【なんのはなしですか】「特別」という引力。
きんと冷えた朝、それでも窓の外は鮮やかな青で、木々やフェンスや電線や何もかもの輪郭は、くっきりハッキリとしていた。悉くクリアだ。
冷たい水で顔を洗い、鏡の中の僕に問いかける。
「今日だぞ。準備はいいか?」
鏡の中で僕は、凛々しく
「おうよ。」
と親指を立てた。
軽い朝食(パリッと音のなるホットドックと冷たい牛乳)を済ませ、入念に歯を磨く。着ていく服はすでにクローゼットのドアノブにかけてあり、それを身に纏った僕は、幾分かシュッとした爽やか男子だ。前髪は立てて、固めのスタイリング剤でキープした。鼻毛も出ていない。
待ち合わせ場所は、駅の時計の下。
「お待たせしました。」
と、時間よりも少し前に現れた彼女は、いつものお店の制服姿より少し幼く、華やかで可愛らしい印象だった。彼女は、僕がよく行くコーヒーチェーン店で働いていて、根気よく通ううちに仲良くなり、二人で出かける約束まで漕ぎ着け、それがとうとう今日というわけだ。
「おはよう。」
緊張している。目の前の彼女との1日をあれだけシュミレートしてきたのに、いざとなればこれだ。彼女が隣に立つだけで、ただ見上げるだけの視線に、すでに頬が緩んできてしまう。しっかりしろ。
「楽しみにしてたんです。今日のおデート。」
「おデート…。わぁ、緊張してきた。」
「緊張してるんですか?」
「するよ、そりゃ、こんなにかわいい子と。」
「ふふ、嬉しい。」
そうだ、言葉にしてしまえばいい、駆け引きなんて上級者のすることだ、と僕は「かわいい」と思ったそのままを口に出せたことで、どこか吹っ切れた気がした。きっとそう、彼女を誘ったときもそうだったんだ。何を言っても笑ってくれそうな、この優しい笑顔を前に、恋愛マニュアルなんて無力で、素直に言葉にすれば伝わるのだ。
「私、好きなんです。水族館。」
「そっか、よかった。野中さんは、水族館の何がすき?」
「野中さん、なんだ。」
「ん?」
「サヤ、でいいですよ。デートなんですから。」
「あ。そか。じゃあ、えっと、サヤ、さん。」
「サヤちゃん。」
「サヤちゃん。」
サヤちゃん、サヤちゃん、サヤちゃん。何度も何度も呼びたくなる名前だ。素敵だ。最高だ。
「私は、イルカ、かなぁ。ペンギンも好き。」
「うん、イルカかわいいね、ペンギンも。ずっと見てられる。水の中だとあんなに速いのにさ。」
「そう、陸だとちょこちょこちょこちょこって。」
ちょこちょこちょこちょこ言いながら、ペンギンのマネをするサヤちゃんも、ずっと見ていたい。なんだこのかわいい生き物は。
「私ね、今日、ちゃんと赤い下着つけてきたんですよ。」
「へ?」
#なんのはなしですか ?
「ほら、大事な日には赤いものを身につけると良いって言いません?プレゼンとか、そういう大事な日とか。」
「あ。あぁ。」
楽しそうにそんな刺激的なことをサラリと言うサヤちゃんにはまったく他意がなさそうで、だから逆に、「赤い下着」というだけで瞬時に尋常じゃなくドキドキしてしまった己にドンマイと思う。
おい、落ち着けよ、中学生じゃあるまいし。
舞い上がっているんだ。
大きな水槽に悠然と泳ぐ魚たちを見ながら、時おりこっちを振り向いて、
「ねぇ、見て。」
と指を指すサヤちゃんからは、いい匂いがして。魚なんてちっとも見ていられない。
「あの魚、うちの店長みたい、ボーってしてる。」
「店長さん?あんな感じなの?」
「そ。あんな感じ。ボーッてしてるの。」
悪口なのか何なのかわからない彼女なりのディスり方が、独特で面白くて、店長さんが羨ましくなった。なんだこの感情。
イルカショーの時だって、あんなに高くジャンプするイルカたちの技よりも、隣ではしゃいで手を叩いたり、いちいちリアクションするサヤちゃんに釘付けなのだ。すぐ隣にいて、なんなら少し肩が触れたりするのがくすぐったいほど嬉しくて。
「お腹すいたね」
と、水族館に併設するカフェのランチに、
「さすがにここでお魚食べるのかわいそうな気がしちゃう。」
と、チーズビーフハヤシを選んだ彼女に、そりゃそうだ、もっともだ、と僕も同じものを選んだ。
彼女の感覚はとてもまともだ。水槽で悠々とのびのびと泳ぐ魚たちを散々見て「キレイだね」「かわいいね」なんて言いまわっておきながら、海鮮丼を食べる気にはとうていなれなかったのだ。
ただ、ラテアートのベルーガはとってもかわいくて、「かわいい×かわいいだな。」
と彼女ごと写真を撮った。いや、動画だった。わざとじゃない。ウソ、わざと。
薄暗い南館で、鏡や照明を用いた演出で幻想的にフワフワと浮かぶたくさんのクラゲを見た。
「わぁ、きれい。」
「きれいだね。」
ゆらゆらと青や紫やにゆっくりと変わっていく光の中、ようやく僕は、彼女と手を繋いだのだ。
それはごくごく自然なタイミングな気がした。
小さくて柔らかい温かな手がちゃんと握り返したのを感じて、僕は脳みそまでクラゲになったみたいだった。フワフワと夢みたいに。
「私、どっちも好きですよ?」
ふいに、彼女が話しかける。
「ん?」
「普段お仕事の時のショウジさんも、今日の、感じのショウジさんも。」
「あぁ。ありがとう。」
「やっぱり、下の名前で呼ばれるのは嫌ですか?」
水槽のガラスに映る自分の姿を見る。
心の声が「私」よりも「僕」と話すようになってから、正直、僕は苗字の東海林さんと呼ばれる方がしっくりきていた。けれど、この幻想的に自在に浮遊するクラゲたちのせいなのか、あるいは彼女の「どっちも好き」の言葉の甘さのせいなのか、僕は、
「サヤちゃんの好きに呼んで。」
と答えていた。素直に言葉にすれば伝わる、そう思ったから。
「じゃあ、ミユさんって呼ぶ。」
「うん。わかった。」
「ミユさん。」
「はい。」
「ミユさん。ミユさん。ミユさん。」
「なに?サヤちゃん。」
今日イチで、こんなに長く見つめ合った瞬間かもしれない。
「下の名前で呼びあうって、大人になってからほとんどなくて。だから、特別な感じがするの。私、ミユさんの特別でいたい。」
「特別?」
「特別。」
「特別。うん、サヤちゃんは特別。」
「ミユさんも、特別。」
特別。なんていい言葉だ。彼女らしい言葉。最高だ。小さな手から伝わる温もりも、隣で笑うその声も、彼女そのものがもう全部特別だ。今日、この日だって、朝からずぅっと特別だ。彼女が赤い下着をつけてくるくらい…あぁ、そんなことまでちゃっかり覚えている己の素直な邪が、一周まわって愛おしくなるほどだ。
はたから見たら、タイプの違う仲の良い女友達に見えるだろう。
けれど、僕たちは「特別」。
それだけで、ほら、クリスマス仕様のキラキラした街路樹が、僕たちを照らす演出に見えてくる。
フワフワと浮かぶ、自由なクラゲだった僕たちは、「特別」という引力で、ドラマティックに光を帯びる。
