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帰る音 | #風まかせ文芸部

湯呑みは、ふたつ。
棚のいちばん手前に並べてある。欠けたほうは私の、白いほうはあなたの。欠けていても、こっちが落ち着くんよ、と昔あなたが笑うたけん、そのままにしてある。

箸も、茶碗も、座布団も、なんでも一式で揃えたまま。
台所の引き出しを開けると、同じ柄の小皿が二枚、重なって眠っとる。布巾は二枚。石けんも二つ。並べ方まで決めてしまえば、毎日は静かに進む。静かに進むけん、余計なことを考えんで済む。

「今日はね、風が東から来とるみたい」
誰に言うでもない声が、部屋の隅に溶けていく。声は畳に落ちて、すぐ消える。消えるのが、ええ。残ると、掃除が難しい。

窓の桟は夕方の冷たさで、指先が少しだけしびれる。外はもう暗い。向かいの家の灯りが、ガラスに淡く映る。
私は灯りをつける前の薄暗い時間が好きだった。昔は道がもっと土っぽくて、夕方になると馬車の車輪が小石を噛んで、ガラ…ガラ…って鳴ったろう。あの音は、胸の奥をくすぐるようで、いまでも覚えとる。

「覚えとる? あんた、あの音が好きじゃったろ」
私の声は、たぶん若い。自分でそう思う。声だけは、あの頃から大きく変わっとらん気がする。髪のつやは変わったけど、声は変わらん。声は裏切らん。声は、待っていても疲れん。

玄関の壁に掛けたコートも二着。片方は少し長い。
袖口を撫でると、布がくたっと音もなく沈んだ。着る人がおらん服は、音を立てるのが下手になるんよ。だから、私はときどき撫でてやる。撫でると、布が「ここにおるよ」とだけ言う。

台所で米を研ぐ。水がボウルに当たる音が、規則正しく跳ねる。
隣の部屋では時計が、きちん、きちん、と刻む。
この家の音は、いつも決まっとる。決まっとる音は、安心になる。

それに比べて外の音は、近頃ずいぶん変わった。
昔みたいに、馬の鼻息や、蹄の湿った音が混ざらん。外はいつも、遠くで唸っとる。夜になると、とくに。ゴー…という波みたいな音。車が多いけんじゃろう。私はもう、外の音をいちいち聞き分けんようになった。聞き分ける必要がない。必要がないことは、やらんほうがいい。

「ほら、昔はね、馬が通ると地面が少し沈んで、家まで揺れたんよ」
誰に言うでもない話を、私は続ける。
あなたがうなずく顔を、思い出す必要はない。必要はないのに、口は勝手に動く。口が動くと、家が「ふたり」の形を思い出すけん。

米を炊飯器に入れて、蓋を閉めた。
カチッ、と小さな音。
小さな音は、ええ。小さな音は、ちゃんと今ここにある。

そのときだった。
外の「波」の下に、別の音が混ざった。

……タッ、タッ、タッ

私は手を止めた。
耳が、先に反応した。頭は、遅れてついてきた。

……タッ、タッ、タッ

乾いた音。揺れのない音。
地面を踏む重みがないのに、節だけがある。
妙にきれいで、妙に正しい。
まるで、誰かが音だけを持ってきたみたいに。

……タッ、タッ、タッ

胸の奥が、ふっと空になった。
空になったまま、身体が動いた。私は自分で自分の動きを止められん。
あれ、と思う前に、足が玄関へ向かっていた。

「……来たん?」
声が、勝手に出た。
返事は、もちろんない。返事はないのに、手が鍵に触れた。鍵は冷たい。
カチャ、と回る音がして、私はその音にだけ安心してしまった。

扉を開けた。

夜気が、どっと入ってくる。
街の明かりが、ぱっと目に刺さる。白い光、赤い光、青い光。遠くまでつながって、途切れん。
耳には、ゴウゴウという車の流れ。クラクションの短い怒り。タイヤの擦れる乾いた音。
私の家の静けさが、一歩で押し返される。

……タッ、タッ、タッ。

その音だけが、妙に近い。
玄関のすぐ下、段差のところ。視線を落とすと、そこに小さな影が跳ねていた。
子どもが、棒みたいなおもちゃをまたいで、口を尖らせて走り回っている。胸元にぶら下げた箱から、同じ音が規則正しく漏れている。

……タッ、タッ、タッ。


今回は、
事件タロットの二枚のカード を軸に組み立てています。

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