ショートショート みみなり1 太一
6月の夕暮れだというのにまだ暑さが残っている。手稲駅で電車を降りた途端、ぬるい大気が太一にまとわりついた。
駅舎を出る。足の裏に、舗道の熱を感じる。そのまま線路沿いを戻ると、ものの5分で自宅だ。古くて小さいが駅チカ格安物件で、結婚を機に購入した。真っ直ぐ「帰れば…」の5分だが。
駅前ロータリーの左手に数件の商店や飲食店が並んでいる。その中ほどにある河合書房へ入った。欲しい本があるわけではない。家で妻の美耶がどうしているか想像がついたから、少しでも帰宅を先延ばしにしたかった。
今朝も、太一が起きてから会社へ行くまでの間、2階の美耶の寝室からは物音一つしなかった。
半年前の結婚式後、一軒家へ引っ越してまもなく、美耶はめまいや耳鳴りがすると寝こむようになった。
最初に症状が出た時は、救急車を呼んで駅の反対側にある急性期総合病院に運ばれた。が、救急医は「容態は落ち着いている。急を要するものではないようだ。家で様子を見るように。何かあったら来てください」とにべもなく、すぐ帰された。
翌日、太一は心配で近所の内科クリニックへ連れて行ったが、二人が納得するような結果が得られず、二十四軒にある少し大きな病院へ回った。
そこの内科では原因がわからないといわれ、脳神経外科や神経内科、耳鼻科など様々な診療科で診てもらうことになった。
一日がかりでたくさんの検査をしたが、結論は同じようなもので、原因不明。しかしどの科も何種類かの薬を出した。
「薬はにがいからいやだ。原因がわからないのに何の薬を出すわけ」と美耶は山ほどになったどの薬も飲んではいない。
同僚に評判の良いめまいの専門病院を教えてもらい、受信することにしたが、完全予約制だ。
受信まで少し日にちがあくが、症状は同じような感じで続いていた。耳鳴りで何も手につかない。
めまいで長く立ち仕事ができない。
その専門病院では、一日がかりで検査をしたが、結果に異状がないので様子を見るようにと、内服薬さえ処方されなかった。
通院に時間がとられ、太一の仕事に支障をきたすようになったため、両方の親とも話し合い、しばらくは静観しょうということになったのが4月のはじめごろだった。
さじを投げたわけではない。
ある時、美耶はこう言った。
「洗濯と掃除はいつものようにできたの。でも夕食の支度をしようとキッチンに立った途端、耳鳴りの大きいのが押し寄せてきて、揚げようと思って出した冷凍コロッケが、気がついたら解けてグズグズになっていたの」
耳鳴りで一晩眠れなかったと一日起きてこなかった日もあった。その夜、帰宅すると一階は真っ暗で、キッチンは菓子パンや弁当屋の食べ残しでちらかっていた。
太一は、この傾向がはっきりするにつれ、自分がやればいいのだ、と思うようになった。
専業主婦だからとか、女だから家事や料理をするのは当たり前だと思っているわけではないからだ。
親の世代と今は感覚が違う。太一が結婚する前、実家では母親がパートに出るようになってから、キッチンには都合の良いものが立つという雰囲気になっていた。
近頃は、仕事から帰って家に入ると、美耶はたいがいソファに横になっている。シンクには何がしかの食べ物の残骸や朝からの洗っていない食器の山があり、夕飯の支度と思しきものはない。
結婚したら専業主婦になって家のことをする、と彼女が決めたのだ。いつか症状が落ち着いて、少しずつ家事をできるようになるだろう。
こんな状態いつまでも続くはずはない。
まずは健康を取り戻してもらいたい。自分に言い聞かせながら、疲れていてもキッチンに立つようにしていた。
昨日も太一が夕食を作った。何でもいいからパワーの湧く和食を食べたかったので、駅前のスーパーで買い物をして帰宅した。
朝はトーストとインスタントコーヒー。昼間は暑くて食欲がなく、菓子パンとジュースしか口にしていなかった。外食は、どうしても肉系の洋食になってしまい、暑さで弱った胃が受け付けないというのもある。
冷や麦と、梅干とおかか、刻みネギが乗った冷奴と、縞ホッケの開きと、甘めの厚焼き卵だ。帰宅後30分で作り終わった。
ソーメンの薬味にはミョウガと小葱。付けダレは、麺用のつゆと胡麻ドレッシングを混ぜてみた。
美耶は、おいしいおいしいと喜び、全部食べた。その様子を見ながら太一は我慢の限界が近づいているかもしれないと感じていた。
本屋へ入って30分後、なんとなく北海道内の温泉を紹介している雑誌を買い、河合書房を出て自宅へ向かう。
玄関灯は点いていた。チャイムを鳴らしても返事がないのはいつものことだが、帰宅したことを知らせるために一応鳴らす。扉の鍵を開ける。
「ただいま。具合はどうだ。昼に何食べた?」
ソファで寝ている美耶に、立て続けに呼び掛けるのもいつものルーティーンだが、最近は棒読み状態だ。
自分の顔つきにはきっと険があると思っている。気持ちを見られたくないから様子を見には行かない。テレビは消したばかりなのかピシピシと小さい音を立てていた。
キッチンを使った形跡はない。太一が朝飲んだコーヒーカップがそのままシンクにあり、美耶が使ったらしいカップや皿もある。
食卓テーブルに雑誌を置き、上着を脱いでキッチンに入った。手を洗って、道々考えていたカフェ風のナポリタンを作り始める。
料理をするのははまんざら嫌いではない。独り暮らしだった学生のときの自炊経験や飲食店でのアルバイトが今生きていた。冷蔵庫に何があるかも把握していた。いない間に美耶が食べていなければの話だが。
美耶が起きて手伝おうとするのがうるさかった。
「寝ていていいよ」
シンクに材料を並べていく。パルミジャーノレッジャーノは三年もので、自ら大丸デパートで買ったものだ。コクの深さ、濃い香りが好きだった。パスタ、ケチャップとベーコン、玉ねぎ、それにトマト缶を出す。
冷やしていた麦茶がなくなりそうだ。
『気を利かしてお茶ぐらい作っとけよ』と心のなかで言いながら茶葉のパックをケトルに放り込んで沸かす。
できあがったナポリタンに四面チーズグレーターで三年物をすり下ろす。香りが食欲を誘う。トマト缶でソースを多めにしたからコクがあってうまかった。自画自賛だと思いながらも、何度もうまいうまいと頷いていた。
「後片付けは私がやるから」
食べ終わるとティッシュペーパーで口を拭きながら美耶が言う。
「休んだらいいよ。夜眠れないんだろ」
美耶は太一の言葉に、嬉しそうでも悲しそうでもある表情でこくんとうなずいて洗面所へ歯を磨きに行った。
『寝てれば…』という投げやりな言葉が口をついて出そうになるが、我慢して、皿やなべなどの洗い物をしてから1階の和室に入った。
耳鳴りやめまいがひどくなってから「同じベッドに寝ると、太一の動きでマットレスが揺れ、めまいが増長することがある」といわれ、ダブルベッドの下の狭い空間に布団を敷いて寝ていたが、手足を伸ばせず寝心地が悪いし、早朝出勤の日もある。先月から和室を寝室にしている。
明日は早いから、朝すぐ出られるように背広をハンガーにかけ、ワイシャツや靴下、ハンカチをまとめて通勤カバンのそばに置く。
部屋へ入るとき、美耶が洗面所から「明日は起きられると思う」とかなんとか言っていたが、あてには出来ないし、したくもなかった。
長い時間シャワーを浴びた。ぬるま湯に肩や背中を打たれていると昼の疲れが取れていく。いつか温泉へ行こうと雑誌を買ったわけではないが日帰りもいいかもな、疲れが取れるだろうと考える。
靴下とパンツを手で洗い、洗濯機で絞って干した。ワイシャツとハンカチはまとめてクリーニングへ出していた。
居間に戻ると、美耶はまだそこにいた。ソファで昼間使っていた枕やタオルケットを片付けている。
太一は、黙ってテレビをつけニュース番組にした。冷蔵庫からビールを持ってきてソファに沈む。
美耶は寝具を抱え、いやにゆっくりとした動作で2階へ引き上げた。
「耳鳴りって嫌なものよ。わかる? ずーっと聴こえるの、頭の中で。聴いていると音がどんどん大きくなってやる気を奪うの。こんなものこの世になくたっていいのに」
前に美耶がそう言って泣いていたことがあった。
今なら僕にもわかりそうだ。こんな共同生活を続けていては、美耶は僕の耳鳴りになってしまう。
