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冷めた海の手前で|掌編小説

「海が見たい」

 突然、彼女が言った。
 日付が変わるまで、あと三十分。「こんな時間に?」という言葉を飲み込む。彼女は、分かった上で言っている。

 昨日は「観覧車に乗りたい」と言って、夜景を見下ろす前にあくびをしていた。先週は「古着がほしい」と言って、袋を抱えて帰る頃にはため息をついていた。そんな彼女の気まぐれに、僕はもう慣れている。

 そして、次にどんな言葉がくるのかも、分かっている。

「ダメならいいけど?」

 僕は「いいや、行こうか」と言い、車のキーを手に取った。
 車を走らせる道すがら、彼女は珍しく黙っていた。ラジオパーソナリティーの、無駄にテンションの高い声が耳障りで、何度もボリュームを下げようとして、結局そのままにした。

 海に着いた時には、日付が変わる直前だった。

「思ったより暗いね。全然青くない」

 彼女は砂浜に座り込み、波の音に耳を傾けていた。横顔が街灯に一瞬だけ照らされる。
 僕は隣に腰を下ろし、その横顔を盗み見た。長い髪が夜風に揺れて、その間から、もう海への興味を失ったであろう瞳が、じわじわと静けさに溶けていく。熱が冷め、無関心へと移っていく、その境界線。僕は、その一瞬の表情がたまらなく好きだ。

「……帰ろっか」

 彼女がそう呟いた時、僕の胸に小さな痛みが走る。でも、その痛みすら愛おしい。

 帰り道、彼女は窓にもたれて眠っていた。僕はハンドルを握りながら、波の音の残響をまだ耳に引きずっている。気まぐれに振り回されることが、どうしてこんなに心地いいのか。

 そして明日になれば、また彼女は別の「ほしい」を口にするだろう。

 僕はそれを、きっと断れない。

(了)


知り合いがエックスで「海に行きたい」と書き込んでいたのを見て、何となく書いてみました。


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