「オレンジペコー」第5話。

 「あ~~~~~~~~~~」
「なんですか、急に!店に来るなりうなだれて!」
聡が、郁実の花屋を訪れるなり、レジカウンターに突っ伏して謎の声を出した。
「お客さんいらっしゃってるんだから、シャキッとしてください」
店では、二人組の女性が花を選んでいた。店に時々来る二人組で、季節ごとに、鉢植えを買っていくのが定番だった。女性たちが聡を気にしたので、郁実が「どうぞ、ごゆっくり選んでください」と笑顔で言った。
「ネタがねぇんだよ~~~~~」
「はい?ネタ?」
「『オレンジペコー』に載せるネタがねぇんだよ~~~」
「あぁ、それでうなだれてるんですか」
「そうなんだよ、もう締め切り近いのによ~~」
そこで女性二人がレジカウンターにやってきた。同じ種類の色違いの花を、それぞれが持っていた。郁実が店員の顔になり対応した。郁実が鉢植えを袋に入れている間、女性二人は郁実の作ったアクセサリーを見て盛り上がっていた。
「ありがとうございました~」
郁実が女性二人を見送ると、入れ違いでまた女性が入ってきた。
「お前の店、女性ばっかだな」
聡が言った。体勢は相変わらず、カウンターに突っ伏したままだ。
「そりゃ、花屋ですから。男性が来ることは珍しいですよ」
「まぁ、男が花屋には入りづらいわな~」
「別に、こっちが入りづらくしてるわけじゃないんですけどね」
「…ん?」
聡が体勢を起こした。
「これだ!」
「はい!?」
「花屋だ!男性向けの花屋を特集するんだ!花の買い方とか選び方、シチュエーションに合わせたプレゼント用の花とか!」
「…あぁ、なるほど!」
「あぁ~、なんで気づかなかったんだろ!こんなに近くに花屋がいたのに!」
「そういえばそうだなぁ」と郁実も思った。
「お前さ、知り合いで男がやってる花屋知らない?」
「…まぁ、いくつかは知ってますけど…。どうするんですか?」
「いやな、どうしても、店員が女性だと入りづらいんだよ。ちょっと恥ずかしいってのもあるし。でも男性が店員なら入りやすい。だから、男性が店員の、男でも入りやすい花屋を紹介するんだ」
「あ~、それいいかもしれないですね!」
「よし、じゃあ、まずはお前、頼むわ!」
「俺ですか?」
「あ、嫌なら無理にとは言わないけど…」
「いやいや、もちろん、OKですよ!むしろ、ありがたいです」
「じゃあ、次来るときに、質問内容まとめておくよ!そん時はよろしくな!」
「はい、お待ちしています」
聡は、意気揚々と帰って行った。郁実も、聡の仕事に力を貸せることが嬉しかった。

 郁実は、本屋に来ていた。『オレンジペコー』の発売日だ。
「…あれ」
しかし、探しても見つからなかった。
「休刊なのかな…」
そう思い、近くにいた若い女性の店員さんに声をかけた。
「すいません」
「はい、いらっしゃいませ」
「今日、『オレンジペコー』の発売日だと思うんですけど…」
「あー、あれ、もう入ってこないんですよー」
「え?」
「私も、結構好きだったんで、残念なんですよ。あの雑誌、男性誌だけど、女性にとっても嬉しい情報が多くて」
「…この店では扱いをやめちゃうってことですか?」
「あぁ、いえ、なんか、廃刊になっちゃったみたいで」
「廃刊!?」
「はい、うちでは割と売れてたんですけどねー」
「売れてたのに、廃刊ですか…」
「んー、固定ファンはいたみたいなんですけど、あんまり、広がらなかったみたいですね…」
「そうですか…。ありがとうございます」
「はい」と、女性は笑顔でお辞儀をした。郁実も、それにお辞儀で返した。礼儀正しくて、素敵な店員さんだと思った。あんな人がファンだったことは、聡にとっても嬉しいことだっただろう。しかし。
「廃刊か…」
あの日、嬉しそうに報告に来た聡の顔が浮かんだ。

 「…あ」
「あ、聡さん…」
本屋からの帰り道、目の前に聡がいた。郁実は、「なんてタイミングだ」と思った。聡の目に、郁実の手にある本屋の紙袋が見えた。
「…本屋行ってたのか」
「…はい」
「…そうなんだ、廃刊になっちまった」
「あ、いや…」
「へへへ。丸腰になっちまったよ」
聡が頭をボリボリとかいた。
「…大丈夫ですよ。また、新しい武器が手に入ります」
「…だといいんだけどな」
そう言った聡の目は、少し涙ぐんでいた。
「ごめんな。店、紹介してやれなくて」最後にそう言うと、聡は立ち去ってしまった。郁実は、かける言葉がみつからず、「あ、いえ…」と聡を見送った。
 
 「ただいま」
「おかえりなさーい」
家に帰った聡を、ちひろが玄関まで走り、出迎えた。聡は「うん」と答えると、ちひろの横を通り過ぎ、さっさと自分の部屋に入ってしまった。その聡の様子に、ちひろは悲しくなってしまい、美雪の元へ行き、無言で抱き着いた。美雪は、そっと抱きしめると、頭を優しく撫でた。
 最近の聡の様子は、ずっとこんな感じだった。家族に八つ当たりをするような事はなかったが、会話は最低限のものしかなく、暗い雰囲気を漂わせ、静かで、イライラしていた。美雪は、はじめは聡の気持ちを汲んでそっとしておいたのだが、次第に、聡を心配するちひろが可哀想になってきてしまった。

 「…変わらないわね」
美雪が、スーツから着替えている聡に声をかけた。聡は、チラッと美雪を見たが、すぐに視線をクローゼットに戻してしまった。
「なにが?」
「弱いわ。あなたは昔っから何も変わらない。弱いままよ」
美雪が聡をにらみつけた。聡は、「弱いままよ」の一言が体中に響くのと同時に、はらわたが煮えくり返る思いがし、ジャケットをかけたハンガーを「ガチャン!」と音を立ててラックにかけた。そして、何かを言い返そうと美雪を見た。だが、美雪がそれを遮るように、すぐに言葉を続けた。
「仕事が一個ダメになったぐらいで、何をそんなにイラついてるのよ。それで家族に心配かけて、ちひろにまで悲しい顔させて。あなたの仕事ってなんなのよ。自分の生きがい?自分のためのものなの?違うでしょ?家族を守るためのものでしょ?言ってたわよね?家族を守るための武器だって。でもね、その武器がどんなに強くてもね、使う人間が弱ければ意味がないのよ。武器にばっかり頼ってんじゃないわよ、みっともない」
美雪が、そう言い捨てた。「みっともない」の言葉に、聡は、怒りよりも悲しみがこみあげてきた。聡の悲しい目を、美雪も見てしまった。美雪は思わず目をそらした。美雪に目をそらされた聡は、「…そうか」とだけ言い、美雪の横をすりぬけ、家を出て行ってしまった。
「ほら、逃げる。やっぱり、弱いじゃない」
美雪は、ひとりでつぶやいた。

 「あ、いらっしゃいませ」
郁実の花屋を訪れた客は、美雪だった。
「こんにちは」
「どうしたんですか?」
「いや、明日ね…」
「明日?」
「…こないだ、ここでちひろがお花の絵を描かせてもらったでしょ?」
「あぁ、はい」
「その絵が、コンクールで入選したのよ」
「え!?すごいじゃないですか!おめでとうございます!」
「確かに上手だったもんなぁ」と郁実が感心した。
「そう、だから、明日、それのお祝いしようかと思って」
「いいですね。花束ですか?」
「ん~、そんなに大きいものじゃなくていいわ。ブーケぐらいの」
「わかりました。作りますね」
「ちひろちゃんの好きな色はピンクだったな…」と郁実が頭の中で考え始めた。
「あぁ、いや、今じゃなくていいわ」
「え?」
「明日、うちまで届けてくれない?」
「…えぇ、いいですけど」
ちょっと、不思議に思った。花束ならわかるが、小さいブーケなら、今持ち帰っても問題ない。そう思っていると、美雪が「それで、そのままパーティに参加してくれない?」と言った。ますますわからなかった。
「それはいいですけど…。邪魔じゃありません?せっかくだから、家族水いらずの方が」
「いいの」
美雪が、「それ以上聞くな」と言わんばかりに語気を強めた。
「いいの。あの人、帰ってこないから」
「…そうなんですか?」
美雪が、少し大きめのため息を吐いてから、ポツポツと話し出した。
「あの人の雑誌が、ダメになった時にちょっとケンカして…。それ以来、帰ってきてないわ」
「…そう、ですか」
「そう。だから、二人じゃさみしいから、来てくれるんなら、来て」
郁実は、それ以上何も聞くことはせず、「はい、わかりました」と答えた。

 「お花屋さんだ!」
小さな女の子が、郁実の足元に駆け寄った。
「お花屋さんだよー。入選おめでとう」
そう言って花のブーケを手渡した。ちひろは、「わーい!」とピンク色のブーケを両手で抱きしめた。
「これは、俺からね」
と、花の形のペンダントをプレゼントした。ちひろは飛び跳ねて喜んだ。小走りにお母さんのところまで行くと、「つけて~」と差し出した。美雪がかがんでペンダントを首にかけてあげた。すると、ちひろは洗面所まで駆け出し、鏡で自分の姿を見ながら、可愛らしいポーズをいくつもとった。
「これ、運びますね」
「ありがとう」
郁実が、美雪がキッチンで用意したごちそうをテーブルに運んだ。少し、家の中を見回した。わかっていたことだが、やはり、聡はいなかった。
 準備が整うと、美雪がちひろを呼んだ。ちひろは「はーい」と走って来た。テーブルに並んだごちそうを見て、「すご~い!」と喜んだ。しかしその後、ごちそう、美雪、郁実の順番に視線を移すと、また美雪を見上げた。
「…お父さんは?」
美雪は、言葉に詰まってしまった。
「…いないの?」
「うん…。ごめんね」
「うん…」
ちひろは、うつむいた。
「お母さんは、お父さんを嫌いになっちゃったの?」
「そうじゃないの。そうじゃないんだけど…」
「お父さんとお母さんが仲良くないの、悲しいの」
「うん…」
美雪は、一つ息をつくと、ちひろの前でしゃがみこみ、両手でちひろの肩を持ち、目を見て言った。
「確かに最近、お父さんはいないし、お母さんは笑ってないね。ごめんね。家の中も、空気が暗いね。ごめんね」
「でもね」と、美雪はつづけた。
「でもね、あなたのそばには、たくさんの幸せがあるのよ。それは、わかってようね」
そう言って美雪は微笑んだ。ちひろは、首を傾げてこう言った。
「それをわかったら、お父さんとお母さんは仲良くなる?」
美雪は、この質問には、答えられなった。

 「さっきの会話…」
郁実が、空いた食器を重ねている美雪に話かけた。ちひろは、ごちそうを食べ終えておなかがいっぱいになり、自分の部屋でぐっすりと眠っていた。
「ん?」
「さっきの、あなたとちひろちゃんの会話」
「…あぁ、聞いてた?」
「えぇ。すいません」
美雪が郁実の顔をチラッと見た。
「別に、いいわよ、謝らなくて」
「ただね」と美雪は言葉を続けた。
「ただ、あの子にはわかってて欲しいのよ。いつだって、自分の周りにはたくさんの幸せがあって、それに囲まれて生きてるってことを」
郁実はだまって聞いていた。
「だってそうでしょ?いくら大きな幸せが目の前にあったって、それに気づけなきゃ、幸せになんてなれないわ」
「それは、そうですね」
「でしょ?」と美雪は笑顔を見せた。その笑顔に、郁実は少し腹が立った。
「でも」
郁実が少し強めに言った。
「でも、あの子の言いたいことは、そういう事じゃないと思うんです」
「なに?」
「あの子は、ただ、お父さんとお母さんに、仲良くしてほしいんです。それだけなんです」
「でもね…」
「確かに、あの子の周りには幸せがたくさんあるのかもしれない。それに気づくことも大事だと思います。でも、そんな幸せは、あの子にとっては、あなた達の仲が悪くちゃ、なんの意味もないんです」
美雪は、郁実と目を合わさずに聞いていた。
「あなたは、自分の周りの幸せに気づかないと幸せになれないって言うけど、その幸せに気づけるように、あの子の周りを明るくできるのは、あなたたちなんですよ?」
郁実がひとつ、息を吸った。
「あの子を幸せにできるのは、あなたたちだけなんです」
そう言うと、「ふぅー」と息を吐いた。
「俺には、あの子が、あの日の俺と同じに見えました」
美雪が郁実の目を見た。
「あの日?」
「俺の指輪がつぶれた、あの日です」
「…あぁ」
「あの時も、あなたは同じことを言ってました。自分の周りの幸せに気づけなければ、幸せになれないと。でも、そんな事は、どうでもよかったんですよ、あの時の俺には。そんな事より、目の前の悲しみを、どうにかすることが先決だった。それについての言葉が欲しかった」
「せめて…」
郁実が、ひとつ、呼吸を置いた。
「せめて、私がいると、言ってほしかった。自分が味方だと、言ってほしかった。俺のことを、他人に丸投げしないで欲しかった。『大丈夫よ、頑張って』と言ってほしかった。目の前の悲しみと向き合う力を、親だとか、夢だとか、そんなものではなく、あなたからもらいたかった」
郁実がひとつ、息を吸った。
「正直、ものすごく辛くて、悲しかったです。あの時の、あの時間は」
郁実が、「ふぅ」と息を吐いた。美雪は、郁実に、少しにらむような目を向けて言った。
「辛かった、悲しかったっていうけど、私には平気そうに見えたわ」
郁実は、床を見ていた。
「あなたは強い人でしょ。あんな事でへこたれるような、そんな弱い人間じゃないでしょ。少なくとも、私の目に見えたのは、悲しみと向き合い戦っている、強い郁実だったわよ。言ったでしょ。私は目で見たものしか信じないのよ」
美雪が、冷たく言った。郁実が、笑った。
「じゃあ、見せてあげますよ」
郁実は、ケーキのクリームのついたナイフを手にとった。そして、美雪に笑顔を見せた後、ゆっくりとナイフを持った右手を高く挙げた。
「…え、ちょっと!」
美雪が声をあげるかあげないかのタイミングで、郁実は自分の左腕をナイフで刺した。ズブリ、という鈍い音がした。郁実は、そのあと何度も左腕を刺した。刃物が人間の肉を切り裂く鈍い音が美雪の耳に何度も響いた。
「ちょっと…やめなさい!」
美雪が郁実のナイフを持った右手をおさえようとしたが、郁実の右手はそれをかわし、左腕を傷つけ続けた。
「やめて!やめて!…やめてってば!」
美雪が郁実の右腕は諦め、血だらけの左腕を自分の体で右手の攻撃からかばった。右手の攻撃の矛先が右の太ももに変わった。耳に響く音が、より重たく鈍くなった。
「やめてよ!…!ごめん!やめて!お願い!もうわかったから!謝るから!お願いだからやめて!」
「ぐしゅっ」という刃物が肉から抜ける音がした後、郁実と美雪の体がもつれて床に倒れた。その瞬間、美雪が郁実の右腕からナイフを取り上げた。
「はぁ…はぁ…」
美雪は、ナイフを両手で握りしめ、その場に座り込んだ。恐怖や衝撃の入り混じった感情が体中を巡り、涙が溢れ、全身が震えた。
「どうですか?」
郁実が尋ねた。その声は聴こえていたが、美雪は、目を開けられなかった。
「分かりやすく、目に見えるようにしましたよ。どうですか?」
美雪は、見れなかった。
「目で見たものしか信じないのなら、しっかり、見てください」
美雪は、目を開けられなかった。目の前は、真っ暗だった。その時、美雪の右ほほに冷たいものが触れ、「べちゃっ」と音をたてた。
「いま、何が触れているか、分かりますか?」
美雪は、体が震え、声を出せなかった。
「ね。目で見なくても、分かることってあるんですよ」
美雪のほほから、冷たいものが離れた。
「目に見えるものだけが、全てじゃないんです」
そう言った郁実が立ち上がり、立ち去ろうとしているのが気配でわかった。
「そんなに…」
美雪は、震えた声を出した。郁実が立ち止まった。
「そんなに、辛かったの?」
美雪は、目を閉じたまま、郁実の答えを待った。
「こんなもん、くらべもんになりませんよ」
郁実が、足をひきずって歩く音が部屋に響いた。

 「あの、大丈夫ですか?」
花屋に、さやかが来ていた。さやかが差し入れにシュークリームを持ってきて、郁実がコーヒーを淹れた。
「あぁ、これ?」と、郁実は腕に巻いた包帯を気にした。
「ちょっとね、手元が狂って、切っちゃってさ」
「あぁ、いや、それじゃなくて」
さやかがそういうと、郁実は「ん?」と返事した。
「そんな傷は、多分、郁実さんなら平気です。強いですから」
そう言われて、郁実は「ははは」と笑った。
「そんな傷も平気ですし、足を引きずってるのも、多分、大丈夫です。でも、その傷が大丈夫なくらい強い郁実さんが元気がないのは、ちょっと、気になります」
そういうと、コーヒーを一口すすった。小さな声で「にが…」と言うと、スティックの砂糖を二本分入れた。また一口すすって、「うん、おいしい」と笑顔でつぶやくと、郁実の顔を見た。郁実は、笑顔だった。
「心配してくれてありがとうね。でも、大丈夫だよ」
そう言うと、郁実はもう一度笑顔を作った。さやかには、その笑顔が悲しく見えた。
「…なんで、美雪さんの前で泣かないんですか?」
「ん?」
「美雪さんだって、優しい女の人じゃないですか。泣いたっていいじゃないですか」
「ん?あー…」
郁実が、さやかと美雪でした会話をなんとなく理解した。
「あの人、自分じゃ、『私は優しくない』なんて言ってますけど、そんなことないと思います。美雪さんも、優しいと思います」
「うん、あの人はすごく優しいよ」
「きっと、郁実さんの涙も、受け止めてくれると思います」
「あの人には、俺の涙を受け止める余裕なんてないよ」

「いや、そんなこと…」
「あぁ、ちょっと言い方間違えたな。余裕がないんじゃなくて、そんな余裕があるなら、その余裕は、旦那さんとか、ちひろちゃんの涙を受け止めるためのものなんだよ。俺のための余裕じゃない」
そう話す郁実を見て、さやかは、「優しいなぁ」と思った。同時に、「強いな」とも。優しさも、強さも、この人は両方持っている。でも、強い人も、弱る時があっていいんじゃないだろうか。

 あの指輪は、いつも小指につけている。より楽しい時間を過ごせるようにと、代金を待ってくれた。あの時、初対面にもかかわらず、「君は優しい子だから」と信頼してくれたのだと、思い出した。
「…郁実さん」
「はい」
「あの、私、今、彼氏とかいないんですよ」
「ん?」
さやかが唐突に言い出し、郁実は戸惑った。
「もちろん、子供なんかもいないですし」
「うん」
「両親も仲がいいですし、友達も、みんな元気です。お兄ちゃんには彼女がいます」
「ん?うん」
「だから、あの、」
「うん」
「泣いて、いいですよ」
そう言われて、郁実は驚いて、さやかの顔を見た。さやかと目が合い、一瞬時間が止まったあと、郁実は、大きな声で笑った。
「あっはっはっはっは!」
「あ、ちがいますよ。笑っちゃだめです。泣いてください」
さやかが困った顔をした。郁実の笑い声は止まらなかったが、その目から、涙がぽろぽろとこぼれ始めた。
「あっははは。うん、ありがとう。ありがとう」
と言いながら、郁実は笑顔のまま、涙をぬぐった。
「まだ笑ってるじゃないですかぁ」
「いやいや、泣いてるじゃない、ほら!」
「それ、ちょっと違くないですか?」
「違くないよ、違くないよ。あははははは」
「違くなくないじゃないですか。笑ってるじゃないですか」
郁実の笑いは止まらなかったが、その目からは涙も次々と、とめどなく流れていた。それと共に郁実の胸の中にあった、重たく、どろどろとしたものがなくなっていくのを郁実は感じていた。
「自分は強くなくてはいけない」その気持ちから、郁実が強い力で固く閉じていた涙の蛇口。その蛇口を開けたのは、さやかの優しい心だった。
「違くないよ。ほんとに気持ち軽くなったよ、ありがとね」
「本当ですか?」
「うん、本当」
そう言って、郁実が涙をぬぐうと、お互いの目が合った。が、一瞬の間をおいて郁実はまた噴き出してしまった。
「ぶっ。あはははははははは」
「やっぱり笑ってるじゃないですか!」
そういうと、さやかも一緒になって「あははは」と笑った。
「泣いてくださいよ~」
「泣いてるって!」
「なんで笑うんですかぁ~」
「いやぁ、可愛いなぁって思って」
「なっ!バカにしてるでしょ!」
「してない、してない。あははははは」
さやかは腑に落ちていなかったが、郁実の気持ちが軽くなっていたのは本当だった。気持ちだけでなく、体も、まるで翼が生えたかのように軽くなったように感じていた。見えている世界も違っていた。今まで、まるで霧がかかっているように霞んで見えていた世界が、明るく見えていた。
「さやかちゃん」
「はい」
「本当にありがとう」
郁実が笑顔で言った。さやかは、今までで一番素敵な笑顔だと思った。さやかも、照れくさそうに笑った。

 「ごめんなさい」
郁実が美雪に頭を下げた。さやかが涙を受け止めてくれたおかげで、郁実は、自然に、謝罪の言葉を口にできた。
「俺に、ああいう一面があることは、自覚してました。冷たくて、どんな残酷なことも簡単にできてしまう人間が、自分の中にいると…」
郁実が、唇をぎゅっと噛んだ。
「俺は、ああいう人間なんです。俺の本性は、あいつなんです。自分の目の前で、人がキズついて、それを見て、もっとキズつけようとする。それが、俺の本性なんです」
「でも…」と言ったところで、郁実が左手をぎゅっと握った。美雪の目に、左腕に巻かれた包帯が見えた。
「でも、ああいう自分が嫌いなのは本当なんです。だから、あいつをなくしたいと、あいつを自分の中から消したいと思ってたんです。だから、優しい心を手に入れれば、優しい自分を心掛けていれば、いつか、あいつは居なくなるって思ってたんです。でも、ことあるごとにあいつは出てきて…」
「そして、ついに、あいつは、あなたの前で出てきてしまった」
郁実が、大きく息を吸い、吐いた。
「『大事な人です』と伝えたあなたを、キズつけてしまった」
郁実が、もう一度大きく息を吐いた。
「結局、演じてただけなんです。自分を偽っていただけで、俺は、花のようになんて生きてこれていないんです」
「俺は…」と言ったあと、郁実は、言葉が続けられなかった。郁実が、悔しさをにじませ、自分を責めるような表情をした。その郁実の頭を、美雪が優しくなでた。
「それは、ちがうわ」
美雪が言った。郁実が目を上にあげた。
「あなたが、ああやって人を攻撃するときは、いつも、その相手が、人として間違ったことをした時だけよ。決して、自分の気持ちだけで人をキズつけたりはしないわ。あの事件の時だってそうだし、今回だって、私は、間違っていたわ。それに、今回は、郁実は私をキズつけようとしたんじゃない。あの子を守ろうとしたのよ。しかも、傷つけたのは郁実自身で、私じゃないわ」
美雪が、郁実の両手をとり、優しく包んだ。
「ああいう人間が、郁実の中にいるのかもしれない。それが、表に出てきてしまう時があるのかもしれない。でも、優しさや強さはいつも心にあるのよ。郁実は、強くて、優しいわ。強くて優しい、花のような人よ」
「私の方こそ、ごめんなさい」と美雪も頭を下げた。郁実は、黙って首を横に振った。
「今回のこともだけど…あの時も」
郁実が頭を上げて、美雪を見た。
「あなたの言う『泣いちゃいけない』は、『泣きたくない』って意味なんだと思ったのよ。あなたにとって、『強さ』は、誇りみたいなもので、生きていく上での、気持ちの柱みたいなものなんだと思ってたの。私が涙を流させたら、その柱が折れちゃう気がしたのよ。だから、郁実を『強い者』として扱うのがいいんだと思ったの。郁実の『強さ』を疑わないのが、一番いいんだと、そう思ったの。でもそれは、もしかしたら、私が郁実に強く居て欲しかっただけなのかもしれない。あなたの強さを、絶対的なものだと、思いたかったのかもしれないわ。その柱に、寄りかかっていたいから。本当に、自分勝手な気持ちで、あなたをキズつけてしまったと思う。本当に、ごめんなさい」
美雪が、もう一度頭を下げた。郁実は「そんなことないです」と微笑んだ。
「あの時から俺は、もっと強くなろうと思って生きてきました。あなたの言う通り、あの時泣いてたら、俺の柱が折れて、ここまで生きてこれなかったかもしれません。それに、そこまで俺の強さを信頼してくれてた事が嬉しいです。これからも、もっと、強くなろうと思います」
郁実が「にっ」と笑った。美雪は、一度目を閉じた。
「それと…ありがとう」
「…え?」
「あの後、二人で話し合ったわ。ちゃんと、お互い向き合って」
「あぁ…はい」
郁実が笑顔になった。
「二人で支え合いながら生きていこうって。お互いのいいところも悪いところも、受け入れたり、時には改善したりしながら、気持ちを話あって、生きていこうって、話したわ。人の気持ちは目に見えないから、ちゃんと話し合おうって」
「何より、ちひろのためにね」と美雪が笑った。郁実は「それは、良かったです」と微笑んだ。

「おかーさん?」
ちひろが部屋に入ってきた。起きたばっかりなのか、目を手でこすっていた。美雪が「おいで」と手招きした。
「お花屋さん、こんにちは」
美雪がそう言い、それに続いてちひろも「お花屋さん、こんにちは」と頭を下げ、郁実も、「こんにちは」と頭を下げた。
「お花屋さん、おてていたい?」
郁実の左腕に包帯が巻いてあるのを見つけたちひろが、そこを優しく撫でた。
「ん?痛くないよー?」
「でも、おけがしたんでしょ?」
「お花屋さんはね、強いから、そんなの全然平気なの」
「おいで」と、美雪がちひろを膝の上に乗せた。
「そうだよ、強いから平気なんだよ」
「そうなんだ、すごーい」
「ねー、お花屋さんはすごいねー」
「ねー、こないだ、お父さんは、はさみでチクってしたら、『いたい、いたい』って言ってたのに」
「お父さんは弱いねー」
美雪が、ちひろの頬にちゅーをした。
「ね、お父さん、よわーい」
「きゃはは」と、ちひろがくすぐったがった。
「ちひろちゃん、お父さんが痛がってたら、お薬ぬってあげてね」
郁実がちひろの頭をなでた。
「しょーがないなー」
とちひろが言い、美雪と郁実が大笑いした。

 花屋に、聡が来た。雨が強く降っていて、肩や、ズボンの裾が濡れていた。郁実が、「いらっしゃいませ」と出迎えた。聡が、傘を閉じた。
「今回のことは、ありがとうな」
そう言って、頭を下げた。
「あぁ、いえ、とんでもない…」
「ケガまでさせちまって、申し訳なかった」
また、頭を下げた。
「いやいや、これは自分でやったことですし」
郁実が、笑いながら左腕を右手でさすった。聡が、五年前のあの事件を思い出し、「…ごめんな」と言った。
「何がですか?」
「俺が弱いせいで、お前の左腕は傷だらけになっちったな」
聡が、切ない顔をした。郁実が、「ふふふ」と笑った。
「かっこいいでしょ?」
郁実が、どや顔を聡に見せた。聡も、「ははっ」と笑った。
「あぁ、お前はかっこいいよ。本当にかっこいい」
真正面からそう言われ、郁実は照れくさくなって、「褒めても何も出ませんよ」と冗談っぽく言った。
「出せよ」聡もその冗談に乗っかり、ヘラヘラとそう言った。二人で、笑った。
「いいえ、出しません。だから、俺なんか褒めてないで、」
「ん?」
「ちひろちゃんを褒めてあげてください。ここで、一生懸命に絵描いてましたから」
聡が、ニッと笑った。
「あぁ、思いっきり褒めちぎってやったよ。嫌がられる程にな」
そう言われ、郁実も笑顔になった。聡が「それでさ、」と言った。
「花、売ってくれないか」
郁実が、微笑んだ。
「えぇ、いいですよ。どんなお花がいいですか?」
「美雪が、喜びそうなやつ」
そう照れくさそうに言う聡を見て、郁実はうれしくなった。
「わかりました。花束、作ります」
「おう、頼むよ」
美雪の好きな色は「雪のような白」だった。郁実が、白い花を中心に花束を組んだ。それを渡すと聡は、「これは喜びそうだな」と微笑んだ。
「ありがとう」そう言って、花束を抱え、頭を下げた。郁実も「こちらこそです」と頭を下げた。
「雨、ひどいですね」郁実が外を覗き込んだ。
「おう、参っちゃったよ」
「あったかいの、どうですか?」
「お、コーヒー?いいの?」
郁実が一度裏に入り、マグカップを二つ持って出てきて、一つを聡に差し出した。
「…コーヒーじゃねぇな」
「飲んでみてください」
聡が、一口すすった。
「…紅茶か?」
「オレンジペコーです」
「…あぁ、これが」
「初めて飲んだ」と聡が笑った。
「そっか。これがあいつの好きな味なんだ」
もう一口すすると、「美味しいな」と言って微笑んだ。郁実も、一口すすった。郁実も飲むのは初めてだったが、美味しいと思った。

 「この味、覚えとくよ」
そう言うと、聡は花束を抱え、傘を差し、店を出た。雨が相変わらず激しく降っていたが、その雨をもろともしない、しっかりとした足取りの後姿は、男らしく見えた。郁実はその背中に向かって、
「かっこいいのはあんただよ」
と言った。
郁実は、そのかっこいい背中を、姿が見えなくなるまで見送った。

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