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瀬戸際


人間という生き物は、
人生で何度も「瀬戸際」に立たされる。


$${\large 受験の合格発表}$$

$${\large 告白の返事}$$

$${\large 健康診断の結果}$$


そして、意外と誰も語らないもうひとつの瀬戸際がある。


「これ、すかしても大丈夫か?」


という問題である。


┈┈┈┈┈┈┈┈


その日、ぼくは仕事の打ち合わせへ向かっていた。


車を運転しながら、
今日の段取りを頭の中で何度も組み立てる。



最初は世間話をして…
資料を広げて…
あの話題を切り出して…


そんなことを考えていた。


ところが人生というのは、
予定外の議題を突然ねじ込んでくる。



腹である。


「ああ。いる…。」






なんとなくだが、確実にいる。



長年付き合っている相手なので、
その気配だけで分かる。



これは緊急事態ではない。



かといって、完全に無視できるほど穏やかでもない。



いわば、

「ちょっとだけ主張したいガス」
である。


ここで人は判断を迫られる。


①我慢するか。



それとも、

②少しだけ世に送り出すか。





僕は長年の経験を総動員した。


これまで何千…
いや何万回と積み重ねてきた実績がある。


統計学的にも、おそらく大丈夫だ。


いや、
かなり大丈夫だ。



そう思った。


僕は運転しながら、
ほんの少しだけ力を抜いた。



本当に少しだけ……



料理でいうなら、
塩ひとつまみ程度である。


その瞬間。




$${\huge 「あ!」}$$


と思った。


人生には「あ!」という一文字で片づけられない瞬間がある。


財布を忘れたとき…

送信先を間違えたとき…

階段があと一段残っていたとき…

そして今である。


僕は、ハンドルを握ったまま固まった。


今のは何だ‼︎

空気か?

それとも、質量を伴った何かか?






いや、空気であってほしい。



頼む‼︎
今日だけは勘弁してくれ。
仕事の打ち合わせなんや。


不思議なもので、
人間は追い込まれると驚くほど高性能になる。



耳は聞いていない音を探し、
皮膚は感じていない感触を探し、
脳は全エネルギーを尻周辺の解析に注ぎ込む。



最新のスーパーコンピューターも、この瞬間の中年男性には勝てない気がする。


┈┈┈┈┈┈┈┈


現地に着いた僕は、
真っ先にトイレを探した。


「確認」をしなければいけないからだ。


個室に入り、鍵を閉める。




_____深呼吸。

_____ふぅぅぅぅ。


ゆっくり確認する。






そこに何もなければ勝利。



でも、もし…



もしも、ほんのわずかでも
『実』が付いていた場合…


それはもう、人生の授業料。











___何もない。


見事なまでに何もない。
完全勝利である。


僕は個室の中で、
思わず小さくガッツポーズをした。






あれほど疑っていた自分が恥ずかしい。



腹よ。 *よ。 すまん。



僕はお前を信用していなかった。


┈┈┈┈┈┈┈┈


打ち合わせは無事に終わった。


何を話したかは、
正直あまり覚えていない。


でも、一つだけは鮮明に覚えている。


あの日いちばんの成果は、
契約でも提案でもなく、


「セーフだった。」



その一言に尽きる。


アラフィフになると分かる。


人生の幸せというのは、
案外こういうものだ。



誰にも褒められない。
履歴書にも書けない。
勲章ももらえない。



でも、心の底から



$${\LARGE 「助かった…」}$$



と思える出来事が、
ときどき人生にはある。


それだけで、その日は少しいい日になるのである。