」
「ありがとう」
「じゃ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
そう言って、美雪がドアを閉めた。
「ふわぁ~~~~~~あ」
郁実の口から、でかいあくびが出た。
次の日の朝。
美雪は、いつもよりも三十分早く家を出て、あの自販機の空き地へと向かった。こころなしか、早歩きになっていた。
「…え?」
空き地に着くと驚いた。郁実が、自販機に寄りかかって、いびきをかいて眠っていた。
「え、ちょっと。何してんの、あの子」
美雪が郁実に近づき、肩をたたいて起こした。
「ちょっと、何してんの?」
はじめ、郁実はぼーっとした様子だったが、すぐに「あぁ、おはようございます…」と目をこすった。そして、「あ」と自分のポケットを探った。
「これ、ありましたよ」
「え?」
ポケットから、黒いミッキーを取り出した。
「え、昨日からずっと、探してたの?」
「ははは。いや、見つけたら、眠っちゃったんですけど」
最後に「ふわぁ~~~あ」というデカいあくびを付け足した。
「もう、なんていい子なの」
美雪は、心の中から緊張や不安が一気になくなり、ほっとして、泣きそうな顔になった。郁実は、その顔が見れて良かったと思った。
「ありがとう。本当にありがとう」
「いえいえ。見つかってよかったです」
そう言って笑った郁実の頭を、美雪が優しくなでた。郁実が照れくさそうに「へへへ」と笑った。
「必ず、お礼するからね」
「はい。それより、時間大丈夫ですか?」
そう言われて、美雪が腕時計を見た。大体、いつもこの辺を通る時間だ。
「そうね、そろそろ行った方がいいかも」
「はい、行ってらっしゃい」
「ごめんね、今度、ちゃんとお礼するからね」
そう言って、美雪が立ち上がった。郁実は、「はい」と答えた。
「本当にありがとうね!」
そう言うと、美雪は駅へと向かった。その背中を見送り、郁実は再び目を閉じた。冬の冷たい空気の中、自販機が発する熱が背中に当たって心地よかった。少しすると、美雪が、首をかしげながら戻ってきた。
「…ねぇ?」
その声に、郁実が目を開いた。
「はい?」
「私が会社ってことは、あなたも学校行くんじゃない?」
「・・・・・ん?」
郁実がハッとした。
「そうだ!俺、別に休みじゃない!」
そう言って慌てて立ち上がり、リュックを拾った。
「行きましょう!」
そう言って、郁実が急いで歩き出した。
「はい、行きましょう」
美雪が笑いながら郁実の後に続いた。
「お前、昨日、家帰った?」
昼休み、友人が弁当を食べながら言った。
「なんで?」
「いや、なんか妙にきったねぇし…。それに、お前の教科書、昨日の時間割のままじゃねー?」
「あー、いや、まぁな」
郁実は、説明するのがめんどくさいので、適当にはぐらかした。友人が、心配そうな顔になった。
「…ついにか?」
「あぁ?」
「ついになのか?」
「だから、何がだよ」
「家、なくなったのか?」
「なくなってねーよ!」
郁実が笑いながら否定した。友人が郁実の肩に手をぽん、と置いた。
「ホームレスなのか?」
「ちげーよ!」
「ごめんな、うちはもう空いてる部屋ないんだ」
「いらねーよ!」
「あそこ住めば?あの、自販機のある空き地」
「そこ住んだら、それこそホームレスだろうよ!」
二人で笑った。それを周りで聞いていた数人のクラスメイトも笑っていた。
「…それ、全部食べるの?」
美雪が目を丸くした。美雪が、「お礼に」と、バイキング形式の食べ放題に誘った。郁実の目の前には、軽く五人前はあろうかという量のごちそうが並んでいた。
「はい。全部食べてからじゃないと、おかわり行っちゃいけないルールみたいで」
「えっ」
「えっ?」
美雪は「おかわり」という言葉が信じられなかった。
「あぁ、うん、そっか。たーんとお食べ」
「はーい」
郁実が食べ始めると、目の前の料理がみるみるうちになくなっていった。美雪は、その光景に目が釘づけになり、思わず、「あら~」という声が漏れた。
「これ、ありがとうね」
美雪が、黒いミッキーを取り出した。郁実が、食べ物を口にほおばりながら、「ひへひへ」と右手を横に振った。
「本当に助かったわ。ありがとう」
そこで、やっと口の中のものが飲み込めた。
「いえいえ。会議は大丈夫でしたか?」
「うん。無事に終ったわ」
「それは良かったですね」
「郁実のおかげだよ、ありがとう」
「こっちこそ、こんなご馳走、ありがとうございます」
そう言う郁実は、デザートの時間に入っていた。もちろん、一人前ではない。
「私は、郁実に助けられてばっかりね」
「…そんなことありませんよ」
「ストーカーだってやっつけちゃうし…」
「あー、ははは」
美雪の視線が、自然と郁実の左腕に移った。
「…傷跡、ちょっと残っちゃったわね」
郁実は「ふふふ」と小さく笑うと、「カッコイイでしょ?」と自慢げに言った。
「…ねぇ?」
美雪がそう郁実を呼ぶと、郁実は「はい?」と口の中にケーキをほおばりながら美雪の顔を見た。
「私は、郁実の、なんなのかね?」
「なんですか、それ」
「郁実は、私に優しいね。私の目の前に障害物ができると、郁実がどかしてくれる。私の力じゃ重くて動かせないぐらいのものでも。そこまでしてもらえる私は、郁実にとって、なんなんだろうと思って」
美雪が、頬杖をついて郁実を見た。
「ん・・・」
郁実が持っていたフォークを皿の上に置いた。
「俺、なんにも出来なかったんです」
「え?」
「母さんが出ていくとき、俺、なんにも出来なかったんです。あの人を助けるために。せめて、負担をかけないようにってしか、出来なかったんです」
「うん」
「それが、悔しかったんです。力がない自分が」
「…そんな事ないわよ」
「だから、あの時決めたんです。大事な人が困ってたら、全力で助けるって」
「…そっか」
「はい」
「じゃあ、その気持ちを、守れてるわね」
「…だといいんですけど」
「守れてるわよ」と美雪が紅茶をすすった。そして、カップを置くと、もう一度、「そっかぁ」と言った。
「大事な人かぁ」
美雪がニヤニヤして郁実を見た。郁実の目がものすごい速度で泳ぎ、喉元から「ごぷっ」という聞いたことのない音が出た。
「ちがいますよ?ちがいますよ?」
郁実が慌てた。
「その、大事な人って、あれですよ?」
「なにですよ?」
「お姉ちゃんですよ?」
「お姉ちゃん?」
「はい、お姉ちゃんです。そういう、大事な人です」
美雪が、頬杖をついたまま、郁実の目を下から見上げた。郁実は思わず視線を美雪からケーキに移した。
「ふーん、そっか」
と、美雪は紅茶をすすった。心の中で「本当にわかりやすいなぁ」と思いながら「お姉ちゃんかぁ」と微笑んだ。
「ちょっと、コーヒー買ってきていいですか?」
「ん、いいよ」
郁実が近くで光っていた自販機まで軽く走った。その間、美雪はスマホで時刻を確認した。
「どうぞ」
郁実が美雪に小さいペットボトルを差し出した。ストレートの紅茶だった。
「あら、ありがとう」
「いえいえ」
美雪がペットボトルのふたをひねった。
「しかも、ちゃんと紅茶だもの。わかってるわね」
「いっつも紅茶飲んでるじゃないですか」
「君は偉いねぇ。あの男なんか、な~んにも気づきやしないのよ?」
「そうなんですか」
郁実が苦笑いした。
「そうなの、いっつもコーヒー買ってくるの。紅茶の方が好きなのに」
美雪が笑いながら紅茶を口にふくんだ。郁実には、その顔が少し寂しげに見えた。
「いらっしゃい…あら、珍しい」
「おう」
郁実がバイトする花屋に、聡が現れた。
「プレゼントですか?」
「そんなガラじゃないよ」
聡がカウンターに腰を預けた。郁実は「喜ぶと思いますよ」と言ったが、聡の耳には届いてない様子だった。
「お前、今いくつだっけ?」
「高二です」
「高二か…」
「はい」
郁実は、「知らなかったのか」と心の中で少し呆れて苦笑いした。その郁実に、聡が唐突に言った。
「お前は、将来はどうするんだ?」
「え?」
「夢とかあるのか?」とつづけた。
郁実は「急にどうしたんだ?」と思いながら「ん~、いろいろ考えてるんですけど…」と話し出した。
「アクセサリーのデザインやりたいんです。それで、今、勉強中なんですけど」
「あぁ、知ってる。あいつから聞いたよ」
「でも、お花も好きですし。自分で店を持つのも、楽しいかなぁって…」
「迷ってます」そう言って、郁実は笑った。
「いいじゃんか、どっちも叶えたら」
聡が当たり前のように言った。
「え?」
「どっちも叶えちゃえばいいんだよ。花屋もやるし、アクセサリーも作る。どっちかしかできないなんてことはないだろ」
「なるほど…」
「男はよ、夢はあきらめちゃいけねぇんだよ」
聡が、語りだした。
「夢ってのは、いわば、将来の仕事だろ?仕事ってのは、武器だ」
「武器」
「そう。家族を守るための武器だ。その武器は、自分の使いやすい武器でなきゃいけない。戦いの場でよぉ、自分の手に持ってる得物が使いづらくちゃ、まともに戦えないだろ?」
「なるほど。確かにそうですね」
郁実は、「うまいこと言うなぁ」と思った。とても説得力のある話だった。
「そう。だから、自分のやりたいことを仕事にするんだよ。夢を叶えるんだよ。じゃなきゃ、家族守れないぞ。だから、お前は、ちゃんとどっちも叶えろ」
郁実は、「はい、頑張ります」と答えた。
「聡さんは、その武器、手に入れたんですか?」郁実が聞いた。
「俺もいま、頑張ってる途中」
聡がにやりと笑った。郁実が「途中ですか」と答えた。
「でも、いまやってる仕事は、自分のやりたかった仕事なんですよね?」
聡は、出版社に勤めていた。
「おう。でも、俺の夢は、もう一歩先なんだ」
「もう一歩先?」
「うん。俺は、自分の雑誌を持ちたいんだ」
「へぇー、いいですね」
「それが叶っていない今は、まだ、武器を持ってるとは、言えないなぁ」
「そうですか…。でも、近いところまでは来てるんですね」
「まぁな」
「あと少し、だと思う」と聡がつぶやいた。
「あと少し」
「うん。明日、それを実現させるための一歩になる、大事な仕事があるんだよ」
そう言う聡の表情は、少し、緊張を帯びていた。郁実は、今までの聡の話は、人に話すことで、自分に言い聞かせてるのだと理解した。
「これが叶ったら、あいつも、喜んでくれるんだろうな」
聡が郁実の目を見た。郁実も、「きっと、喜んでくれると思いますよ」と答えた。聡が「へへへ」と嬉しそうに笑った。
「…あ、忘れてた」
「え?」
「いや、差し入れにコーヒー買ってきてたんだった。忘れてた」
「あ~、ぬるくなっちゃってんなぁ~」と言いながら、聡がコートの両ポケットから缶コーヒーを二本取り出し、一本を「ほらよ、ぬるいけど」と郁実に渡した。郁実は「いえ、ありがとうございます」と受け取った。
「あ…」
「ん?」
郁実の漏らした声に、聡がコーヒーを口に流し込みながら反応した。
「あの、あの人は紅茶の方が好きみたいですよ?」
「…美雪?」
「はい」
「…そうなの?」
「みたいです」
「そっか。そういや、あいつ紅茶よく飲んでるな。なんだっけな、みかんみたいな名前のやつ」
「オレンジペコーですよ」
「そう、それ!お前、よく知ってんな!」
「いや、知らないですよ、何も」
「いや、いい事聞いたよ、ありがとう」
郁実がコーヒーのふたを開け、一口飲んだ。確かに、すっかりぬるくなっていた。
その週の土曜日。
美雪と聡は、久しぶりに一緒に出掛けていた。お互いの仕事が忙しくて、なかなか予定が合わず、約二ヶ月ぶりのデートとなっていた。
大きい駅に隣接した複合商業施設に行き、映画を見たあと、レストランでランチを食べ、ショッピングモールでお互いの見たい店を見るという地味でありきたりなプランだったが、二人は思いっきり楽しんでいた。
ショッピングモールを歩いている時、聡のコートの裾を、「ぐいぐい」と下から引っ張られた。
「ん?」
聡が下を見ると、小さな男の子が見上げていた。
「ねー?何食べたらそんなに大きくなるの?」
「え?」聡は、純粋な子供の質問が微笑ましく、思わず笑ってしまった。
「なんで?」
「みーちゃんがね、背の高い人が好きだって言ってたから」
「ははは」純粋な質問のあとに、急に大人びた言葉が返ってきて、思わず大声で笑ってしまった。そこに、「すいません!」と高校生ぐらいに見える小柄な女の子が小走りに近寄ってきた。
「こら、だめでしょ」
「すいません」と女の子は美雪に頭を下げた。そこで、この女の子が男の子の母親だとわかった。美雪も「いえいえ」と笑顔で対応した。聡が男の子の前にかがんだ。
「お母さんが作ってくれたご飯を、好き嫌いせずに全部食べたら、大きくなれるよ」
「お野菜も?」
「うん。お野菜も」
「そっかー」
「ほら、ゆうくん、お父さん待ってるから行くよ」
「はーい」
母親が男の子と手をつなぎ、「すいませんでした」と二人に何度も頭を下げて、近くに寄ってきた父親の元に歩いて行った。聡と同じぐらい背の高い父親は、男の子よりも小さい赤ん坊を抱いていた。美雪が「ゆうくん、ばいばーい」と手を振り、男の子も「ばいばーい」と手を振り返した。聡は男の子の父親と会釈で挨拶し合った。
「お父さんに似るといいなぁ」
「そうねー」
聡と美雪は、家族を見送りながら、その姿に、将来の自分たちの姿を重ねて考えていた。
「…私たちも帰ろうか」
「…そうだな」
二人は、駅に向かった。
「ちょっとコーヒー買って来ていいか?」
自宅の最寄りの小さな駅に着くと、聡がそう言って自販機に走った。美雪は「うん」と言いつつ、スマホをいじった。
「…あ」
聡が、いつものようにコーヒーを二本買おうとして、手を止めた。そして、二本目は紅茶のボタンを押した。
「お待たせ」
そう言って、聡が紅茶の小さいペットボトルを差し出した。
「ありがと」
と美雪は、スマホの画面を見たまま、軽い感じで受け取ったのだが、受け取ったものが缶でない事に気づき、自分の手を見、その後、聡の顔を見上げた。
「…紅茶?」
「うん。好きなんだよな」
美雪は嬉しくなって、くしゃっとした笑顔になった。
「やっとかぁ~」
そう言いながら、くしゃくしゃの笑顔のまま、ペットボトルのふたをひねった。
「あぁこれな、あいつから言われてさ」
聡からそう言われ、美雪のふたをひねる手が止まり、顔から笑顔が消えた。
「…え?」
「いや、これさ、あいつが教えてくれたんだよ。お前は紅茶の方が好きだって」
「…あの子が?」
「そう。あいつ、いいやつだよなー」
聡は笑顔でそう言ったが、美雪の顔は曇っていた。そして、「はぁ…」と大き目のため息をついた。聡は、美雪の意外な反応に少し戸惑った。
「あなたって、なんでそんなに優しくないの?」
「…はぁ?」
美雪には郁実の顔が浮かんでいた。
「あなたは本当に優しくない。そして、弱いわ」
「私はね、あなたが私の事を考えて、そして気が付いて、それで、こうしてくれたから喜んだのよ。誰かから『教えられたから』でこうされても、嬉しくもなんともないわ」
「なんだよ、怒ってんのかよ」
「ストーカーに追われた時だって、あなたは戦ってくれなかったじゃない!」
「いや、あの時は…」
「強くもなければ、優しくもない!本当に優しくない!」
「悪かったよ、ごめん」
「あなたの言うことがもし本当だとしたら、あの子は本当に優しいわね。そして、強いわ」
「本当に強い」そう言いながら、美雪は、郁実が言った「大事な人です」という言葉を思い出していた。
「少しは見習ったら?」と、少し挑発的に言った。聡は腹の底が燃え上がる思いがし、その熱を吐き出すように言った。
「弱いだの、優しくないだの!いい加減にしろよ!弱かろうが、優しくなかろうがな、俺はこういう性格なんだ!これが俺なんだよ!」
聡がそう言い放つと、美雪の顔が、怒りと悲しみと疑問が混ざった、歪んだ表情に変わっていった。
「これが俺?」
美雪の声は震え、目は涙でいっぱいになっていた。
「じゃあ、私は何なのよ!」
その言葉に、聡の顔から、苛立ちと疑問が表れた。
「はぁ?」
「それがあなただって言うんなら!私はいったい何なのよ!」
「なにがだよ!」
「好きな人からも優しくされない私っていったいなんなのよ!って言ってんのよ!」
聡は、返事を返せなかった。
美雪は、今日一日、ずーっと楽しかった。本当に楽しかった。体中に幸せが満ちた日だった。そこに、聡の一言で、ほんの少しの不純物が混じってしまった。普段なら、それぐらいの事は気にならない。しかし、百点の幸せが手に入りそうになった時に、九十九点になってしまった。その失った一点が、美雪の悲しみにスイッチを入れてしまった。
美雪は、立っていられなくなり、その場にへたり込んだ。
「私の幸せ、どこにあるのよ!」
そのあと、美雪は言葉にならない声をあげて、ただただ泣き続けた。
「あ・・・」
郁実の、バイトからの帰り道。自販機のある空き地まで来ると、聡がいた。聡は、少しばつが悪そうに右手を挙げて「おう」と言った。郁実も、会釈で返した。
「ちょっと、いいか?」と、聡が空き地を指さした。郁実は、「はい、いいですけど…」と返事をし、二人で空き地の中へと入った。そし古びたベンチに座り、聡は自販機へと向かった。
「九時半か…」郁実はスマホで時刻を確認すると、そのタイミングで、聡が自販機から郁実に向きなおり、「コーヒーでいいよな?」と、微糖のコーヒーを差し出した。郁実は「あ、ありがとうございます…」と財布を出したが、「いいよ、そんくらい」と聡は断った。郁実は、「すいません」と、ポケットに財布をしまうと、「いただきます」と言って缶を開けた。郁実が、「ずずっ」と音を立ててコーヒーを飲んだ。聡は、ふたを閉じたままの缶コーヒーを手に握ったままベンチに座った。そして、しばらく黙ってしまった。郁実は、気になりつつも、コーヒーを飲みながら黙って待つことにした。
「なぁ」
「はい?」
それっきり、聡はまた黙ってしまった。郁実はまた返事を待ち、「ずずっ」とコーヒーをすすった。
「なぁ」
「はい?」
聡がコーヒーの缶のふたを開け、すっかりぬるくなってしまったコーヒーを一口飲んでから話し出した。
「強さって、なんだ」
「なんですか、急に」
「いやな、あいつに言われちゃったんだよ。お前を見習えって」
「…何かあったんですか?」
「…まぁ、ちょっとな」
「…そうですか」
「強さ…ですか」と郁実がつぶやいた。聡が、「うん」と返事をした。
「優しさ、じゃないですかね」
「…優しさ」
「えぇ。強くないと、人に優しくできないし、優しくないと、その人は強いとは言えない気がします」
聡は、美雪の言った「あの子は本当に優しい。そして、強いわ」の言葉を思い出した。
「優しさって何だろうな」
「自分の気持ちを殺せるってことじゃないですかね」
「自分の気持ちを殺す?」
「えぇ。自分の気持ちは勘定に入れないで、相手のことを考える。それが、優しさだと思います」
「そしたら、自分が死んじゃわないか?」
「自分の気持ちを殺しても、自分の魂は死なない。それが、強さです」
「…なるほど」
聡は頭のなかで、「強さとは?」の郁実の答えを繰り返していた。
「お前は、強いな」
郁実は、一度、聡の目をみると、少し笑った。
「はい。俺は強いですよ」
そういうと、聡も「ははは」と笑った。
「否定しねぇんだな」
「えぇ」と言った後、郁実は「だって、」とつづけた。
「俺が自分の強さを疑ったら、生きていけないですから」
今度は、聡が郁実の目を見た。
「俺は、お前のその強さが羨ましいよ」
郁実は、「別に、あなたは強い必要がないじゃないですか」と言った。
「あなたには、すぐそばに幸せがあるじゃないですか。俺は、自分が強くなければ、自分の平穏を守れません。でも、あなたには、すぐそばに幸せがある。それに、その幸せも、あなたのそばにあることを幸せに感じている。絶対的じゃないですか。あなたが強くいる必要なんて、これっぽっちもないじゃないですか」
「でもこの前、俺が弱いせいで、その幸せとケンカしちゃってよ…」
「ほら」
聡は「ん?」と郁実を見た。
「いま自分で『幸せ』って言ったじゃないですか。そういうことですよ」
聡の胸の中に、何かがストンと落ちた気がした。郁実は、微笑んでいた。
「お前、何でそんなに早く答えが出てくるんだ?」
「お花から教わりました」
「花?」
「はい。お花は、ただキレイに咲いて、人の幸せな場面を彩ったり、悲しみをやわらげたりするだけです。そのあとは、食べてもらう事も、供養してもらう事もなく、ただ、散っていきます。自分の都合や気持ちなんてありはしない。強くて、優しい。だから、あんなにキレイなんだと思うんです」
「お前は、花を見習ってるってことか」
「こんないびつな見た目の花なんかないですけど」そう言って郁実が苦笑いした。
「でも、あなたは弱くないと思います」
「なんで?」
「だって、『強さ』を俺に聞きにきたじゃないですか。ふつう、嫌ですよ。好きな人から『見習え』って言われたやつに聞きにくるって」
「そうか…?」
「えぇ。自分を強く見せたいやつは、自分より弱いやつを探すんです。強くなりたいと思ってる人は、自分より強い人を探すんです。少なくともあなたは、強くなろうとしてる。弱くは、ないですよ」
「少なくとも」と、郁実は一度息を吸った。
「少なくとも、あなたのそばの幸せを、守るぐらいの強さはありますよ」
「大丈夫ですよ」と、郁実は聡の肩に手を置いた。聡は、「ありがとう」と頭を下げた。郁実は「とんでもない」という意味を込めて、微笑みながら首を横に振った。
「でも」
「ん?」
「俺よりは弱いですけどね」
そう言うと、郁実がニッと笑った。聡が「うるせぇよ、コノヤロー」と郁実の頭をはたくと、二人で笑った。
「でも、そうか…」と聡がつぶやいた。
「…うん」そうつぶやくと、聡の目が何かを決意した目になった。その目の変化を、郁実は見逃さなかった。
「なぁ」
「はい」
「ひとつ、お願いがあるんだけど」
「何ですか?」
聡は、郁実にひとつ、頼み事をした。
「うれしいです。でも、俺で、いいんですか」
「お前に、頼みたいんだ」
「わかりました。お受けします」
郁実は、笑顔で引き受けた。
聡が、美雪を空き地に呼び出していた。
「なによ、急に」
美雪には、聡に対しての怒りが、まだ少し、残っているようだった。しかし、出てきてくれたという事は、許そうという気持ちもあるのだろうと、聡は踏んだ。聡は、ベンチから立ち上がり、頭を下げた。
「こないだは、ごめん」
美雪からの返事はなかった。美雪は、腕を組んだまま、聡をまっすぐ見ていた。
「あの後、あいつの所に行ったんだ」
「あの子の?」
「うん」
「見習え」とは言ったものの、本当に行ったと聞くと、美雪は少し驚いた。
「あいつは…すごい。お前の言う通り、あいつは強いし、優しい。俺の強さじゃ到底敵わない」
美雪は黙って聞いていた。
「あいつは、花を見習って生きているらしい。花は、あいつよりも、強くて優しいんだそうだ。正直、俺には花の強さや優しさは、まだ、理解できない。それが理解出来るほどの強さも優しさも、持ってないんだと思う」
「…うん」
「ただ、これから少しずつ、強さや優しさを身につけていきたいと思う。だから、お前には、その俺の成長を、見守ってほしい」
「…うん」
「あの時、戦ってやれなくてごめんな」
美雪が首を横に振った。
「これからは、美雪が何が好きか、何をすれば喜ぶか。ちゃんと気が付いてやれるように努力するよ」
美雪が、小さく微笑んだ。
「あの時は…、いや、今まで、本当にごめん。申し訳なかった」
聡が、もう一度頭を下げた。美雪が「ふぅ」と息を吐いた。
「いいよ。許してあげる」
美雪が、ニッコリと笑った。その笑顔を見て、聡も安心して笑顔になった。
「ありがとう」
「ううん。私も、言い過ぎたと思う。…それにストーカーの時も、あの時、あの子も言ってたけど、あなたはそばにいてくれたわ」
そう言って、美雪が微笑み、聡も微笑み返した。
「それでな、今日は、もう一つ言いたいことがあるんだ」
「何?」
「その、俺よりも強いあいつから、俺は『弱くはない』って言ってもらえたんだ。俺のそばにある幸せを守る強さは持ってるって」
「うん」
「だから、自信を持って言う。あのとき、美雪は言ったよね。『私の幸せ、どこにあるのよ』って」
「うん」
「その言葉に、答えを出すよ」
聡は、まっすぐに美雪を見た。
「幸せは、あなたのそばにあります」
「僕が、ずっと、そばにいます」
「結婚してください」
聡はもう一度深々と頭を下げた。
美雪は、驚き、そして、幸せな感情が湧き上がり、口に手を当て、涙を流した。聡が、顔を上げて美雪を見た。美雪は、指で涙をぬぐうと、
「はい」
と返事をして、優しく、微笑んだ。
「…お前、今日も残るのか?」
「はい、もう少し。いいですか?」
「俺は構わないよ。ただ、あんま無理すんじゃねぇぞ」
「はい、ありがとうございます」
「おう、じゃあ、またな~」
と言って、師匠は帰って行った。その背中を、郁実は頭を下げて見送った。
「よし…」と、郁実が作業に戻ろうとしたとき、頬に冷たいものがふれ、「ひゃあ!」と男らしからぬ声を上げた。振り返ると、缶コーヒーを持った師匠が「へっへっへ」と笑っていた。
「なんですか、もう~」
「へっへっへ、すまんすまん。コレ」
と、師匠が缶コーヒーを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
「部屋ん中あったけぇから、アイスでいいだろ?」
「はい、嬉しいです」
「…大事な仕事なのか?」
「はい?」
「それ」
師匠が、郁実が製作している指輪のデザイン画を示した。
「あぁ…はい、すごく」
「コレかい?」
と、ニヤついた顔の師匠が左手の小指を立たせた。
「違いますよ!」
「でも、ペアじゃん」
ノートには、大きい指輪と小さい指輪の二つが描かれていた。
「そうなんですけど、俺とじゃないです」
「…でも、大事なんだ?」
「…はい」
「ふーん、そうか」
師匠が、郁実の頭をガシガシと撫でた。
「じゃあ、こんどこそ本当に帰るわ」
「はい。コーヒー、ありがとうございます」
「おう。戸締りだけちゃんと頼むぞ」
「はい、もちろんです」
「じゃ、またな~」
そう言って、師匠は帰っていった。郁実はまた、頭を下げてその背中を見送った。ドアの閉まる音を聞いてから頭を上げると、缶コーヒーのふたを開け、一口飲んだ。
「…さて、やるかー」
郁実は作業に戻った。
工房での作業に没頭してしまい、帰りが遅くなってしまった。時刻は、十時を回ろうかという所だった。しかし、充実したいい時間だったと、郁実は満足していた。冬の、冷たい帰り道。今度は、あったかいコーヒーが飲みたいと思っていた。
「…あ」
あったかいコーヒーを求め、空地に入ると、ベンチに座る美雪を見つけた。美雪は、何も言わず、笑顔で手を振った。郁実は、小走りに美雪に近寄った。
「おめでとうございます」
そう言って、頭を下げた。美雪も、「ふふふ、ありがとう」と、膝の上で手を重ね、頭を下げた。
「今日は、何を探してるんですか?」と郁実がからかった。美雪が、「ふふふ、郁実をね」と笑った。
「…もしかして、待ってました?」
「ちょっとね、郁実と話したいなぁと思って」
「すいません。連絡くれれば、早く帰ってきたんですけど…」
「いいの、気ままに待ってただけだから」
美雪はまた、「ふふふ」と笑い、郁実の顔を、左手で指さした。
「なんですか?」郁実が笑った。
「あなた、本当に私たちの結婚を喜んでくれてる?」
美雪も、少しからかうように笑った。
「もちろん、喜んでますよ。本当に、心から」
美雪は、「本当に~?」と、笑いながら郁実に向けた人差し指をくるくると回した。
「私は、この目で見たものしか信じられないのよ」
「証明できる?」と、郁実の顔を覗き込んだ。
「すぐ、わかりますよ」
郁実は、そう言ってほほ笑むと、自分に向けられた人差し指をつかまえた。そして、そのほかの指を優しくほどくと、薬指を右手でにぎった。
「うん」
そう、うなずくと、郁実は「じゃあ、帰りましょうか」と言って、歩き出した。美雪も、「そうね」と言って後に続いた。無意識に、左手をぎゅっと握った。
「それでは、指輪の交換を」
神父が言うと、新郎が新婦の左手をとり、薬指に指輪をはめた。
「これな」
新郎が言うと、新婦が新郎の顔を見た。
「この指輪な、あいつが作ったんだ」
新婦が指輪を見つめた。サイズもぴったりだった。
「わかった。信じるわ」
「ん?」
「んーん。なんでもない」
