白紙のあとに残るのは、声と体重だった | #風まかせ文芸部
「申し訳ありません。本日のオーディションは、企画自体が白紙になりました」
受付の人は、何度も言い慣れている言葉みたいに、淀みなくそう言った。
私は一拍だけ間を置いて、すぐに笑った。
「……そうなんですね。わかりました」
声は、ちゃんと出た。
少し明るめで、語尾も上げて。
面接用の声だ。反射みたいなものだった。
「お名前、もう一度確認してもいいですか?」
自分でも驚くくらい、落ち着いて聞こえたと思う。
名前も、日付も、合っていた。
だから、何かの間違いだと思いたかった。
紙の入ったクリアファイルを、まだ手から離せないまま、私は立っていた。
さっきまで、ここで最後の面接があるはずだった。
防音の扉の向こうで、私の声が評価される予定だった。
――最後の壁。
たったそれだけの言葉が、胸の奥で何度も反響する。
ここまで来たのは、初めてだった。
主役じゃない。
でも、シリーズにずっと出てくる名前付きの脇役。
「路人A」じゃない役。
それだけで、世界が少し違って見えた。
「初めてだね、ここまで来たの」
一次通過のメールを見せたとき、焼肉店の先輩がそう言ってくれた。
油の匂いと、換気扇の音の中で、私は何度も画面を確認した。
文字が消えないことを確かめるみたいに。
受付の前で、私はもう一度だけ頭を下げて、その場を離れた。
エレベーターのボタンを押す指先が、少しだけ冷たかった。
怒りは、すぐには来なかった。
代わりに、変な静けさがあった。
誰に文句を言えばいいのか、わからなかったからだと思う。
担当者はいない。
説明は「企画の都合」。
それ以上でも、それ以下でもない。
――じゃあ、あの時間は?
夜中まで原稿を読んだこと。
「もう一段、感情を足してみよう」と言われて、声を探したこと。
ヘッドホン越しに、自分の呼吸が少し速くなっていくのを感じたこと。
それ全部が、「なかったこと」になるなんて。
胸の奥が、じわっと熱くなった。
でも、それを誰かにぶつける先がない。
私は駅まで歩きながら、頭の中で何度も条件を並べ始めていた。
延期とか。
別日程とか。
企画が復活したら、連絡をもらえるとか。
言葉にすればいいのに、どれも口には出なかった。
代わりに、思い出が勝手に流れ込んでくる。
最後の面接室。
静かで、無駄な音が一切なくて。
マイクの前に立った瞬間、背筋が自然に伸びた。
「役に入ってください」
そう言われたとき、私はもう“選ばれる側”の場所に立っていた気がした。
期待されている自分。
役割がはっきりしている自分。
その中にいるときは、楽だった。
今の自分より、ずっと。
駅のホームで立ち止まり、私は小さく背筋を伸ばした。
息を吸って、吐く。
声は、まだ使える。
でも、行き先だけが、少し曖昧になっていた。
電車に乗っている間、私は一度もスマホを見なかった。
通知が来る気がしなかったし、来ても困ると思った。
車内アナウンスの声が、やけに遠く聞こえる。
つり革につかまる手に、力が入りすぎていることに気づいて、そっと緩めた。
降りる駅は、いつもと同じだった。
焼肉店の裏口を開けると、油と煙の匂いが一気にまとわりつく。
換気扇の低い音。
グラスが触れ合う高い音。
誰かの笑い声。
「お疲れさまー」
私は反射で、少し明るめに返事をした。
この声も、もう役みたいなものだ。
エプロンをつけて、注文を取って、肉を運ぶ。
身体は勝手に動く。
でも、今日はそれがやけに重かった。
立っているだけなのに、足の裏が床に沈む感じがする。
何も足していない自分でいると、こんなにも身体は重いんだ、と初めて思った。
声優志望です、と言わなくていい時間。
期待される役も、名前もない時間。
ただの私。
それが、少し怖かった。
閉店後、椅子に座り直して、体重を背もたれに預ける。
呼吸が、ゆっくり元に戻っていく。
思い返そうとすると、さっきまで溢れていた思い出が、もう出てこなかった。
録音室の静けさも、頷きも、どこかに引いていく。
役は、もう終わったんだと思った。
否定されたわけじゃない。
成功もしなかった。
ただ、下ろされた。
それだけのことなのに、胸の奥にぽっかり空いた感じがする。
家に帰って、バッグからクリアファイルを取り出す。
捨てる気にはなれなくて、引き出しの一番下にそっと入れた。
なくさないように、でも、すぐに触れない場所。
それでいい気がした。
シャワーの音を聞きながら、私は何も考えなかった。
何かを決めるほどの力は、今日はもう残っていなかった。
それでも、身体は知っている。
止まり続けるほうが、もっと重くなることを。
ドライヤーを切って、テーブルの上に置いたスマホを見る。
次のオーディション企画のページを開くまで、少しだけ時間がかかった。
「またか」と思う気持ちと、
「それでも」という感覚が、同時にあった。
勇気が湧いたわけじゃない。
前向きになれたわけでもない。
ただ、打たないままでいると、明日がもっとつらくなるとわかっていた。
番号を押す。
呼び出し音が、静かに鳴る。
私は、もう一度だけ背筋を伸ばして、通話ボタンを押した。
あとがき
今回、はじめて #風まかせ文芸部 に参加させていただきました。
「白紙」というお題に向き合いながら、
なくなったものより、あとに残った感覚を書いてみました。
企画の場をひらいてくださったこと、
そして読んでくださったことに、静かに感謝しています。
また、風が向いたときに。
今回のショートショートは、
事件タロットの二枚のカード を軸に組み立てています。
