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『迷い箸の昼』 短編小説

『迷い箸の昼』

 昼休みのチャイムが鳴っただけで、胃の奥が小さく動く。
 午前中の会議は長引き、資料の数字はやけに刺々しく、返したいメールは増える一方。
 こういう日は、ちゃんとした昼が必要だ。
 ちゃんとした昼、というのは、腹を満たすだけじゃない。自分をいったん、元に戻す昼だ。

 会社を出ると、空気は意外と冷たい。ビルの影が長く伸びて、歩道の端に薄い風だまりができている。
 さて、どこへ行く。

 スマホを取り出す。地図アプリを開く。
スマホを見れば、いくつか候補は出てくる。
でも、眺めているうちに、かえって迷ってしまう。

 “人気” “穴場” “今すぐ入れる” みたいな言葉が並ぶほど、胃袋は急に黙り込む。
 こっちは昼飯を食べたいだけなのに、選択肢が増えると、なんだか人生の岐路みたいな顔をしてくる。

 結局、画面を閉じた。
 こういう日は、足に決めてもらう。

 信号を渡り、一本裏へ入る。
 表通りのランチ行列は、見ているだけで胃が遠のく。
 角を曲がると、急に音が少なくなる。車の唸りが薄まり、代わりに換気扇の回る低い音が聞こえてくる。
 いい。こういう“生活の音”がある場所は、外れにくい。

 小さな商店の並びの中に、木の引き戸の店があった。
 派手な看板はない。のれんの色が少し褪せていて、白い文字で「めし」とだけ書いてある。
 入口の横に、手書きの札。

「日替わり 豚しょうが焼き 小鉢二つ 味噌汁 ごはん」

 よし。今日はこれだ。
 選ぶというより、拾う。落ちていた“正解”を拾う感じ。

 引き戸を開けると、鈴が小さく鳴った。
 店の中はこぢんまりしていて、カウンターが七席ほど。奥にテーブルが一つ。
 昼の混み始める前なのか、席は半分くらい空いている。
 油の匂い、醤油の匂い、湯気の匂い。
 その全部が混ざって、妙に落ち着く。

「いらっしゃい。おひとり?」

 返事をして、カウンターの端に座る。
 水が置かれる音が、やさしい。

「日替わりで」

 注文が口から出た瞬間、午前中のささくれが少しだけ剥がれ落ちる。
 不思議だ。まだ一口も食べていないのに、“決まった”だけで救われる。

 目の前の鉄板で、肉が焼ける。
 ジュッ、と小さく鳴って、次に香りが来る。
 生姜が立ち、醤油が甘くなり、脂が湯気に変わって空へ逃げる。
 その湯気を見ていると、胸の奥に溜めていた息が、勝手に抜けていく。

 やがて、トレーが目の前に置かれた。

 白いごはん。味噌汁。小鉢が二つ。
 そして、豚しょうが焼き。
 肉の照りが、きれいだ。
 上には千切りキャベツ。端にレモン。赤い福神漬けがちょんと添えられている。

 まず味噌汁。
 湯気が顔に当たって、ほっとする。
 具はわかめと豆腐。こういうのでいい。こういうのがいい。
 味が派手じゃないのに、体のどこかが「戻った」と言う。

 次に、しょうが焼きをひと口。
 ……うまい。
 生姜が前に出るのに、尖っていない。醤油の甘さが後ろに回って、肉の脂をやさしく受け止める。
 噛むたびに、肉の繊維がほどけて、湯気が鼻の奥でふわっと広がる。

 ごはんが、追いついてくる。
 白い粒が、ちゃんと甘い。
 しょうが焼きのタレが少し染みたところを狙って口に入れると、昼が完成する。

 小鉢は、ひじき煮と、ほうれん草のおひたし。
 地味だ。でも、この地味さが、昼の背骨になる。
 油と塩気のあとに、こういう静かな味が入ると、体の中の騒音が消えていく。

 箸を動かしているうちに、ふと気づく。
 俺、さっきまで何に追われてたんだっけ。
 メール。会議。数字。
 もちろん大事だ。でも、今ここで噛んでいる肉の方が、もっと確かなものに思えてしまう。

 店内のテレビは音を絞ってあって、字幕だけが淡々と流れている。
 隣の席の人が、同じ日替わりを黙々と食べている。
 誰も急かさない。誰も励まさない。
 ただ、同じ昼がここにある。

 最後に、キャベツをタレで少し濡らして、レモンをきゅっと絞る。
 酸味が入った瞬間、口の中が明るくなる。
 ああ、そうか。
 今日の俺には、この“明るさ”が必要だったんだ。

 食べ終わって、手を合わせる。
 ごちそうさまでした、と心の中で言うと、店の空気が少しだけやわらぐ気がする。

 会計をして、外へ出る。
 さっきより風は冷たいのに、胸の内側が温い。
 背中の重さが、少し軽い。

 午後はきっと、すごくうまくはいかない。
 でも、さっきのしょうがの香りみたいに、ひとつひとつは片づけられる気がする。

 ビルへ戻る道。
 ポケットの中でスマホが鳴った。
 画面は見ない。今はいい。
 まずは、エレベーターまで歩く。
 それだけで、今日は十分だ。

(終)

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