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風を忘れていた僕へ | #シロクマ文芸部

風が吹く、という感覚を、もう長いこと忘れていた。

二十代のころ、僕はそれを「ただの空気」だと思っていた。
どこにでもあるもの。意識するほどのものじゃない。

けれど、ある日ふと気づいた。
思い出の中のそれは、少し違っていた。

もっとやわらかくて、
もっと近くて、
耳のすぐそばを、かすめるように通り過ぎるものだった。

あれは、本当に風だったのか。

そう思ったときから、僕はそれを探し始めた。

山に行った。
高い場所なら、何かが変わる気がした。
尾根に立てば、確かに強い風が吹いていた。
頬を叩き、服の中に入り込み、体温を奪っていく。

でも、それはただの空気だった。
強すぎて、何も残らない。

海にも行った。
潮の匂いと一緒に、湿った風が身体にまとわりつく。
髪が肌に張りつき、耳元でざらついた音がする。

けれど、それも違った。
重くて、遠い。

街に戻った。
ビルの隙間を抜ける風は、まっすぐで、鋭かった。
ネクタイが揺れ、書類がめくれ、誰かの声がかき消される。

そこには確かに風があった。
けれど、僕が探していたものではなかった。

いつの間にか、僕は仕事を変え、場所を変え、
同じことを繰り返していた。

理由は、後からついてきた。
キャリアだとか、挑戦だとか。

でも本当は、
あの感覚を、どこかで見つけられる気がしていただけだった。

三十代に入るころには、もうほとんど確信していた。

あれは場所じゃない。
条件でもない。

けれど、それが何なのかは、わからなかった。

四十を過ぎたころ、
僕はそれを探すこと自体をやめた。

なかったことにするのが、一番楽だった。

記憶は都合よく形を変える。
きっと、少し美化されていただけだ。

そう思えば、辻褄は合う。

ある日、久しぶりに実家に帰った。
理由は特にない。
連絡もしていなかった。

ただ、なんとなく足が向いただけだった。

ドアを開けると、
懐かしい匂いがした。

洗剤の匂いと、少し乾いた布の匂い。
子どものころ、当たり前だった空気。

「……あら」

奥から、母の声がした。
変わらないようで、少しだけ時間を含んだ声だった。

「帰ってたの」

そう言いながら、近づいてくる。
距離が縮まる。

そして、

「お帰り」

耳のすぐそばで、そう言った。

その瞬間、
何かが、触れた。

冷たくもなく、
強くもなく、
ただ、そこにある温度のまま、

耳の奥を、かすめていく。

思い出の中にあったものと、
今ここにあるものが、重なった。

ああ、と、思った。

ずっと探していたのは、
これだったのかもしれない。

風だったのかどうかは、わからない。

でも、

風が吹いた気がした。

それだけで、十分だった。



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