『一度だけ、顔を上げる』 短編小説
ここは、風の通り道だ。
石の冷たさと、土のやわらかさがちょうど半分ずつ混ざる場所。
枯れ葉はカサカサして、乾いた枝は軽く鳴る。
朝の匂いが薄くなって、日なたの匂いが濃くなるころ、わたしはここに体を伸ばす。
背中に陽が当たると、毛の一本一本がほどけていくみたいで、眠りが深くなるのを知っている。
神社は、いい。
人の足音が遠くで止まり、手を打つ音が空気を二度揺らす。
鈴の音は高くて、短い。
鳥の声とまざって、しばらく耳の奥に残る。
お供えの甘い匂いが風に混じる日もあるし、雨の日の木の匂いが濃い日もある。
ここでは、世界がいつも少し静かで、急がなくていい。
だから、眠る。
眠っている間も、ぜんぶ聞こえている。見えている。
まぶたの向こうで、光が動くのがわかる。影が伸びたり縮んだりするのがわかる。
人が近づく気配は、足音より先に届く。空気がふっと変わるから。
あなたが来たのも、いつもそれでわかる。
あなたは、少しだけ立ち止まる。
呼吸がふわっと静かになる。
遠慮の形って、匂いがある。
急がない匂い。怖がらせない匂い。
わたしはそれを覚えている。
だから、顔を上げるのは一回でいい。
「いるよ」
そう言うみたいに、目だけであなたを見る。
ちゃんと見えてる、気づいてる、ここにいる。
あなたがわたしを見つけたことも、わたしがあなたを覚えていることも、そこで確認する。
そして、また眠る。
それは「興味がない」って意味じゃない。
逃げないのは、「安全」って意味だ。
わたしは、毎日いろんな人を見てきた。
大きな声の人、足を速める人、見下ろして覗きこむ人、かわいいと叫ぶ人。
こわいときは、体が先に動く。考えるより先に、逃げる。
でもあなたは、違う。
近くに来るときの足取りが、波みたいにゆっくりだ。
手の出し方が、風みたいに小さい。
わたしが眠っていることを、ちゃんと尊重する。
だから、わたしはここにいられる。
なでられると、毛がすこし逆立って、それから落ち着く。
あたたかい。
指先の温度は、陽だまりとは違う種類の温度で、それがいい。
背中の緊張がほどけて、肩のあたりが軽くなる。
眠りの底に沈みながら、「だいじょうぶ」という言葉を聞くみたいに安心する。
それでも、わたしは甘えすぎない。
猫には、猫の距離がある。
長く触られれば、どんなにやさしくても疲れるときがある。
だから、あなたがそっと引くとき、わたしはちゃんと嬉しい。
引くことができる人は、信じられる。
欲しがりすぎない手は、こわくない。
あなたはたぶん、「どうして逃げないの?」って思っている。
逃げないのは、わたしが強いからでも、慣れすぎたからでもない。
ただ、ここがわたしの「今日」で、あなたがわたしの「平気」の中にいるからだ。
神社は毎日同じ顔をしているようで、毎日ちがう。
風もちがうし、匂いもちがう。人の願いの重さもちがう。
その中で、あなたはいつも同じくらい静かだ。
わたしが一度だけ顔を上げるのは、挨拶。
あなたがそっとなでるのは、祈り。
それが交わると、この場所は、ただの土と枯れ葉の上じゃなくなる。
「ここにいていい」
そう言われているみたいで、わたしはまた、目を閉じる。
眠りは、信頼の形だ。
神社の午後の光の中で、わたしはそれを少しずつ、あなたに渡している。
そして、あなたが去ったあとも、わたしはここで伸びをして、また眠る。
手を打つ音が遠くで鳴る。
鈴が揺れる。
風が通る。
世界は今日も、少しだけ静かで。
ここでは、急がなくていい。
(終)
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