【ショートストーリー】大切な一本。
今日もどんよりとした空で、朝から気分はノらない。きっと夜中に食いしばっていたのだろう、顎やこめかみあたりが鈍く痛んで、それが頭痛にも繋がっているのか、漬物石でも乗せられているかのように頭が重い。
それでも、私は社会からはみ出したりしないように、身体を引きずるようにして顔を洗い、閉めっぱなしのカーテンのそばのゴムの木の葉がはらりと落ちて、味もわからないパウチのドリンクの口を咥える。ムニュッと絞り出し、ジュルッと流れ込む栄養分に、最低限の命を預けている。
同じ服、同じ道、同じ景色、同じ車両。
唯一、曜日を認識するものといえば、週の初めと終わりの上司の機嫌だけ。そしてそれに伴う、息のしやすさだけだ。
無難にこなし退社して、家までの道。
ただの真っ直ぐの道、何もないところで躓いた。
とくに今日が、特別嫌なことがあった日でもなければ、ツいてない日というわけでもない。
いつもと同じ、灰色がかった色彩を欠いた世界で、特別な空腹もなく、早足になるような予定もなく、強いて言えば早くベッドになだれ込みたかっただけなのに。
躓いて、体勢をととのえることも出来ずに、その勢いのまま倒れこんだ。べちゃっと鈍い音がして、持っていた無難を絵に描いたような黒のカバンがアスファルトをすべっていく。
その脇を耳にイヤフォンを詰めた若者が、自転車の急ハンドルをきって横切っていった。
「痛。」
手をついて起き上がろうとしたその瞬間、昼間の熱をまだ保ったアスファルトに、人肌の熱が思い出され、そのまま身動きができなくなった。
あったかい…と思ってしまった。
辺りは乾ききっているのに、俯いた先のアスファルトに丸い雫がポツポツと落ちていく。
雨…、ではなく、私の瞳から落ちているその雫に、はじめて気が付いたのだ。
痛いこと、苦しいこと。
ずっと辛かった、ということに。
ぽたぽたと落ちる雫を拭いもせず、ぼやけた視界のまま手を伸ばし、滑っていったカバンを掴み、ゆっくりと項垂れながら立ち上がったその時。
「あの…。すみません。」
と、背後から声がした。
振り向くと、そこにはすらっと背の高い男性が立っていて、そして、
「あの、これ、落とし物、ですよね?」
と一本の長い棒をぬぅっと差し出した。
「え?」
「これ、あなたのですよね?ほら。」
と、さらにその真っ直ぐの棒を差し出す。
心当たりがなさすぎて、涙は引っ込んでしまい、キョトンとしている私に、男性はなんとも優しい視線を向けて、こう告げたのだ。
「ほら、力をぬいてごらん?ここに、あったはずでしょう?正真正銘、あなたのです、これは。」
そう言いながら、その一本の長い棒を横にして構え、私の頭からスゥッと肩まで下ろした。
すると、棒はあるべきところに納まったというようにピッタリとしっくりと嵌ると、そこからピクリとも動かなくなったのだ。
「ほらね?あなたのだった。落とし物。」
男性がにっこりと笑ってそう言うと、しだいに霧が晴れていくように、私の目の前が鮮やかな色を放ちはじめた。にわかに目を細めたくなるほど鮮やかな色あいは、キラキラと光を放って見える。
水の中にいるようなこもったような音ではなく、クリアに聴こえる街の音。道の脇に風に揺れて咲く夏草の瑞々しさ。漂ってくるどこかの家の夕飯の美味しそうな匂い。
「私の…、落とし、物?」
「うん。落とし物。たった一本だけど、大事な一本だよ。落とさないように、ちゃんと持っててね。」
「一本…。」
「そう。大切な一本。もう落とさないようにね。」
男性はそのままごくごく自然に私の手を取った。
「お腹すいたでしょ?ハンバーグ食べよう!肉汁いっぱいのじゅわっとしたやつ。」
こんなにも空腹を感じるのはいつぶりだろう。美味しそうなハンバーグを想像すると、思わず口いっぱいに唾液がじゅわっとたまってくる。
久しぶりに見上げた空はまだ青くて、夕日が雲をピンクや紫やオレンジに染めていた。
そうか…私。
私、ちゃんと幸せだ。
ちゃんと幸せだったんだ。
どこかに落としてきただけだった。
幸せに気付く落とし物。
届けてくれた人は、あれから、
今も当たり前に隣にいてくれている。
#チャレがや
#みくまゆ会
#落とし物
#みくまゆたんさん
#コッシーさん
こちらの企画に参加させていただいております。
#チャレがやの今回のテーマは 「#落とし物」ということで、書いてみました。うっかりと忘れてしまっていること、実は目の前にちゃんとあるもの、探そうとしているうちは全然見つからないのに、ふとしたときに「あ!あった!」ってなることありますよね。落とし物を届けてくれた人も、天使に見えてきたりしますしね。
うっかり落とさないように気をつけます🫡笑
