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佐賀には何もない、と言えなくなった日-世界を歩く友人が教えてくれた、地方創生の別の順番



あらすじ

佐賀県庁で地方創生案を任された高瀬は、資料に並ぶ「IT企業誘致」「観光振興」「移住促進」「空港利用促進」という言葉に、どうしても手が止まってしまう。

どれも間違ってはいない。

けれど、どこの県でも使える言葉に見えた。

その夜、高瀬は、世界各地を移動しながら物流や都市の仕組みを見てきた旧友・レンと再会する。

レンは答えを出すのではなく、アトランタの物流、一次産業の流れ、地図の見方について語りながら、高瀬に佐賀を別の角度から見るよう促していく。

のり、お米、茶、佐賀牛、山、海、鳥栖、佐賀空港。

ばらばらに見えていたものは、「一次産業の流れ」として見直すと、まったく違う意味を持ち始める。

これは、佐賀に何かを足す物語ではない。

佐賀にすでにあるものを、別の順番で読み直す物語である。


1. また同じ言葉が並んでいた

 高瀬は、白い画面の前で止まっていた。

 カーソルだけが、同じ場所で点滅している。

 文書のタイトル欄には、まだ何も入っていない。

 けれど、頭の中には、もう何度も見た言葉が勝手に並び始めていた。

 IT企業誘致。
 観光資源の磨き上げ。
 移住促進。
 若者定着。
 空港利用促進。
 スタートアップ支援。
 関係人口の創出。

 どれも間違ってはいない。

 間違っていないからこそ、困る。

 会議で口にすれば、誰かが頷く。
 資料に入れても浮かない。
 前年の企画書から持ってきても、それほど違和感がない。
 補助金の説明にも使える。
 議会で聞かれても、答えに詰まることはない。

 けれど高瀬は、そういう言葉が並んだ資料ほど、何も動かさないことを知っていた。

 誰も怒らない。
 誰も強く反対しない。
 そして、誰も覚えていない。

 その種の資料を、自分がまた作ろうとしている。

 そう思った瞬間、胸の奥に、乾いた音がした。

 高瀬は椅子の背にもたれ、県庁の窓の外を見た。

 日が落ちたあとも、佐賀の空は広かった。

 ビルの明かりは少なく、道路の向こうには黒い平野が続いている。
 遠くを走る車のライトだけが、静かな線になって流れていた。

 それを「何もない」と呼ぶ人がいる。

 佐賀には何もない。

 高瀬はその言葉を、何度も聞いてきた。
 外からも、内からも。

 福岡に行けば何でもある。
 長崎には歴史と物語がある。
 熊本には城があり、今は半導体もある。
 大分には温泉がある。
 鹿児島には桜島がある。
 宮崎には南国のイメージがある。

 では、佐賀には何があるのか。

 のり。
 お米。
 佐賀牛。
 嬉野茶。
 有田焼。
 唐津。
 吉野ヶ里。
 バルーン。
 鳥栖の物流。
 佐賀空港。

 並べれば、ある。

 あるのだ。

 だから、余計に苦しかった。

 本当に何もないなら、もっと楽だった。

 空っぽなのだと言い切れたなら、外から何かを足せばいい。
 観光でも、ITでも、移住でも、言葉を持ってくればいい。

 けれど高瀬は知っていた。

 佐賀には、何かはある。

 ただ、それをひとつの言葉にできない。

 そして、公務員になって七年目の自分もまた、それをできない側に立っている。

 彼は文書ファイルを閉じた。

 これ以上、画面の前にいても、同じ言葉を少し順番を変えて並べるだけだと思った。

 その夜、高瀬は佐賀駅近くの小さな店で、古い友人と会う約束をしていた。

 レンとは大学時代からの付き合いだった。

 卒業後、彼は東京の企業に入り、物流会社や製造業、自治体のシステム設計に関わったあと、いつの間にか世界中を移動しながら働くようになっていた。

 本人は「デジタルノマド」と呼ばれることを、少し嫌がっている。

『遊牧民って言われると、何も持たずにふらふらしているみたいに聞こえるんですよね。実際は、どこに行っても地図と工程表ばかり見ています』

 以前、そんなことを笑って言っていた。

 店に入ると、レンは窓際の席に座っていた。

 テーブルにはコーヒー、小さなノートパソコン、スマートフォン、そして薄い手帳が置かれている。

 荷物はそれだけだった。

「相変わらず、荷物が少ないな」

 高瀬が向かいに座ると、レンは画面から目を離さずに、少しだけ口元を緩めた。

『荷物を増やすと、移動のたびに判断が増えるので』

「それ、人生にも使えそうな言い方だな」

『仕事には使えます。地方創生にも、たぶん』

 高瀬は苦笑した。

「今、その地方創生に困ってる」

 レンはそこでようやく顔を上げた。

『珍しく、かなり疲れていますね』

「珍しくない。最近ずっとだ」

 高瀬は鞄から紙の資料を一枚取り出した。

 まだ正式な資料ではない。
 会議で出た言葉を拾っただけの、走り書きに近いものだった。

 レンはそれを静かに読んだ。

『IT企業誘致。観光振興。移住促進。空港利用促進……』

「笑うなよ」

『笑っていません』

「でも思っただろ。またこれかって」

 レンは否定しなかった。

 店の奥で、グラスを拭く音がした。
 小さなテレビから、地元ニュースの声が薄く流れている。

『高瀬さんは、これを書きたいんですか』

 その問いは、予想よりも痛かった。

 高瀬はすぐに答えられなかった。

「書きたいかどうかじゃない。書けと言われれば書ける」

『ええ』

「IT企業が来れば雇用は増える。観光客が増えればお金も落ちる。若い人が戻れば町も持つ。空港も使われた方がいい。間違ってない」

『間違っていない言葉ばかりですね』

「そうだ」

 高瀬は資料を指で軽く叩いた。

「でも、どこの県でも使える。佐賀じゃなくても成立する」

 レンは資料から目を離し、窓の外を見た。

『それは、かなり重要な違和感だと思います』

「重要?」

『はい。どこの県でも成立する言葉は、その県でやる理由が弱い』

 高瀬は黙った。

 その言葉は、ずっと自分の中にあったものを、外から名前で呼ばれたようだった。

「じゃあ、佐賀でやる理由って何だ」

 レンはすぐには答えなかった。

 代わりに、テーブルの上のスマートフォンを手に取った。

『足す前に、地図を見ませんか』

「地図?」

『はい』

 レンは佐賀県を表示した。

 高瀬は思わず笑いそうになった。

「地図なら毎日見てる」

『都市計画図として? 交通図として? 観光マップとして?』

「それは、まあ」

『今日は、まだ何をするか決めていない地図として見ましょう』

 レンは画面を高瀬の方へ向けた。

 佐賀市。
 佐賀空港。
 有明海。
 鳥栖。
 福岡。
 長崎。
 熊本。

 見慣れた形だった。

 見慣れすぎて、何も見えなくなっていた形だった。

『佐賀って、本当に何もない県に見えますか』

 高瀬は少しだけ苛立った。

「そう言われるから困ってるんだ」

『僕は、そうは見えないです』

「何が見える」

 レンは指先で画面を少し縮小した。

『答えではないですけど、順番を変えれば、見えるものは変わると思います』

「順番?」

『はい。ITも、観光も、交通も、最初の答えにするには早すぎるのかもしれません』

 高瀬は資料に目を落とした。

 そこには、まさにその三つの言葉が並んでいた。

 IT。
 観光。
 交通。

 ずっと最初に置いてきた言葉だった。


2. IT企業を呼ぶ前に、ITが必要になる現場はあるか

「でも、ITは必要だろ」

 高瀬の声は、少し硬くなっていた。

 反論というより、確認だった。

「今どき、どこの自治体もデジタル化を言う。若い人を呼ぶなら、IT企業とかスタートアップとか、その手の言葉は避けられない」

『避ける必要はないと思います』

「なら、何が違う」

 レンはコーヒーを一口飲んだ。
 湯気が少しだけ残っている。

 しばらく黙ってから、手元の紙ナプキンを一枚取り、ペンで小さな四角をいくつか描いた。

 倉庫。
 空港。
 道路。
 市場。

 高瀬は黙ってそれを見ていた。

『昔、アトランタにしばらくいたことがあります』

「アメリカの?」

『はい。空港が大きい町です』

「佐賀と比べるには、あまりに大きすぎるだろ」

『比べているわけではありません』

 レンは紙ナプキンの端に、細い線を何本も引いた。

『ただ、そこで見たものは、今でもよく覚えています』

 彼の声が、少しだけ遠くなった。

『夜の空港でした。到着ロビーよりも、貨物エリアの方が明るく見えたんです。飛行機が遅れると、トラックの待機位置が変わる。荷物の優先順位が変わる。倉庫の中の出す順番が変わる。配送表は固定されたものじゃなくて、何度も組み替えられていた』

 レンはペン先で、紙の上の四角をひとつずつ叩いた。

『空港。倉庫。道路。ホテル。会議施設。配送センター。大学。全部が重なっていました』

「それがITと関係あるのか」

『むしろ、関係しかないと思いました』

 レンは静かに言った。

『人がいつ動くか。荷物がどこで詰まるか。飛行機が遅れたとき、どの配送に影響するか。倉庫の在庫をどの順番で出すか。トラックを何台、どの道に走らせるか。どこに待機させれば無駄が少ないか。どの遅れを許し、どの遅れを絶対に許さないか』

 高瀬は紙ナプキンの上の線を見た。

 ただの線なのに、そこに車の音が聞こえる気がした。

『そういう場所では、ITは飾りじゃありません。流行語でもない。ないと困るものです』

「つまり」

 高瀬はゆっくり言った。

「IT企業を呼ぶ前に、ITが必要になる現場がなければいけない」

『そうです』

 レンは頷いた。

『ITは、呼ぶものというより、生えるものに近いと思います』

「生える?」

『もちろん、勝手に生えるわけではありません。土壌がいる。複雑な現場がいる。予測しなければ損をするもの。追跡しなければ信用を失うもの。最適化しなければ回らないもの。止まると誰かが困るもの』

 高瀬は、資料の中にあった「IT企業誘致」という六文字を思い出していた。

 そこには、現場がなかった。

 ただ、企業だけが来ることになっていた。

「でも、佐賀にそんな現場があるか?」

 彼は言った。

「アトランタには巨大空港がある。物流もある。世界中から人も企業も来る。佐賀は違う」

『違います』

 レンはあっさり認めた。

「じゃあ無理だろ」

『同じものを作る必要はありません』

 レンは紙ナプキンを高瀬の方へ少し押した。

『大事なのは、アトランタになることではなくて、ITが必要になる現場とは何かを考えることです』

 高瀬は腕を組んだ。

「佐賀で?」

『佐賀で』

「何を現場にするんだ」

 レンは答えなかった。

 代わりに、スマートフォンの地図をもう一度開いた。

『高瀬さんは、佐賀をどう説明しますか』

「どうって……福岡の隣で、長崎に行く途中で、平野があって、のりがあって、有田焼があって、温泉があって」

 言いながら、高瀬は少し嫌になった。

 また、ばらばらに並べている。

 レンはそれを責めるでもなく、ただ言った。

『今の説明、全部名詞でしたね』

「悪いか」

『悪くありません。でも、名詞だけだと動かない』

 その言い方に、高瀬は少しだけ引っかかった。

「動かない?」

『はい。名詞は、そこにあるものです。流れではない』

 レンは地図を縮小した。

 佐賀平野が広がり、有明海が見えた。
 東には鳥栖、北には福岡、西には長崎、南東には熊本がある。

『流れとして見たら、どうなりますか』

 高瀬は答えなかった。

 佐賀を説明するとき、彼はいつも「何があるか」を考えていた。
 あるいは「何が足りないか」を考えていた。

 だが、何がどこからどこへ動いているのかは、あまり考えてこなかった。

「佐賀にあるものを、流れとして捉える……」

『はい』

「それで、ITが必要になる現場が見えるのか」

『見えるかもしれません』

「ずいぶん慎重だな」

『僕は提案書を書く人ではないので』

 レンは軽く笑った。

『地図の読み方を一つ増やすだけです』

 その言い方が、少しだけ高瀬を楽にした。

 答えを押しつけられているわけではない。

 ただ、見方を変えろと言われている。

「じゃあ、佐賀の流れって何だ」

 レンは有明海のあたりを指でなぞった。
 そこから、平野の上へ。
 さらに、山側へ。
 最後に、鳥栖の方へ。

『食べ物だけでは、少し狭い気がします』

「食べ物だけではない?」

『農業。水産。山。畜産。佐賀には、一次産業の現場がかなり揃っています』

「一次産業」

 高瀬はその言葉を繰り返した。

 聞き慣れた言葉だった。

 しかし、行政資料の中で「一次産業」は、たいてい課題の名前だった。

 担い手不足。
 高齢化。
 後継者問題。
 価格低迷。
 気候変動。
 販路拡大。

 明るい未来の言葉ではなく、守らなければいけないものとして扱われることが多かった。

『佐賀は、IT企業が足りない県なんでしょうか』

 レンが言った。

 高瀬は顔を上げた。

「違うのか」

『もしかすると、ITが必要になるくらい、一次産業を仕組みとして扱えていない県なのかもしれません』

 その言葉は、褒め言葉ではなかった。

 だが、否定でもなかった。

 高瀬は、資料の中の「IT企業誘致」という文字が、少し遠くなるのを感じた。


3. 佐賀は「何もない」のではなく、ばらばらに見えている

 レンは地図をさらに縮小した。

 佐賀県全体が画面に収まり、その周囲に福岡、長崎、熊本、大分の地名が現れた。

『佐賀の資源を、もう一度言ってもらえますか』

「また?」

『今度は、観光パンフレットみたいにではなく』

 高瀬は少し黙った。

 それから、地図を見ながら言った。

「お米。麦。大豆。玉ねぎ。れんこん。のり。有明海の水産物。佐賀牛。嬉野茶。みかん。山の方なら木材や、きのこもある。あと、鳥栖の物流。佐賀空港」

『かなりありますね』

「あるんだよ」

 高瀬の声が、思ったより強く出た。

 レンが顔を上げた。

 高瀬は苦笑した。

「あるから困るんだ」

 彼は、地図の上で有明海のあたりを見た。

「のりは強い。佐賀牛もある。お米もある。茶もある。野菜もある。山の方には木も、きのこもある。鳥栖は物流で強い。空港も一応ある」

『一応』

「一応だろ」

 高瀬はそう言ってから、少し声を落とした。

「でも、食べた人は佐賀を覚えない。コンビニのおにぎりを食べても、覚えるのはコンビニの名前だ。のりがどこから来たかなんて、普通は見ない」

 レンは黙って聞いていた。

「物流もそうだ。鳥栖を通って何かが動いても、それが佐賀の物語になるわけじゃない。空港は福岡空港と比べられて、弱いと言われる。農産物は農産物、のりはのり、牛は牛、茶は茶、鳥栖は鳥栖、空港は空港。全部ある。でも、全部別々だ」

 言い終えてから、高瀬は自分でも驚いていた。

 思っていた以上に、そのことに腹を立てていた。

 いや、腹を立てているのは外に対してだけではない。

 自分に対してもだった。

 高瀬自身も、同じように扱ってきた。
 担当課が違うから。
 予算が違うから。
 制度が違うから。
 会議が違うから。

 佐賀を、ばらばらの名詞として処理してきた。

 レンはしばらくしてから、小さく頷いた。

『それは、かなり大事な話だと思います』

「どこが」

『高瀬さんは、佐賀に何もないとは思っていない』

「思ってたら、こんなに困らない」

『でも、一つの文章にできない』

 その言葉に、高瀬は押し黙った。

 図星だった。

『佐賀は、特産品の県として見ると散らばっています。けれど、一次産業の県として見ると、かなり揃っている』

「一次産業の県……」

『農業、林業、水産、畜産。それに物流と空港がある。さらに隣に福岡という大きな消費地がある。西には長崎、南東には熊本もある』

「それは佐賀だけのものじゃない。熊本だって農業は強い。福岡南部でもできる」

『できます』

 また、レンはあっさり認めた。

「だったら、佐賀でやる理由は?」

『佐賀がいちばん強いから、ではありません』

 レンは言った。

『佐賀でやると、いちばん意味が変わるからです』

 高瀬はその言い方に引っかかった。

「意味が変わる?」

『福岡南部でやれば、福岡がさらに便利になる。熊本でやれば、農業大県にもう一つ産業が乗る。でも佐賀でやると、存在感の薄い県の見え方そのものが変わる』

「それは宣伝の話か?」

『立地と役割の話です』

 レンはスマートフォンの地図を拡大し、佐賀市の南側、有明海の近くを表示した。

『佐賀は、福岡ほど消費地ではない。熊本ほど大きな都市でもない。長崎ほど物語の強い観光地でもない』

「傷口を丁寧になぞるな」

『でも、だからこそ、後ろ側に回れる』

「後ろ側?」

『一次産業を集めて、整えて、次の市場へ流す側です』

 その言葉は派手ではなかった。

 だが、高瀬の中で、いくつかの点が初めて近づいた。

 有明海で育つ黒いのり。
 白石のれんこん。
 平野に広がる麦。
 茶畑の匂い。
 牛舎の湿った空気。
 山側の木材と、きのこの栽培棚。
 冷蔵庫の中で待つ肉。
 朝の市場に積まれる箱。

 それらは、これまで別々の資料にあった。

 別々の課題として処理されていた。

『佐賀は、何もないのではなく、ばらばらに見えているんだと思います』

 レンの声は静かだった。

 高瀬は地図を見たまま、しばらく黙っていた。

 何もない。

 その言葉は、外から投げられる言葉だと思っていた。
 だが、もしかすると、自分たちも同じように見ていたのかもしれない。

 のりはのり。
 お米はお米。
 牛は牛。
 茶は茶。
 鳥栖は鳥栖。
 空港は空港。

 それぞれの名詞として扱ってきた。

「でも、一次産業って言うと、どうしても古い印象になる」

 高瀬は言った。

「若い人が目を輝かせる言葉じゃない」

 レンは少し笑った。

『たしかに、「一次産業」と言われて目を輝かせる人は少ないかもしれません』

「だろ」

『でも、それは入口だけを見ているからです』

「入口?」

『作るところだけを見ると、古く見える。けれど、集める、加工する、保存する、運ぶ、追跡する、予測する、捨てる量を減らす、災害時にも止めない。出口まで見ると、かなり複雑です』

 高瀬は、先ほどのアトランタの話を思い出した。

 複雑な現場があるから、ITが必要になる。

『一次産業は、名前としては古い。でも、流れとして捉えれば新しい』

「流れとして捉える……」

『佐賀に必要なのは、特産品を増やすことではなく、今あるものをひとつの流れとして見ることかもしれません』

 高瀬は、資料の中の「観光資源の磨き上げ」という言葉を思い出した。

 磨き上げる。

 その言葉も間違ってはいない。

 だが、磨いたものをどこへ流すのか。
 誰に届けるのか。
 何と組み合わせるのか。
 どこで加工し、どこで保存し、どこで分配するのか。

 そこまでは、書かれていなかった。

「もし、一次産業を流れとして見るなら」

 高瀬はゆっくり言った。

「それを受け止める場所が必要になる」

『そう思います』

「農地でも、漁港でも、倉庫でもなく?」

『それらをつなぐ場所です』

 高瀬は地図に視線を落とした。

 佐賀市の南。
 有明海の近く。
 平野の先。
 滑走路の記号。

「佐賀空港か」

 口に出したあと、高瀬はすぐに首を振った。

「でも、そこは一番弱い場所だ。福岡空港がある限り、佐賀空港は勝てない」

 レンは少しだけ笑った。

『だからです』

「だから?」

『弱いとされている場所ほど、読み方を変えたときの反転が大きい』

 レンは滑走路ではなく、その周りの空白を指で小さく囲んだ。

 高瀬は、その指先を見ていた。

 それまで彼は、佐賀空港を見るたびに、飛行機の本数と利用者数を思い浮かべていた。

 でもレンは、滑走路の周りを見ている。

 飛ぶ場所ではなく、受け止める場所として。

その沈黙が、次の話の入口になっていた。


4. 一次産業は、古い産業の名前では終わらない

 高瀬は、画面の中の佐賀空港を見ていた。

 その記号は、見慣れているはずだった。

 県の資料にも、観光案内にも、交通アクセスの説明にも、何度も出てくる。

 けれど今は、それが少し違って見えた。

 滑走路ではなく、その周りの余白。

 空港ビルではなく、その南に広がる土地。

 飛行機の本数ではなく、そこへ何を集め、何を外へ出していけるのか。

 そう考えようとした瞬間、高瀬の中で、いつもの行政的な警戒心が戻ってきた。

「でも、一次産業をそこまで大きく見るのは、少し無理がある気もする」

 レンは指を止めた。

『無理、ですか』

「農業も、水産も、林業も、畜産も、それぞれ課題が違う。担当も違う。補助制度も違う。関係団体も違う。いきなり一つの流れみたいに扱うのは、きれいすぎる」

 高瀬は、言いながら自分の声が少し硬くなるのを感じた。

 これは反論というより、現場の反射だった。

 資料の上では、何でもつながる。

 けれど実務では、つながらない理由の方が先に出てくる。

 レンはすぐに否定しなかった。

『たぶん、その感覚は正しいと思います』

「正しい?」

『はい。現場では最初から一つには見えない。むしろ、最初は別々に見える方が自然です』

 レンは紙ナプキンに、また小さな四角を描いた。

 農業。
 海。
 山。
 畜産。

 それぞれの四角は、少し離れている。

『ただ、別々に存在していることと、最後まで別々に扱うことは違います』

 高瀬は黙って見ていた。

 レンはその四角の下に、別の言葉を書いた。

 集める。
 整える。
 保管する。
 検査する。
 運ぶ。
 記録する。

『ここから先は、かなり似てきます』

「似てくる?」

『ええ。お米でも、のりでも、牛肉でも、野菜でも、きのこでも、木材でも、何かを市場へ出すなら、必ずどこかで整える必要がある。集める。分ける。品質を見る。加工する。保管する。運ぶ。記録する』

 レンはペン先で、下の列をなぞった。

『入口は違う。でも、出口へ向かう途中で、共通する動きが出てくる』

 高瀬は、その言葉を聞きながら、県内のいくつかの場所を思い浮かべた。

 有明海沿いの作業場。

 朝の青果市場。

 郊外の倉庫。

 茶畑の斜面。

 山側の集落。

 牛舎の匂い。

 冷蔵車の白い車体。

 それぞれは別の課題だった。

 けれど、確かに「市場へ届くまで」の途中では、似たような動作をしている。

「一次産業を、入口じゃなくて出口まで見る」

 高瀬は、確認するように言った。

 レンは頷いた。

『そうです。名前だけで見ると、一次産業は古く見えます。でも、流れで見ると、かなり現代的になります』

「現代的?」

『たとえば、廃棄を減らすには需要予測がいる。温度を保つにはセンサーがいる。安全性を担保するには記録がいる。複数の産地から集めるなら、配送計画がいる。災害時にも止めないなら、備蓄と代わりのルートがいる』

 レンはそこで一度、言葉を切った。

『これ、古い産業でしょうか』

 高瀬は答えなかった。

 答えられなかった、というより、答えたくなかった。

 その問いの中に、自分たちが今まで一次産業をどう扱ってきたかが見えてしまったからだ。

 守るべきもの。

 支援すべきもの。

 衰退を防ぐもの。

 後継者を探すもの。

 そんな言葉ばかりで、産業として組み直す視点が足りていなかったのかもしれない。

「でも、そういうことを言うと、現場の人は嫌がるかもしれないな」

『どうしてですか』

「机の上で、農業も林業も水産も畜産も一緒に扱うなって言われる。たぶん、正しい」

『それも正しいと思います』

 またレンは認めた。

『だから、現場を一つにする必要はないんです。全部同じ産業だと言いたいわけでもない』

「じゃあ、何を一つにするんだ」

『途中の機能です』

 レンは紙ナプキンの下の列をもう一度指した。

『集める場所。整える場所。保管する場所。検査する場所。外へ流す場所。情報を残す場所。共有できる部分だけを、つなげる』

 高瀬は、その言葉を頭の中でゆっくり動かした。

 現場を一つにするのではない。

 機能をつなぐ。

 農家も漁師も林業者も畜産家も、それぞれの現場を持ったままでいい。

 ただ、市場に届くまでのどこかで、共通して必要になる処理がある。

 その共通部分を、佐賀の新しい産業として見られないか。

「一次産業そのものじゃなくて」

 高瀬は言った。

「一次産業を外へ出すための仕組みか」

 レンは少しだけ笑った。

『それなら、佐賀らしいと思います』

「佐賀らしい?」

『前に出て目立つより、後ろで流れを整える。福岡のように消費地の主役になるわけでも、長崎のように物語の主役になるわけでもない。でも、毎日必要なものを止めずに流す』

 高瀬は苦笑した。

「地味だな」

『かなり地味です』

「褒めてるのか」

『褒めています』

 レンは真顔で言った。

『地味なものほど、止まったときに重要性がわかります』

 その言葉に、高瀬は少し黙った。

 水道。

 電気。

 道路。

 物流。

 学校給食。

 病院の食事。

 介護施設の食事。

 普段は誰も気にしない。

 だが、止まると困る。

 佐賀が目指すべきものは、目立つことではないのかもしれない。

 止まらないこと。

 そう考えたとき、高瀬の中で、さっきまで古く見えていた一次産業という言葉が、少し違う形を帯び始めた。

 守るだけの産業ではない。

 組み直せば、インフラになる。

「でも、それをどこで受け止めるんだ」

 高瀬は再び地図を見た。

 有明海。

 平野。

 空港。

 鳥栖。

「農地でも、漁港でも、山でも、それぞれの現場だけでは足りない。流れとして扱うなら、途中に受け皿がいる」

『はい』

 レンは短く答えた。

 高瀬の視線は、自然と佐賀市の南へ向かった。

 見慣れた空港の記号。

 けれど今は、そこに旅客数だけが重なって見えなかった。

 集める。
 整える。
 保管する。
 検査する。
 運ぶ。
 記録する。

 さっき紙ナプキンに書かれた言葉が、滑走路の周りの空白に、薄く重なって見えた。

「佐賀空港か」

 もう一度、彼はその言葉を口にした。

 今度は、先ほどよりも少し低い声だった。

 そこには、ためらいだけではなく、引っかかりがあった。

 レンは答えない。

 ただ、地図の上で、空港の周囲を小さく囲んだ。

 その円は、まだ何でもなかった。

 けれど高瀬には、それが初めて、ただの余白ではなく見え始めていた。


5. 佐賀空港は、旅客空港として見るから弱く見える

「佐賀空港は、難しい」

 高瀬は最初にそう言った。

 それは感情ではなく、ほとんど反射だった。

「福岡空港がある。便数も、アクセスも、知名度も違う。県外から見れば、佐賀空港を使う理由は弱い。県内でも、場所によっては福岡へ行った方が便利だと言われる」

 言いながら、高瀬は何度も聞いてきた議論を思い出していた。

 空港利用促進。

 国際線誘致。

 観光客増加。

 アクセス改善。

 駐車場の利便性。

 空港から市内への移動。

 どれも必要だった。

 けれど、どれも福岡空港という巨大な比較対象から逃れられなかった。

「旅客空港として見るなら、弱い」

 高瀬は自分でそう結論づけた。

 レンは、すぐには反論しなかった。

『旅客空港として見るなら、そうだと思います』

「だろ」

『でも、旅客空港としてしか見ない理由はありますか』

 高瀬は言葉を止めた。

 理由。

 考えたことがなかった。

 空港とは、人が飛行機に乗る場所だ。

 だから、旅客数で見る。

 便数で見る。

 路線で見る。

 アクセスで見る。

 当然のことだと思っていた。

『僕は地方空港を見るとき、滑走路だけでは見ないんです』

 レンはスマートフォンを少し自分の方へ引き寄せた。

『周りに何があるかを見ます。農地があるのか。港があるのか。倉庫があるのか。病院があるのか。災害時に使える広さがあるのか。近くに市場があるのか。高速道路の接続はどうか』

「空港なのに、飛行機じゃなくて周りを見るのか」

『飛行機は飛びます。でも、地域は飛びませんから』

 高瀬は少し笑った。

「変な言い方だな」

『自分でもそう思います』

 レンも笑った。

 その軽さのあとで、彼は滑走路ではなく、空港の周辺を指した。

『ここを見るんです』

 高瀬は画面に目を近づけた。

 佐賀空港。

 有明海に近い低地。

 佐賀平野の南。

 市街地から少し離れた場所。

 広い空白。

 普段なら、その空白は「アクセスが悪い」と読まれる。

 人が集まりにくい場所。

 都市の中心から遠い場所。

 福岡空港と比べて不利な場所。

 だが、レンは別のものを見ている。

『旅客を集める場所として見ると、弱いかもしれません。でも、一次産業を集め、整え、外へ流す場所として見ると、違う表情になります』

「集め、整え、外へ流す場所」

『はい。農産物、水産物、畜産物、山側の資源。そういうものを、いったん受け止める。整える。冷やす。包む。検査する。必要なら小口で空に出す。災害時には備蓄もする』

 高瀬は、レンの言葉を頭の中で地図に置いていった。

 空港ビル。

 滑走路。

 駐車場。

 周辺の土地。

 そこに、冷蔵倉庫や加工場や検査施設が重なっていく。

 不思議なことに、旅客ターミナルとして見ていたときよりも、地図が少しだけ自然に見えた。

「でも、空港である必要はあるのか」

『必ずしも空港でなければいけない、とは言いません』

 レンはまた慎重だった。

『ただ、空港には時間距離を変える力があります。人を運ぶだけではなく、急ぐもの、価値の高いもの、少量でも鮮度やタイミングが重要なものを扱う理由になる』

「佐賀牛を海外に飛ばすとか、そういう話か?」

『それも一部です。でも、もっと広く見てもいいと思います。試作品、サンプル、高付加価値の食品、小口の輸出、災害時の物資。空港は、それらの選択肢を持たせる装置です』

「大きな貨物空港にする話じゃないんだな」

『それは違うと思います』

 レンは即座に言った。

『福岡空港と競争する必要はありません。大きな貨物空港を目指すのではなく、一次産業の流れの中に、空港という選択肢を置く。旅客で勝てないなら、別の役割で読む』

 高瀬は椅子にもたれた。

「それなら、負け方が変わる」

『負け方?』

「いや」

 高瀬は少し考えてから言い直した。

「比べる相手が変わる、か」

 福岡空港と旅客数を比べれば、佐賀空港は弱い。

 便数を比べても、アクセスを比べても、勝てない。

 だが、佐賀平野と有明海と一次産業の流れの中に置くなら、比較の軸が変わる。

 それは福岡空港の劣化版ではない。

 別の装置になる。

 高瀬は、その考え方に少し怖さを覚えた。

 あまりにも簡単に、見慣れた弱点の意味が変わり始めている。

「でも、現実にはアクセスが悪い」

 彼は自分を引き戻すように言った。

「市街地からも距離がある。鳥栖にも遠い。道も完璧じゃない。そんな簡単にはいかない」

『簡単にはいかないと思います』

「また認める」

『認めます。弱点を消す話ではなく、弱点の読み方を変える話なので』

 レンは画面上で、佐賀空港から東へ指を動かした。

 有明海沿岸。

 佐賀市の南。

 さらに東へ。

 鳥栖方面。

『ここが、ただの不便な距離なのか。それとも、一次産業を受け止める場所と、外へ流す場所をつなぐ距離なのか。そこは考える価値があると思います』

「一次産業を受け止める場所と、外へ流す場所」

 高瀬は復唱した。

『佐賀空港周辺が、一次産業を受け止めて整える場所になるなら、次に必要なのは、それを外へ出す場所です』

 高瀬はレンの指先を追った。

 東へ。

 鳥栖。

 その地名は、高瀬にとって馴染みがあった。

 物流の町。

 交通の結節点。

 九州自動車道と長崎自動車道と大分自動車道。

 福岡にも近い。

 九州全体へ出ていける。

 けれど、それはいつも「鳥栖の強さ」として語られていた。

 佐賀全体の物語としては、なかなかつながらなかった。

「鳥栖は強い」

 高瀬は言った。

「でも、鳥栖は鳥栖なんだよ」

『そう見えますね』

「佐賀市から見ても、県西部から見ても、少し独立している。物流では強いけど、それが佐賀全体の主語になる感じがしない」

 レンは地図を少し広げた。

『だから、空港側に何を置くかが大事なんだと思います』

「どういうことだ」

『鳥栖が出口だけを持っていても、佐賀全体の物語にはなりにくい。でも、空港周辺に一次産業を受け止める場所ができれば、鳥栖は出口になります』

 高瀬は黙った。

 受け止める場所。

 出口。

 その二つの言葉が、地図の上で初めて距離を持った。

 佐賀空港周辺で受け止め、整え、保存し、必要なら加工する。

 鳥栖で混載し、分配し、九州全域へ出す。

 福岡へ。

 長崎へ。

 熊本へ。

 北九州へ。

 それはまだ絵空事に近い。

 けれど、さっきまでの「空港利用促進」という言葉より、はるかに佐賀の地図に根を下ろしていた。

『佐賀空港は、旅客空港として見るから弱く見える』

 レンは言った。

『でも、一次産業を受け止める場所として見ると、弱さの形が変わる』

 高瀬は、空港の記号を見つめた。

 飛行機の本数ではなく、滑走路の周りの余白。

 利用者数ではなく、そこへ何を集められるか。

 福岡空港との比較ではなく、鳥栖との接続。

 彼は、初めて空港を「通過点」ではなく「受け皿」として見ようとしていた。

「それなら」

 高瀬はゆっくり言った。

「鳥栖の意味も、変わるな」

 レンは何も言わなかった。

 ただ、地図をさらに東へ動かした。


6. 鳥栖は佐賀の端ではなく、外へ出るための端子だった

 鳥栖は、佐賀県の東の端にある。

 高瀬はずっと、そう思っていた。

 福岡に近い町。

 交通の便がいい町。

 物流施設が集まる町。

 プロスポーツの名前で知られる町。

 けれど、県全体の話をするとき、鳥栖はどこか扱いが難しかった。

 佐賀市の延長ではない。

 唐津とも、武雄とも、伊万里とも違う。

 福岡に近すぎて、佐賀らしさから少し外れて見えることさえある。

「鳥栖は便利だ」

 高瀬は言った。

「でも、便利すぎて、佐賀の中で浮いている」

『浮いている』

「福岡側を向いている感じがする。物流は強い。でも、佐賀の物語にはなりにくい」

 レンはその言い方を、少し面白がるように聞いていた。

『港町でも、似たようなことを感じたことがあります』

「港町?」

『はい。いくつかの港町を見ていると、港は必ずしも町の中心ではないんです。駅前や商店街や市役所の方が、人の生活の中心に見える。でも、町が外と交換するための口は、港にある』

 レンは手元の紙ナプキンに、簡単な図を描いた。

 町。
 港。
 外。

 その三つを線でつなぐ。

『港だけを見れば、倉庫や岸壁やトラックばかりで、あまり物語はありません。でも、産地や工場や市場とつながった瞬間に、意味が変わる』

「港は出口になる」

『そうです』

 レンはスマートフォンの地図を鳥栖に戻した。

『鳥栖も、倉庫街として見ると地味です。便利な場所、で終わる。でも、佐賀空港側に一次産業を受け止める場所ができるなら、鳥栖は出口になる』

 高瀬は地図を見つめた。

 佐賀空港周辺。

 佐賀市の南。

 有明海。

 そこから東へ、鳥栖。

 これまで鳥栖は、佐賀の端だった。

 だが今は、外へ向いた口のように見えた。

「鳥栖は佐賀の端じゃない」

 高瀬は、ほとんど独り言のように言った。

「佐賀が外へ出るための端子だった」

 言ってから、自分でその言葉に驚いた。

 端子。

 行政資料にはあまり出てこない言葉だ。

 だが、地図を見ていると妙にしっくり来た。

『それ、いい言い方ですね』

 レンが言った。

「褒めるな。まだ思いつきだ」

『思いつきでいいと思います。最初は、言葉が変わるところから始まるので』

 高瀬は地図を指でなぞった。

 今度は、レンではなく、高瀬自身の指だった。

 佐賀空港から鳥栖へ。

 そこから福岡へ。

 北九州へ。

 長崎へ。

 熊本北部へ。

「佐賀空港周辺が受け皿になる。鳥栖が出口になる。福岡が大きな市場になる。長崎や熊本からも、ものが入ってくる」

 言いながら、高瀬はまだ不安だった。

 あまりにもきれいにつながりすぎている。

 実際には、そんな単純ではない。

 道路も、人も、企業も、予算も、政治もある。

 県境も、市町の利害もある。

 海沿いの低地なら、防災も考えなければならない。

 だが今は、それを全部言うと、またいつもの資料に戻ってしまう気がした。

 できない理由は、いくらでもある。

 それでも、初めて「何をつなげばいいのか」が見え始めていた。

『今、地図を自分でなぞりましたね』

 レンが言った。

「それがどうした」

『さっきまでは、僕が指していました』

 高瀬は、自分の指がまだ画面の上にあることに気づいた。

 すぐに手を引っ込めた。

「嫌なところを見るな」

『システムを見る仕事なので』

 レンはそう言って笑った。

 高瀬も少しだけ笑った。

 店の外を、遅い時間のバスが通り過ぎた。

 窓ガラスがわずかに震え、テーブルの上のコーヒーに小さな波が立った。

 その波を見ながら、高瀬は言った。

「でも、人はどう動くんだ」

『人?』

「ものの流れは、少し見えてきた。でも、それだけだと物流の話だ。町は変わらない。人が通わないと、働かないと、住まないと、結局、地方創生の話にはならない」

 それは高瀬にとって、次の現実だった。

 貨物は動くかもしれない。

 企業は来るかもしれない。

 だが、人はどう動くのか。

 空港周辺に働く場所ができるとして、誰が通うのか。

 佐賀市内からか。

 周辺の町からか。

 福岡からか。

 長崎からか。

 公共交通はあるのか。

 車だけで足りるのか。

 高齢者や若い人はどうするのか。

 高瀬の頭の中に、また交通の資料が浮かんだ。

 空港アクセス。

 バス路線。

 LRT。

 BRT。

 道路整備。

 新幹線。

 言葉だけなら、いくらでもある。

 だが、さっきまでの話を聞いたあとでは、どれも最初に置くには早すぎる気がした。

「交通も、最初じゃないのか」

 高瀬は言った。

 レンは、少しだけ表情を緩めた。

『たぶん、最初ではないです』

「なら、何のあとに来る」

『流量のあとです』

 レンは窓の外を見た。

『昔、宇都宮でLRTを見たとき、そのことを考えました』

「また別の町か」

『ええ。でも、今度の話は少し近いと思います』

 高瀬は資料を横に置き、スマートフォンの地図をもう一度見た。

 佐賀空港。

 鳥栖。

 佐賀市。

 福岡。

 有明海。

 地図の上には、まだ何も描かれていない。

 けれど高瀬には、さっきよりも多くの線が見えていた。

 まだ正式な路線ではない。

 道路でも、鉄道でもない。

ただ、ものと人が動き始める前の、薄い気配のような線だった。


7. 観光も交通も、最初の答えではなかった

『昔、宇都宮でLRTを見たときのことです』

 レンはそう言って、コーヒーの残りを少しだけ飲んだ。

 店の外では、夜の佐賀駅前を車が静かに流れていた。

 人通りは多くない。

 けれど、完全に止まっているわけでもない。

 街は、音を小さくして動いている。

 高瀬は、その窓の外を見ながら言った。

「宇都宮のLRTは、ニュースで見た。新しい路面電車だろ」

『はい。でも、現地で見ると、ただ新しい乗り物が走っているという感じではなかったんです』

「どう見えた?」

『駅と、町と、工業団地のあいだに、一本の骨が通ったように見えました』

 高瀬は少し黙った。

 骨。

 その言葉は、道路や鉄道よりも、身体に近い感じがした。

『観光客のためだけの線ではなかった。通勤する人がいて、工場へ向かう人がいて、学校へ行く人がいて、町の外側にあったものが、少しずつ町の中の話になっていく』

「交通が町を変える、という話か」

『半分はそうです。でも、順番があると思いました』

 レンは紙ナプキンの空いているところに、短い線を一本引いた。

『交通が最初に夢としてあるのではなくて、先に流量がある。人が動く理由がある。行き先がある。そこに交通が形を与える』

 高瀬は、さっき自分が言った言葉を思い出した。

 人はどう動くんだ。

 ものの流れが見えたあとに、ようやく出てきた問いだった。

「佐賀の場合、いきなりLRTじゃないな」

 高瀬は言った。

 レンは頷いた。

『そう思います』

「まず、働く場所がないといけない。人が通う理由がないといけない。食品でも、木材でも、水産でも、畜産でも、何かを集めて、整えて、外へ流す場所ができる。そこに毎日人が行く。初めて交通の話になる」

 言いながら、高瀬は少し不思議な感覚になった。

 自分が今、交通を否定しているわけではない。

 むしろ、交通の必要性を前よりも強く感じている。

 ただ、置く場所が変わった。

 最初の答えではなく、途中で必ず出てくる問い。

『高瀬さん、もう自分で組み立てていますね』

「からかうな」

『からかっていません』

 レンは紙ナプキンの線の横に、小さく「BRT」と書いた。

 その先に、少し間を空けて「LRT」と書く。

『最初から軌道でなくてもいいと思います。まずバスで測る。人の動きが本当に出るのかを見る。そこから、都市の骨格として必要になるかどうかを考える』

「それなら、現実に近い」

『ええ。夢を小さくする話ではなく、夢を壊さない順番にする話です』

 その言葉に、高瀬は目を上げた。

 夢を壊さない順番。

 行政では、よく「現実的に考えろ」と言う。

 その言葉は、たいてい夢を小さくする方向に働く。

 予算がない。
 人がいない。
 前例がない。
 合意形成が難しい。
 責任を取れない。

 だが今、レンが言っているのは少し違った。

 順番を間違えると、夢は早く壊れる。

 だから順番を変える。

 それは、諦めとは違う。

「観光も、同じか」

 高瀬はふと言った。

 レンは少しだけ嬉しそうな顔をした。

『たぶん、同じです』

「最初に観光地を作るんじゃない」

『ええ』

 レンはテーブルの上の砂糖の袋を一つ取り、紙ナプキンの上に置いた。

『前に、食品工場を見に行ったことがあります』

「また旅の話か」

『旅というより、仕事のついでです』

 レンは笑った。

『そこでは、子どもたちが列を作っていました。自分だけのカップ麺を作るために、容器に絵を描いて、具材を選んで、包装されるところを見ていた。親は写真を撮っていて、売店では限定商品が売れていた』

 高瀬はすぐに、いくつかの場所を思い浮かべた。

 明太子の工場。
 菓子の工場。
 ビール工場。
 カップ麺のミュージアム。

 工場。
 試食。
 直売。
 体験。
 企業の歴史。
 子どもの学び。

『面白いのは、そこが最初から観光地だったわけではないことです』

 レンは言った。

『先に産業がある。作っているものがある。工程がある。歴史がある。人に見せられるように整えると、観光になる』

「産業が見えるようになったとき、観光になる」

 高瀬は、その言葉を自分の中で反芻した。

 佐賀の観光は、弱い。

 ずっとそう言われてきた。

 たしかに、誰もがすぐに思い浮かべる巨大な観光地があるわけではない。

 長崎の夜景や原爆資料館、熊本城、別府温泉のような、外から見たときの強い記号は少ない。

 けれど、佐賀に何もないわけではない。

 有明海で育つのり。
 お米。
 茶。
 佐賀牛。
 れんこん。
 きのこ。
 山の木材。

 それらが、作られ、整えられ、運ばれる過程。

 それは、普段は見えない。

 だが、見えるようにすれば、どうだろう。

「佐賀の観光は、絶景から始めなくてもいいのかもしれない」

 高瀬は言った。

『どう始めますか』

「食卓の裏側」

 言ってから、高瀬は少し照れた。

「いや、まだ言葉がきれいすぎるな」

『でも、悪くないと思います』

 レンは紙ナプキンの上に、今度は小さく「見える化」と書いた。

『一次産業は、見えにくいです。特に加工や流通は、ほとんどの人に見えない。でも、見えないものが見えるようになると、そこに学びや体験が生まれる』

「のりがどう育てられて、どう加工されて、おにぎりになるのか。茶がどう摘まれて、どう商品になるのか。木材がどう切られて、どう建物や道具になるのか。災害時の食料がどう備蓄されるのか」

 高瀬は自分で言いながら、少しずつ言葉の温度が変わるのを感じていた。

 それはもう、単なる「観光振興」ではなかった。

 観光を先に作るのではない。

 産業が先にあり、それを見えるようにする。

 そうすれば、観光は後から生える。

「ITも、観光も、交通も」

 高瀬はゆっくり言った。

「最初の答えじゃなかったんだな」

 レンは何も言わなかった。

 高瀬は続けた。

「ITは、現場が複雑になったあとに必要になる。観光は、産業が見えるようになったあとに生まれる。交通は、人とものの流れができたあとに骨格になる」

 口に出すと、それは驚くほど単純だった。

 なぜ、最初からそう考えなかったのだろう。

 たぶん、順番を間違えていたからだ。

 地方創生の資料では、いつも最初に大きな言葉が並ぶ。

 IT。
 観光。
 交通。
 移住。
 若者。
 関係人口。

 けれど、それらは起点ではなく、結果なのかもしれない。

 起点はもっと地味で、もっと足元にある。

 土地。
 産業。
 毎日必要とされるもの。
 止まると困る流れ。

 高瀬は、紙ナプキンの上の言葉を見た。

 集める。
 整える。
 保管する。
 検査する。
 運ぶ。
 記録する。

 その横に、レンが書いた言葉。

 BRT。
 LRT。
 見える化。

 さらに最初の紙には、アトランタの記憶から生まれた四角と線が残っている。

 空港。
 倉庫。
 道路。
 市場。

 どれもまだ、正式な計画ではない。

 だが、ばらばらだった佐賀の言葉が、少しずつ順番を持ち始めていた。

「順番が違っていたんだ」

 高瀬は言った。

 それはレンへの返事というより、自分への確認だった。

 レンは静かに頷いた。

『間違っていた、というより、早すぎたのかもしれません』

「早すぎた?」

『ITも、観光も、交通も、悪い言葉ではない。ただ、最初に置くと、何を支えるためのものなのかが見えなくなる』

 高瀬は資料のことを思い出した。

 IT企業誘致。
 観光資源の磨き上げ。
 空港利用促進。

 それらはもう、完全に間違った言葉には見えなかった。

 むしろ、必要になるかもしれない。

 だが、一行目ではない。

 一行目に置くべき言葉ではなかった。

「じゃあ、一行目は何だ」

 高瀬は小さく呟いた。

 レンは答えなかった。

 その沈黙が、今夜の会話の中でいちばん優しかった。

 答えをもらうのではない。

 自分で書かなければいけない。

 高瀬は、そう思った。

 店を出るころには、夜はさらに深くなっていた。

 駅前の明かりは多くない。

 タクシー乗り場の白い灯りと、コンビニの看板だけが少し強く光っていた。

 遠くの空は暗く、平野の方角には、何もないように見える広がりが沈んでいる。

 けれど高瀬には、その暗さが少し違って見えた。

 何もない暗さではなかった。

 まだ線が引かれていない場所の暗さだった。


8. 提案書には、まだ何も書かれていなかった

 翌朝、高瀬はいつもより少し早く県庁に着いた。

 廊下にはまだ人が少なく、蛍光灯の白い光が、床にまっすぐ落ちていた。

 自動販売機の低い音だけが、妙にはっきり聞こえる。

 自席に座り、パソコンを立ち上げる。

 昨日閉じた文書ファイルを開いた。

 タイトル欄は、まだ空白のままだった。

 カーソルが点滅している。

 高瀬はしばらく、その点滅を見ていた。

 昨日までなら、そこに何を書いただろう。

 地域資源を活用した観光振興事業。
 IT企業誘致による雇用創出プラン。
 佐賀空港利用促進プロジェクト。
 若者定着・移住促進パッケージ。

 どれも書ける。

 いまでも書ける。

 けれど、それらを一行目に置く気にはなれなかった。

 高瀬は机の上に、昨夜レンが使った紙ナプキンを置いた。

 店を出るとき、レンが「いらなければ捨ててください」と言って渡してきたものだった。

 そこには、雑な字がいくつも残っている。

 農業。
 海。
 山。
 畜産。
 集める。
 整える。
 保管する。
 検査する。
 運ぶ。
 記録する。
 空港。
 倉庫。
 道路。
 市場。
 BRT。
 LRT。
 見える化。

 どれも、そのまま企画書に載せられる言葉ではない。

 粗すぎる。
 根拠も足りない。
 予算もない。
 誰を巻き込むのかも決まっていない。

 実際に何かを動かそうとすれば、もっと多くの問題が出てくる。

 農地のこと。
 水害のこと。
 道路のこと。
 企業のこと。
 現場との調整。
 市町の利害。
 国の制度。
 民間の投資。

 考え始めれば、いくらでも手が止まる。

 けれど、不思議なことに、高瀬は昨日ほど怖くなかった。

 問題が消えたわけではない。

 むしろ、現実の重さは前よりもはっきり見えている。

 それでも、昨日とは違っていた。

 彼はもう、「佐賀に何が足りないのか」だけを考えていなかった。

 何が足りないかではなく、何がつながっていないのか。

 その問いに変わっていた。

 高瀬はキーボードに手を置いた。

 最初に「佐賀空港」と打とうとして、やめた。

 それでは、まだ空港利用促進の話に見える。

 次に「一次産業」と打とうとして、やめた。

 それだけでは、農業振興の資料に見える。

 「食料」と打ちかけて、また消した。

 狭すぎる。

 佐賀にあるのは、食べ物だけではない。

 農地があり、海があり、山があり、畜産があり、物流があり、空港があり、隣に大きな市場がある。

 高瀬は、ゆっくりと打った。

 佐賀を、九州北部の一次産業を支えるインフラ県として読み替える。

 打ち終えたあと、しばらく手を止めた。

 それは、事業名としては長すぎる。

 企画書のタイトルとしても、まだ固い。

 上司に見せれば、「もう少し分かりやすく」と言われるだろう。

 だが、高瀬には、それが今必要な一行に思えた。

 政策名ではない。

 事業名でもない。

 予算要求の見出しでもない。

 地図の読み方だった。

 彼はその下に、もう一行だけ書いた。

 観光、IT、交通を最初の答えにしない。

 少し迷ってから、その続きも打った。

 それらが必要になる一次産業の流れを、先に設計する。

 そこまで書いて、高瀬は椅子にもたれた。

 提案書には、まだ何も書かれていない。

 正確に言えば、まだ何も決まっていない。

 どこに何を作るのか。
 誰が運営するのか。
 企業が来るのか。
 道路はどうするのか。
 空港は本当に役割を持てるのか。
 鳥栖とどうつなぐのか。
 現場の人は納得するのか。

 何ひとつ、答えは出ていない。

 だが、昨日までとは違う空白だった。

 昨日までの空白は、何を書いても同じになりそうな空白だった。

 今日の空白は、まだ線を引けていない地図のようだった。

 高瀬は、机の端に置いた県内地図を広げた。

 佐賀市。
 佐賀空港。
 有明海。
 鳥栖。
 唐津。
 嬉野。
 武雄。
 伊万里。
 福岡。
 長崎。
 熊本。

 以前なら、それぞれ別の名前だった。

 観光地。
 物流拠点。
 農業地帯。
 空港。
 港。
 温泉。
 隣県。

 いまは、そのあいだに、まだ薄い線が見える。

 正式な線ではない。

 道路でも鉄道でもない。

 予算化された事業でもない。

 計画図に引かれた赤い線でもない。

 ただ、あるものとあるもののあいだに、まだ試されていない関係があるように見えた。

 そのとき、隣の席の職員が出勤してきた。

「高瀬さん、早いですね」

「ああ」

「例の地方創生案ですか」

 高瀬は画面を見た。

 まだたった数行しかない。

「まだ、案にもなってない」

 そう言ってから、彼は少し笑った。

「でも、最初の一行は書けた」

 職員は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 高瀬はもう一度、画面の一行を見た。

 佐賀を、九州北部の一次産業を支えるインフラ県として読み替える。

 それが本当に正しいのかは、まだ分からない。

 実現できるのかも分からない。

 誰かに笑われるかもしれない。

 「また大きな話を」と言われるかもしれない。

 現場を知らない机上の空論だと叩かれるかもしれない。

 それでも、高瀬はもう、「佐賀には何もない」とは書けなかった。

 何もないのではない。

 まだ、つながっていない。

 その違いだけで、提案書の空白は別のものになった。

 窓の外には、朝の光が広がっていた。

 昨夜見た黒い平野は、薄い金色に変わり始めている。

 高瀬は新しい行にカーソルを置いた。

 まだ文章は続かない。

 けれど、昨日までとは違って、止まっている感じはしなかった。

 地図の読み方が変わると、足りないものではなく、つながっていないものが見えてくる。

 その朝、佐賀の地図は、高瀬の中で初めて、ひとつの文章になった。


後書き

この物語は、佐賀県の具体的な政策提案ではありません。

書きたかったのは、地方創生の「正解」ではなく、ものの見方が変わる瞬間です。

IT企業誘致、観光振興、移住促進、空港活用。

どれも間違ってはいないと思います。

けれど、それらを最初の答えにすると、その土地にすでにあるものが見えにくくなることがあります。

佐賀に何かを足す前に、佐賀にあるものをどうつなぐか。

この物語で高瀬が手に入れたのは、完成した提案書ではありません。

ただ、最初の一行を書けるだけの新しい地図です。

「できない理由」は、たいてい正しい。

でも、その背後には、別の読み方が残っていることがあります。

もう無理だと思ったとき、
本当に足りないものは何なのか。

それとも、まだつながっていないだけなのか。

この物語が、その問いを持ち帰るきっかけになれば嬉しいです。


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