『月曜日の花瓶』 短編小説
月曜日の朝、重たい足取りで向かったオフィスビル。
無機質なロビーの片隅で、僕を待っていたのは「一輪の花」と「小さな手紙」でした。
働くすべての人へ贈る、週の始まりのやさしい物語。
🌼 『月曜日の花瓶』
月曜日の朝は、どうしてこんなに体が重いんだろう。
電車を降りて会社のビルに向かう足取りは、いつもより半歩ずつ遅い気がした。
スマホの画面には、未読メールの数と、今日の会議の予定。
見れば見るほど、引き返したくなる数字ばかりだ。
ビルの自動ドアが開くと、空調の乾いた風が吹き抜けた。
磨き上げられた大理石の床に、白い壁。
どこまでも無機質で、冷たいグレーの景色。
けれど、そのロビーの片隅にだけ、まるでそこだけスポットライトが当たったように、鮮やかな「色」が浮いていた。
小さな丸テーブルの上に、一輪挿しの花瓶。
そこに、毎週月曜日になると花が生けられるようになったのは、いつからだっただろう。
今日の花は、真っ黄色なガーベラが一本だけ。
無彩色の空間の中で、その黄色は目が覚めるほど眩しく、細い首をすっと伸ばして朝の光を受けている。
花瓶の前には、手のひらサイズのカードが立てかけてあった。
『月曜日、おつかれさまです。
今週も、ゆっくりスタートで大丈夫。』
丸みのある、読みやすい字。
誰が書いているのかは分からない。
ビルの管理会社の人なのか、総務の誰かなのか、あるいはまったく別の誰かなのか。
最初に見つけたとき、正直、ちょっとだけ冷めた目で「そういう企画か」と思った。
でも、月曜日のたびに花が変わり、メッセージも少しずつ違うことに気づいてからは、エレベーターのボタンを押す前に、無意識にそのテーブルへ寄るようになっていた。
今朝も例外ではない。
――ゆっくりスタートで大丈夫。
「……そう言われると、少しだけ救われるな」
誰に聞かせるでもなくつぶやいて、僕はネクタイを直した。
すると、背後でかすかな足音がした。
「おはようございます。花、見てくださってるんですね」
振り向くと、作業服姿の年配の男性が立っていた。
胸元の名札には、「ビル管理 高橋」と書かれている。
「いつもより長く立ち止まっていたので、うれしくなっちゃいました」
「あ、すみません。邪魔でしたか」
「いえいえ。むしろ、見てもらうために置いてますから」
男性は、花瓶の水の量を確認しながら笑った。
「高橋さんが、飾ってるんですか」
「ええ。趣味みたいなもんです。花屋さんで一本だけ買ってきて、ここに置かせてもらってるんですよ」
「一本だけ、なんですね」
「そう。たくさんあると、“誰かのため”ってより、“イベントっぽく”見えちゃうでしょ。
一本なら、今ここを通る誰か一人に届けばいいかなって」
なるほど、と僕はガーベラを見つめた。
広いロビーに、たった一輪。だからこそ、その存在感は特別だった。
「カードも高橋さんが?」
「そうです。字は古臭いでしょう?」
高橋さんは少し照れたように笑う。
「昔、現場で働いてた頃ね。月曜の朝、若い子たちがいつも暗い顔して集まってくるんですよ。
“今週もきついなあ”って。
でも、誰か一人がちょっとだけ笑うと、不思議と周りも少し楽になる。
それがずっと印象に残っててね」
彼は花瓶の位置を、数センチだけずらした。
「だから、このビルでも、月曜の朝だけは、せめてスタート地点に“あたたかいもの”があったらいいなと思って」
スタート地点。
月曜日のロビー。
眠い頭でただ通り過ぎるだけの「冷たい通路」だと思っていた場所が、急に違って見えた。
「先週は、青い花でしたよね。“深呼吸してからで大丈夫です”って書いてあって」
「ああ、見てくださってたんですね」
高橋さんの目尻が、さらにやわらかくなる。
「あれ、会議の前に読みました。ちょっとだけ、助かりました」
「それはよかった」
彼は少しだけ真剣な表情になった。
「月曜日って、どうしても“完璧に頑張らなきゃ”って思いがちじゃないですか。
でも本当は、“とりあえず会社に来られた時点で合格”くらいでちょうどいいのかもしれません」
その言葉に、思わず笑ってしまう。
「合格……ですか」
「ええ。ネクタイしてここに立ってるだけでも、なかなかの合格点ですよ」
なんだ、それくらいでいいのか――と思った瞬間、肩の重さがすっと落ちていく気がした。
思えば、誰かにそんなふうに言ってもらったことは、あまりなかった。
「来週の花も、楽しみにしていてください」
「はい。……あの、ありがとうございます」
「いえいえ。こちらこそ、立ち止まってくれてありがとう」
高橋さんは軽く会釈をして、そのままモップとバケツを転がしながら、廊下のほうへ歩いていった。
ロビーには、鮮やかなガーベラとカードだけが残る。
『今週も、ゆっくりスタートで大丈夫。』
僕は、改めてその言葉を心の中でなぞった。
完璧じゃなくていい。
全部を今日のうちに片づけなくてもいい。
とりあえず、席について、目の前の一つだけやる。
それくらいで、今は十分かもしれない。
エレベーターの「上」のボタンを押す。
扉が開く直前、ふと振り返ると、無機質なグレーの景色の中で、ガーベラの黄色だけが小さな灯りのように揺れていた。
それだけのことなのに、胸のどこかが、ほんの少しだけあたたかい。
「よし」
誰にも聞こえないくらいの声で呟いて、僕はエレベーターに乗り込んだ。
特別なことは何もない月曜日。
でも――なんとか、今週もやってみるか。
そう思えるだけで、少し世界の色が変わった気がした。
(終)
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