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過去と未来の、現在への侵略:神林長平「太陽の汗」

「他者から保証される自己など幻にすぎない。目覚めるがいい」

パラレルワールドというのはSFで好んで扱われる題材だ。現実の世界のあたりまえを解体して、常識や知性の別のありようについて問題提起し、私たちをして、私たちの世界の再構築をせざるを得ないようにする、SF ならではの、わかりやすい舞台設定である。

たとえば、周囲の反対を押し切って妻と結婚した私のいる今の世界と、周囲の反対に折れて結局結婚しなかった私の世界と、そんな具合に複数の平行宇宙が存在して、そのような無数の並行宇宙の中の一つに私は生きている、という考え方がある。時間旅行で過去や未来に行き来するなどして、複数の平行宇宙を経験することができる。可能性としての平行宇宙 (*) である。

また、今、私のいるこの世界とはまったく違う世界が平行して存在して、私たちはそれと知らずに住んでいるという設定もある。実在としての平行宇宙 (*) である。

実際、無からビッグバンによってこの世界が生成されたとすると、他にも無数の世界が同様に生成され、存在していると考えるのは自然である。我々の住む4次元の時空間とは限らず、6次元とか、10次元といった世界も生成しているとも考えられる。無数の世界が生成されたとすれば、その中で、この世界と非常に似たような世界もあるはずなので、やはり私がいて、その私はまったく異なる世界で異なる経験をしている、ということもあるだろう。

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もちろん、時間旅行や、次元を飛び越える、あるいは不思議な女の子の存在、など、複数の世界の間が何かの拍子で、あるいは何かを媒介して、つながり交流ができて物語ができるわけだ。それによって、生きる主体としての私の体験としては、想像もしていなかった別の世界が現前に現れ、驚きの体験をしていくというストーリーとなる。自分のいる(いた)世界と、新たに表れたパラレルワールドも、私が生きて経験する場であることには変わりはない。

この場合、別の世界に自分自身がいたとしても、それは自分自身ではなく、「パラレルワールドに住む自分」である。神林長平の「敵は海賊・海賊版」も名作だが、ここで描かれているパラレルワールドはそのようなものとして描かれている。


また、複数の世界を同時に経験しながら主体的に生きていくという設定もあり、2019年におおいに騒がせた伴名連の「なめらかな世界と、その敵」は、そのようななめらかな世界が描かれており、とても新鮮だった。

もっと破綻したパラレルワールドは P. K. ディックの描く世界だ。すでに様々な力で生み出されるパラレルワールドのなかで錯綜している。そこに生きる人物はどのパラレルワールドにいるのかさえわからない。

しかし、そんなふうに世界に翻弄されているのは、まさに私たち自身ではないだろうか。

さて、「太陽の汗」で、神林長平が描く世界は、単なる、人間が生きる場としての複数の並列の世界が設定されているわけではない。「現実の世界」に、複数の別の世界が侵入してくるのだ。自動翻訳機、VCR、ワードプロセッサ、世界通信社の機器などの情報端末と通信ネットワーク、地球コンピュータ群を通じて、それぞれの世界がつながり、言葉を通じて人間が共有する現実の空間に、過去と未来の世界が侵入、いや、侵略してくる。

それは、あたかも、世界が私たちの生きる場としてあるではなく、世界自体が意思を持って運動し、世界から疎外されてしまった私たちを翻弄しているようだ。

ところで、言葉は、現在に過去の世界を伝えることができ、あるいは未来の世界に意味を投げかけることで、現在への未来からのメッセージとなる。

過去のことをくよくよ悩んで目の前の美しい風景を楽しめず心ここにあらず、という場合もあれば、未来の自分の成功を夢見て、あるいは避けがたい未来に起こるであろう失敗を不安に思い、目の前の風景に重ね合わせつつ、心ここにあらず、という場合もあるだろう。まさに、過去から、そして未来からの現在への侵略である。

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ここで、現在に侵略してくる過去あるいは未来の世界を成り立たせているものは、私たちが直接に様々な感覚器官を通じて得られる直観を総合したものではなく、言葉によって構成される概念であることがわかるであろう。

さて、私が手元に持っている書下ろし光文社文庫版のカバーの裏側のあらすじの紹介には次のように書かれている。

日常会話さえ、機械を介して行う世界・・・・。その中で、自己を見失い苦悶する男の姿を、SF界の俊英が斬新なタッチで描いた警告小説!

自己を見失う、というのはどういうことだろう。自分が誰だかわからなくなるとはどういうことだろうか。自分が誰だかわかっている、というのは、この世界の中で、人間の社会の中で位置づけられ、他者との関係性の網のなかにいるということではないだろうか。

しかし、そのような社会との関係性のみから自己を理解しようとすると、どこかおかしいことになってくる。人はパンのみで生きるにあらず、しかし、霞のみを食って生きているわけでもない。


「他者から保証される自己など幻にすぎない。目覚めるがいい」

人間は身体という物理的な実体を持ち、皮膚という物理的な境界をもち、免疫系によって他者と区別される自らの生命を持つからである。自らの身体と、感覚器官によって得られる様々な現象と、これらによって、自己が、この世界との関係性の持つ中で生まれてくるのだ。

ここには逃げ道はない。私は、あの男に吐いてみせるものはなにもないのだ。私を私と認めてくれる者はこの世にはいない。私は独りだ。それも怪しいものだ。私はすでにどこにもいない。いない者は数えられない。

「あなたは独りではない」

主人公の JH は、身体の一部であった情報機器を捨て去り、言葉と概念の支配する幻想の世界から解放され、様々な物理的な感覚を取り戻すことで、他人によって保証される自己ではなく、自ら生きる主体として歩み始める。最後の場面が、食卓で、できたてのスープを食べるシーンであることは象徴的である。

生きることはとても簡単で、難しいことではなかった。




(*) ここでいう「可能性としての平行宇宙」も実在する、という立場もある。また「実在する平行宇宙」の実在を疑い、理論上の可能性だ、とする立場もある。が、ここでは話を簡単にして、わかったような気になれる用語で区別したかったので、私の好みもあるが、このような単語とした。


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