深夜の牛丼|掌編小説
終電を逃した。
仕事が長引いたわけじゃない。ただ、帰る気になれなかっただけだ。
会社の最寄りの喫煙所で一服し、ビルの明かりが順々に落ちていくのをぼんやり見ていた。気づけば電車はもうなかった。タクシーに乗るほどの元気も金もない。仕方なく、繁華街をとぼとぼ歩いていると、ふと香ばしい匂いに足が止まった。艶やかなネオンの中に「牛丼」の文字が紛れ込んでいる。
――入るか。
自動ドアが静かに開く。中には学生風の若い男が2人と、作業着の男、そしてカウンターの向こうに年配の店員がいた。気だるそうな空気のなか、牛丼の湯気だけが生き生きと立ちのぼっている。
入口で食券を買い、カウンターに腰を下ろす。
「ありがとうございます。牛丼、並ですね」
思ったよりしっかりした接客に面食らっていると、あっという間に牛丼が出てくた。玉ねぎの甘さと肉の旨みが湯気と一緒に鼻に抜ける。紅しょうがを少しのせて、七味をぱらりと振りかける。箸を入れると、思ったよりも柔らかくて、なぜかほっとした。
――ひと口。
体は素直だ。次のひと口、またひと口と、箸が止まらない。
昼間は上司の顔色ばかり見ていた。プレゼンの資料を出せば「センスがない」、報告をすれば「根回しが足りない」と言われ、部下に話しかければ「話し方が威圧的」だと言われる。何をしても上手くいかない。そんな日は、言い訳すら浮かばなかった。そんな時でも、牛丼は黙って俺の胃を満たしてくれる。俺が箸を向ければ、素直に減っていく。
「……ああ、美味いな」
小さく呟いた声は、湯気に紛れて消えた。でも、それでよかった。
ふと、カウンターの端に目をやる。作業服を着た男が、目を閉じて牛丼を食べている。その顔が、どこか安らいで見えた。きっと彼も、いろんなものを背負って今日を終えたのだろう。
「ご馳走様です」
会計を済ませ、外に出る。
空はまだ、夜の色だった。
この街には、俺みたいな奴が、まだたくさん歩いている。今日という日を終えられない、孤独で寂しい奴らが。
そんな俺たちに、深夜の牛丼は少しだけ優しい。
(了)
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