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『最後の掃除機』 短編小説

『最後の掃除機』

 父が亡くなって三日。実家の片づけをしていた。  物が多い家ではなかったが、それでも部屋の隅という隅に、父の丁寧な生活の跡が残っていた。
 押し入れを開けると、古い掃除機がひとつ置かれていた。  僕が中学生の頃から使っていたもので、今ではもう売っていない古い型だった。  手に取ると、どこか温もりが残っているような気がした。

 父は几帳面な人だった。  毎週日曜の朝、決まってこの掃除機で家中を掃除していた。  僕が高校受験で夜遅くまで勉強していたときも、父は音を立てないよう気を遣い、廊下だけをそっと掃除していた。
「勉強の邪魔するなよ」
 そう言って笑った父の顔が、ふいによみがえる。

 スイッチを入れると、低いモーター音が部屋に響いた。  家に人の声はないのに、不思議と安心する音だった。
 掃除機を動かしながら、ふと気づいた。
 この音――どこか、父の声に似ている。
 父が叱るときの低い声。  父が僕の部活の試合を見ながら「いいぞ」と笑ったときの表情。  夜遅くまで仕事をしていたときの、あの小さな咳ばらい。
 その全部が、掃除機の音に混ざって聞こえた。
 胸の奥が熱くなり、涙がにじむのを止められなかった。

 父は、言葉が下手な人だった。 「頑張れ」も「愛してる」も「大丈夫か」も、ほとんど口にしない。
 だから僕も言えなかった。 「ありがとう」も、「ごめん」も、そして――  本当はずっと言いたかった「大好きだよ」も。
 掃除機を止めると、部屋は急に静かになった。  その静けさが、胸にぐっと刺さった。

 ゴミを捨てようと紙パックを開けると、奥にホコリとは違う異物が見えた。  取り出してみると、それは色あせた青い折り紙だった。  端が少し破れ、長い年月を物語っている。
「……これ」
 覚えがあった。  震える手で広げると、幼い字が現れた。
『おとうさん、だいすき。  いつもありがとう。  これ、プレゼント。』
 横には、下手くそな似顔絵。  笑った父と、幼い僕が手をつないでいる。
「……小学二年生の時か」
 書いたものの、照れくさくて渡せなかった手紙。  どこかに置き忘れたはずだった。
 父は、それを見つけて捨てられなかったのだ。  そしてずっと、この掃除機の中に入れたまま、誰にも言わずに持っていたのだ。

 胸がぎゅっと締めつけられ、僕は膝をついた。
「……父さん」
 声が震えた。
「ずっと、持っててくれたんだな」
 掃除機を見ると、古い本体が静かにそこにあった。  何度も修理した跡がある。  新しい掃除機を勧めたこともあった。
 でも父は「まだ使える」と言って、この掃除機を離さなかった。
 ――もしかして。  この中に、僕からの“たったひとつの手紙”が入っていたから。

「父さん……」
 涙が止まらなかった。
「俺も、本当は言いたかったんだよ」
 折り紙を胸に抱きしめる。
「ありがとう。  そして……大好きだよ」
 掃除機に触れると、ほんの少しだけ温かい気がした。  まるで父が「分かってる」と言ってくれているように。

 窓の外には、よく晴れた秋の空が広がっていた。
 掃除機を見つめる。
 古いから、動くけれどいつ壊れてもおかしくない。  けれど――。
「持って帰ろう」
 自然と、そう呟いていた。
「父さんが大事にしてたものだから」
 この掃除機の音は、もう父の声には聞こえないかもしれない。  それでも、使うたびに父を思い出せる。
 何度でも「ありがとう」を言える。
 折り紙は財布の中へ、小さく折ってしまった。  掃除機は車の後部座席に乗せた。
 父の声は、もうここにはない。  けれど最後に届いた小さな紙切れと、この掃除機が――  父の想いのすべてだった気がした。
 空を見上げると、ゆっくりと雲が流れていく。
「また来るよ、父さん」
 車のドアを閉めると、秋の空はどこまでも澄み渡っていた。

(完)

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