【なんのはなしですか】歳をとると眠れなくなるらしいので。
寝ても寝ても眠い。寝ながらにして「眠い」と思いながら寝ている。もうこのまま、眠りから醒めることができないんじゃないかと思い、目を、脳を覚まそうと思うのだけれど、しつこく付きまとう睡魔は、したり顔で手のひらをパァにして、両瞼を重くして、重力を何十倍にもする呪いをかける。抗えず、私の身体は重く重く沈んでいく。
「そんなに眠れて羨ましいわ。」
「起きれなくて辛いっていうのに?」
「あと五年もしたら、おまえも嫌でも早朝から起きてしまうようになるわ。」
そんな夫の言葉を聴いたのは、私が眠い目でキッチンに立ち、人参の皮をピーラーで剥き、イチョウ切りにしている時だった。研ぎたての包丁はよく切れて、左手の人差し指の先っぽをシカッと切った。慌てて傷口を水道で洗い、滲んで流れる赤い血を、絆創膏で止めようとするけれど、次から次に絆創膏は何枚でも赤く染まっていく。
「心臓より高い位置に指を上げておかないと。」
と幼いころ、私が手のひらを深く切ってしまったとき、軽トラで病院へ連れて行ってくれながら、父が言ったのを思い出して、人差し指を天に向ける。血が足りず、フラフラするけれど、懸命に。
倒れそうになったとき、すぐ近くで雷が鳴って、
「雷は先の尖ったものに堕ちるんだ。」
と、理科の浜島先生が言っていたのを思い出し、慌てて指を降ろす。
「雷さまは、ヘソを取りにくるんだ。」
と、ダイナミックな赤い鬼の絵の絵本で読んだのを思い出し、ヘソを両手で押さえた。おどろおどろしい赤と、ぐるぐる渦巻きがたくさん両開きに描かれた場面を鮮明に覚えていた。
フワフワのお気に入りの毛布に逃げ込むように潜り込むと、いるはずなのをちゃんと知っていた。
「はやく。ゴロゴロ言ってる。」
と、あなたは毛布で二人を頭まで隠した。
小さな頃の夏休みに、よく日に焼けて水着の跡がくっきりついた姉が、悪戯っぽく誘ってくれたみたいに。
切った指先を思い出して、血がそこいらに付くのを気にしていると、あなたはその指先をカプッと口に含む。私の体温ではないその体温は、初めて感じる甘やかさで、本当は母から知ることだったのだろうな、といつも通り胸がシクシクした。
「舐めておけば治る。」
とはずっと、言われていたけれど、舐めてもらったことなど一度もなかったから。
ゴロゴロと音が近づく。
生温かい体温を感じながら。
私は母を、愛情を、あなたから知る。
どこかで気が付いてはいるのだ、まだ、私が眠っていることを。だから、私はそれをいいことに、指を抜き、口を付ける。絡まる感触も、温度もいつも通り覚えているから。
眠ったままでいることを、夢の中のこの世界にとどまっていることを、悪いこととは思わない。
好きなだけ眠ったら、そのうち醒めるだろうか。しつこい睡魔の呪いのせいにして、私は眠り続ける。夢をいいことに、私は愛情を貪っている。
なんて、都合のいい夢をいつまでも見ていられたらと思いながら、今朝も早朝5時ごろ起きていく夫の気配で目を覚ます。そのことに文句を言えば
「あと五年もしたら、おまえも嫌でも早朝から起きてしまうようになるわ。」
と返される。
人参の皮をピーラーで剥き、研ぎたての包丁でイチョウ切りにする。左手の人差し指の先っぽを切ってしまわないように、今度は猫の手にして。
血は流れないはずだった。
けれど、私はここが夢だと知っているのだから。
そうだな、今度は、包丁を洗うタイミングで、シクッと左中指の腹を切ってしまおう。
あとはいつも通りだ。
