ノクターンによせて 第五話
――松永先生にお裾分けしよう。
バッグからはみ出したお菓子の袋を見て思いついた。
時計を見ると、午後の三時を過ぎている。松永ピアノ教室の日曜のレッスンは三時には終わるはずだ。発表会の打ち合わせもしたいし、ちょうどいい。
十分ほど歩くと、郵便局とドラッグストアに挟まれた白い家が見えた。外見で言えば、私が理想としている家だ。家を建てようとなった時、夫は真っ先に「白はやめておこうな。つまらないし」と言い放った。白を第一候補に挙げていた私はショックのあまり、何も言えなかった。
「十畳の防音室がほしい」
この願いを無条件に聞き入れてくれただけで、十分贅沢だ。外壁の色なんて些細なこと。些細なことだが、せめて一言「外壁の色はどれがいい?」と聞いてほしかった。夫婦なんだから。
松永先生の家を眺めていると、玄関から男の子が飛び出してきた。手提げかばんを持っている。
――あ。
「レッスンをやめたい」とお母さんから電話があった長澤健太君だ。満面の笑みで走り去って行く。私のレッスンで、あんな顔は見たことがない。
健太君の背中を呆然と見送っていると、玄関から松永先生が出てきた。
「あれ? どうしたんですか?」
「あの、お菓子……」
私はバッグを差し出した。
「わー! ありがとうございますー!」
「好きなもの、持って行って」
松永先生はがさがさと私のバッグをあさり始めた。うっとうしいので、いっそバッグごと渡そうかと思ったが、お気に入りのバッグなのでやめておく。
「さっき、男の子が出てくるのを見かけたんだけど、新しい生徒さん?」
「体験レッスンだったんですよ。前に別の教室に通ってたみたいなんですけど、なんか先生が合わなかったみたいで。あ、今、お茶入れますね」
「いいの。すぐ帰るから」
松永先生がきょとんとした目で「え?」と言うのと同時に、私は背中を向けていた。
生徒がピアノを続けようが続けまいが、誰に習おうが、生徒の自由だ。気にすることはない。そう自分を納得させようとしたが、何かが私の中で膨らんでいく。苛立ちなのか、悔しさなのか、悲しみなのか、全部なのか。とにかく、どす黒い何かなのは確かだ。
軽くなったバッグを前後に振りながら、大股で家に向かう途中、ポケットの中のスマホが鳴った。皆川さんだ。
「はいはい」
「あ、香月先生。例のピアノライブ、行くんだよね?」
深町の顔が浮かぶ。さっき変な別れ方をした手前、ちょっと気が重いが、もしここで断ったりしたら、今度は皆川さんにあれこれ言われそうで、それはそれで面倒だ。
「もちろん。で、ライブの後はビールと焼き鳥でしょ?」
「うん……そうね」
不思議な沈黙が入る。
「あれ? もしもし? 皆川さん?」
「プロポーズされた」
「え……」
突然のことで足が止まる。もちろん、いい意味で。皆川さんに同棲中の彼氏がいることは知っていたが、私はてっきり事実婚という選択をしているものだと思っていた。
「ついにですか。おめでとうございます」
「プロポーズ、彼氏からじゃないの」
「は? じゃあ誰からのプロポーズ?」
「仕事で知り合った人なのよ。彼氏がいるってこと、知ってるはずなんだけどね」
「つまり、彼氏と別れて、自分と結婚してほしいって?」
「そう……なんだと思う」
歯切れの悪い言い方で、だんだんイライラしてきた。皆川さんは自分のことを話したがらないので、私は気を遣ってあれこれ聞かないようにしてきた。彼氏のことだって、会話の端々からどうにか私が拾ったことだ。でも、いきなり電話で「彼氏以外の知り合いからプロポーズされた」なんてことを言われたら、頭が追い付かない。
「ぶっちゃけ、それって浮気相手とか?」
「違う違う」
「どんな人? どこかの社長の息子とか?」
「ううん。二十三歳の子」
「にじゅ……」
変な声が出た。四十歳の手前とは言っても、皆川さんは女性の私から見ても十分綺麗で眩しい。二十三歳の若者からのプロポーズも、なくはないと思う。でも、イライラする。
「なんか、ドラマみたい。明日の夜、詳しく聞くから」
「なんかゴメンね。それじゃ、明日」
スマートフォンを握る手に力が入る。
――もちろん、断るでしょ?
喉元まで出て、必死に抑え込んでいた言葉だ。皆川さんは、迷っているように思えた。
気が付くと、目の前にはコミュニティセンターの自動ドアがあった。入口の近くにあるフリースペースの椅子にどかッと腰掛け、テーブルにバッグを乱暴に置く。
「ふぅ……」
もう体の力が入らない。体の中の悪いものを出そうと、何度か深呼吸をする。
「先生」
――誰よ……。
うんざりしながら振り向くと、深町だった。
「あれ? どうしたの? 魂、半分抜けてるよ?」
彼は隣の椅子に座り、私の顔を覗き込んだ。
「さっきここを出てから、あまりにもいろいろなことがありまして……」
「そんな感じだね。嫌じゃなかったら聞かせてほしいな。多分、話した方が楽になると思うんだけど」
「えーと、さっきここを出て、それから買い物に行って、知り合いのピアノ教室に行ったら、ウチの教室をやめた生徒がいて……」
「あー、それはそれは」
一切の説明なしに、起こったことをそのまま話す。彼が理解するかどうかはもうどうでもい。今の私には、あれこれ考えながら話す余裕がない。
「で、で、で、問題はその後です。ついさっきのことですよ」
「はいはい」
「あのー、えーと、友達の話なんですけど、うーん……」
私は両手を開いて、ぱたぱたと意味不明な動作をした。気持ちが前に出てしまって、言葉が追い付かない。
「焦らなくていいから」
「友達から『プロポーズされた』って電話があったんです。友達は三十八歳で、同棲中の彼氏がいて、当然、彼氏からプロポーズされたって思うじゃないですか」
「そうだねぇ」
「なんか、二十三歳の人からプロポーズされたらしいんですよ。どんな知り合いなのか分かりませんけど。でも、普通は『彼氏いるんで』って断るでしょ?」
彼は腕を組んで、頷きながら天を仰いでいる。
「断ってほしいのよ。友達はキリッとしてて、大人で、私の憧れで……。それなのに、『二十三歳の子にプロポーズされちゃって』なんて浮かれて電話してきてさ。ガキじゃあるまいし。現実見なさいよって。二十三なんて、年上のお姉さんに憧れちゃう年頃なんだから」
急に息が苦しくなり、言葉を切る。息を吐きっぱなしで、吸うのを忘れていた。コミュニティセンターのスタッフがこちらを見ている。深町と言い争っていると勘違いしたんだろうか。
「ねぇ先生。嫉妬してる?」
「嫉妬?」
「友達が二十三歳の人からプロポーズされたことに対する嫉妬じゃない。友達に突然降った湧いた選択肢に対してだよ」
「選択肢?」
「別の教室に移った生徒さん。その生徒さんからすると、先生は『選択肢から除外された側』になってしまったわけだ。当然、先生は面白くないよね」
「まぁ、そうですね」
「で、その友達の話。先生は『お互いに選択肢がない者同士』なんて思って安心してなかった? はっきり言っちゃうけど、先生は結婚してて、ピアノ教室をやってて、ピアニストになりたいって思ってても、なかなか身動きが取れないよね。友達にしても、三十八歳で恋人と同棲してるなんて、ほとんど人生固まってるようなもんだし。そこに、二十三歳という、未来と可能性に満ち溢れた青年からプロポーズされた。迷わないわけないし、それに嫉妬しない方が不思議だよ」
私は黙って彼の話を聞いていた。余計なことを言わなくても、彼は全てを読み解いている。
――恐ろしい男。
心の底からそう思った。
「でも、僕も断った方がいいと思うけどね」
「なんでですか?」
「同棲中の彼氏に別れを切り出して、プロポーズされた相手の両親に挨拶に行って……。揉める未来しか見えない」
結局最後に超現実的なところに着地して、少し安心した。いや、彼は『私がそういう答えを求めている』と予想して、話を合わせた可能性もある。そのくらいのことをしてもおかしくない人物だ。
「どう? 少しは楽になった?」
「ええ、かなり」
本心だった。さっきと比べて嘘のように体が軽くなった気がする。でも、これ以上話し込んでいると、無駄な時間を使ったとか何とか、嫌味のひとつも言われそうなので、そろそろ切り上げようと思った。
「あ、全部忘れてくださいね。友達のプライベートなことをぺらぺら喋っちゃって」
「大丈夫。日付が変わったら忘れるから」
今さらながら、皆川さんに対する罪悪感が両肩にのしかかってきた。考えてみれば、皆川さんが誰と付き合って、誰にプロポーズされて、どうするかは皆川さんの勝手だ。友達とはいえ、他人の私があれこれいう筋合いはない。
「ありがとうございます。こんな、個人的な――」
「僕の話も聞いてもらえるかな」
椅子から浮かせた腰を、ゆっくりと沈める。彼が自分から「話を聞いてほしい」なんて言うことに驚いた。
「明音をやめた理由なんだけど、近藤さんに弟子入りするためって言ったのは、実は表向きな理由なんだよ。言い訳って言った方が正しいかな」
「本当は別の理由があるってことですか?」
彼は視線を泳がせる。多分、あまり人に話すような内容ではないのだろう。一瞬、「話したくなければいいですよ」と大人の対応を考えたが、それでは私の気が済まない。
私からすれば、彼も十分「選択肢」のある人生だ。その選択肢の一つを捨てた理由。それを聞かない手はない。
「大学二年の時にね、彼女がいてさ。同じピアノ科で、バカみたいに上手くて、先生から海外留学を勧められたんだけど、金銭的な理由で断念したんだよ。でも、彼女は国内で地道に頑張ってチャンスを作るって張り切ってたけどね」
心の中で「もったいない」と呟く。でも、同じ理由で海外留学を諦める学生は多い。一応、大学からも国からも助成金や奨学金という形で援助はしてもらえるが、手続きや審査に一年近くかかる上に、結局は「返済」の二文字が首を絞め続ける。残念ながら日本は芸術関係にお金は出さない。
「で、大学三年の時に、ちょっとした噂を聞いたんだ。彼女が有名な音楽評論家と付き合ってるって。彼女に問い詰めたら、あっさり認めたよ。この世界で生きていくためなんだから仕方ないでしょって」
そのパターンか。彼には悪いが、よく聞く話ではある。
「不思議なんだけど、怒りとかそういうのはなかったんだよね。あ、そう。くらいで。その後すぐに、近藤さんと出会って、アメリカに行ったってわけ。もしかしたら、自暴自棄になってたのかもしれないね」
「彼女さん、謝らなかったんですか?」
「うん、一言も」
「それは人としてどうかと思いますけど」
「まぁ、そうだよね」
彼は笑った。私は全然笑えない。
「前にさ、ピアニストになるためには、右手と左手と、もう一つ何かが必要って言ったでしょ? 彼女の『もう一つ』がそれなら、仕方ないかなって」
何も言えずに、ただ下を向いていた。さっきの私の愚痴の内容とは別次元すぎて、自分が恥ずかしいとさえ思った。
「こんな話したの、先生が初めてだよ。すっきりした」
「何だか私の方がモヤモヤするんですけど」
「ちょっとちょっと、勘弁してよ。先生、やっぱり面白いなぁ」
ケタケタと笑う彼に、私はむっとして立ち上がる。
「最後の最後で、そんなに怒らないでよ」
「別に怒ってません」
「明日のライブ、来るんでしょ?」
「はい、友達と一緒に行きますから」
「二十三歳にプロポーズされた友達?」
「え――」
にやりと笑う深町の顔を睨みつけ、その場から逃げるように立ち去った。
――皆川さん、ゴメン。
歩きながら、心の中で謝った。
帰宅すると、夫が機械の図面や電気配線図などを見ながらウンウンと唸っていた。口に出しては言わないが、どうやらまだトラブルが解決していないらしい。私は夫の隣に座り、さっき買ったチョコレートの大袋を出して、「食べる?」と言った。
「なんだ? どうした?」
夫は目をまん丸くしてチョコレートに手を伸ばす。
「生徒さん達にあげようと思って。お菓子で釣る作戦」
「何だそりゃ。今の子供達がチョコレートに釣られるとは思えないけどなぁ」
夫は苦笑いしながら、再び図面に視線を移した。私は夫の真似をして、1ミリも理解できない図面を見る。
「ねぇ。浩介っていろんな資格、持ってるでしょ?」
「まぁ、自慢じゃないけど、たくさん持ってるよ」
「それって、やっぱり資格がないと、やっちゃいけない仕事だからでしょ?」
「そりゃそうだ。造る方も使う方も、下手すりゃ人が死ぬわけだから」
『下手をすれば命を落とすような仕事をしているから、専門的な知識と技能と訓練が必要』
残念ながらピアニストとピアノの先生には、ここまでの説得力はない。自分が目指していたもの、なりたかったものが、急に薄っぺらく思えてきた。
「どうしたの? 突然」
「知り合いにね、『ピアニストになるのに資格や許可は要らない』って言われて、なんかこう、モヤモヤっとしてるの」
「そりゃ屁理屈だな。ピアニストもピアノの先生も、誰もがそう簡単になれるもんじゃないってことくらい、普通に考えれば分かることだ」
「だよね。やっぱりそうだよね」
私が期待していた答えをくれて、ホッとした。私からすれば夫も十分理屈っぽい人間だが、こうして屁理屈を一蹴してくれることに頼もしさを感じる。頭の中で深町の顔を思い浮かべ、「だそうです」とほくそ笑んだ。
「そうだ。明日の夜、皆川さんとこの人のライブに行くから、帰るの遅くなる」
夫に深町のライブのパンフレットを見せると、夫はパンフレットをまじまじと見た。
「あれ? この人最近よくテレビに出てるな。ジャズ弾いてた」
「有名なの?」
「さぁ、どこまでが無名で、どこからが有名なのか、分からないよ」
やっぱり夫らしい言い回しに、笑いをこらえながら「そうね」と返した。
「あ、ライブのあと、皆川さんと駅前の焼き鳥屋さんに行くから」
「二人とも、新橋のサラリーマンかよ」
「たまにはいいでしょ?」
そう言ってキッチンで夕飯の支度を始めた。
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