転んで、回って、ただいま~ | #風まかせ文芸部
今日も、ちゃんとして帰るつもりだった。
会社では、ちゃんと笑った。
会議で言いたいことを半分飲みこんで、コピー機の前で深呼吸して、誰かの小さなミスにも「大丈夫です」と言った。
昼休み、休憩室でため息をつきかけた。
けれどドアが開く音がして、私はすぐにマグカップを持ち上げた。
何もなかったみたいな顔で、「お疲れさまです」と言った。
帰りの電車では、濡れた傘を足元に寄せて、隣の人の鞄に触れないように肩をすぼめた。
コンビニでは、店員さんに「ありがとうございます」と言った。
声が少しだけかすれていたけれど、それも雨のせいにできると思った。
外に出ると、雨はまだ降っていた。
激しい雨ではなかった。
でも、やむ気配のない雨だった。
細い雨が街灯の下で白く光って、アスファルトには薄い膜みたいに水が張っていた。
車が通るたびに、道路の端で小さな波が立つ。
私は傘を少し低くして、バッグを胸のほうへ寄せた。
靴の先はもう濡れていた。
ストッキングの足首に、冷たい水がじわじわ染みている。
それでも私は、なるべく普通の顔で歩いた。
水たまりを避ける。
自転車を避ける。
前から来る人の傘を避ける。
バッグが濡れないように角度を変える。
スマホに雨粒がつかないように、ポケットの奥へ押しこむ。
ただ家に帰るだけなのに、やることが多すぎた。
それでも、私はちゃんとしていた。
ちゃんと前を見て、ちゃんと歩幅をそろえて、ちゃんと疲れていない人のふりをしていた。
家までは、あと五分くらいだった。
その角を曲がれば、もう見慣れた住宅街に入る。
小さなスーパーの明かりが遠くに見えて、その先に、私の部屋がある。
そう思った瞬間だった。
足の裏が、つるりと滑った。
「あっ」
声が出たときには、もう遅かった。
傘が横に流れて、バッグが腕からずり落ちて、膝が濡れた地面にぶつかった。
手のひらがアスファルトについて、冷たい水と砂の感触が一気に広がる。
雨の音だけが、急に近くなった。
痛い、と思うより先に。
見られた、と思った。
私は反射みたいに顔を上げた。
向こう側の歩道に、人影がひとつあった。
その人がこちらを見ていたのか、ただ傘の下で信号を待っていただけなのかはわからない。
でも、その一瞬で十分だった。
私は慌てて立ち上がろうとした。
けれど靴の中で水が鳴って、足元がぐにゃりと頼りない。
「だ、大丈夫です」
誰にも聞かれていないのに、そう言った。
バッグを拾う。
傘を拾う。
傘は裏返って、骨が一本だけ変な方向を向いていた。
膝には泥がついていた。
手のひらも黒く汚れていた。
前髪は顔に貼りついて、頬を雨水が流れている。
通り過ぎた車のライトが、濡れた膝を一瞬だけ照らした。
私はそれを全部、どうにか整えようとした。
スカートの裾を払う。
バッグを拭く。
傘を直そうとする。
髪を耳にかける。
何事もなかったみたいに立とうとする。
でも、何事もなかったことにはならなかった。
靴の中は水でいっぱいだった。
膝はじんじん痛んでいた。
傘は少し曲がっていた。
手のひらには、雨で薄まった泥が残っていた。
私は、傘を持ったまま立ち尽くした。
雨が、肩に落ちる。
前髪から、しずくが落ちる。
曲がった傘の先から、変な方向へ水がこぼれる。
あ、もういいや。
そう思った瞬間、肩に入っていた力が少し抜けた。
もう濡れている。
もう汚れている。
もう転んだ。
もう誰かに見られたかもしれない。
それなのに、まだ私は、ちゃんとしているふりをしようとしていた。
私は傘を見た。
曲がった傘。
頑張って開いていても、もうあまり役に立っていない傘。
それを、ぱちん、と閉じた。
小さな音が、雨の中で思ったよりはっきり響いた。
雨が、すぐに頭の上へ落ちてきた。
冷たかった。
でも、思ったより嫌ではなかった。
顔に雨が当たる。
まつげに水がたまる。
髪が頬に貼りつく。
肩が濡れて、ブラウスが少し重くなる。
私は一歩、歩いた。
靴の中で、ぐじゅ、と水が鳴った。
もう一歩、歩いた。
今度は水たまりを避けなかった。
ぱしゃ、と小さな音がして、足元に雨水が跳ねた。
その音が妙にはっきり聞こえて、私は喉の奥で少し笑った。
それから、走った。
最初は早歩きだった。
でも、すぐに走っていた。
バッグを抱えて、閉じた傘を片手に持って、水たまりも避けずに走った。
車のライトが雨の中でぼやけて、街灯の光が白くにじむ。
濡れたアスファルトが、ばかみたいにきらきらしていた。
息が上がる。
膝が少し痛い。
靴の中で水が跳ねる。
髪から雨が飛ぶ。
角を曲がる手前で、私はなぜか立ち止まった。
そして、くるっと一度だけ回った。
濡れたスカートの裾が少しだけ広がって、閉じた傘が手の中で揺れた。
雨が顔にまっすぐ降ってきて、世界が一瞬だけ、街灯の下で白く回った。
その瞬間、濡れた靴がまた少し滑った。
「わっ」
私は両手を広げて、閉じた傘をぶんと振りながら、なんとか踏みとどまった。
右へ揺れて、左へ戻って、もう一度右へ傾いて。
それでも、立っていた。
私は自分の足元を見た。
泥のついた膝。
ぐしょぐしょの靴。
閉じたままの傘。
雨に濡れたスカートの裾。
ふっと、変な声が出た。
それから私は、また走り出した。
水たまりを踏むたびに、靴の中で水が鳴った。
髪から雨が飛んで、バッグの端が膝に当たって、閉じた傘が手の中でばたばた揺れた。
もう、水たまりを避けなかった。
もう、前髪も直さなかった。
もう、スカートの泥も見なかった。
家の明かりが見えた。
私は最後の角を曲がって、玄関の前まで一気に走った。
息が切れていた。
靴の中はぐしょぐしょだった。
鍵を出す指も少し滑った。
それでも鍵は開いた。
ドアを開ける。
雨の音が、背中の後ろで少し遠くなる。
私は濡れたまま、玄関に片足を入れた。
髪から落ちたしずくが、床にぽたりと落ちた。
靴の中で、最後にもう一度、水が鳴った。
私は、誰もいない部屋に向かって、大きな声で言った。
「ただいま~」
