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午前二時の書斎|掌編小説(#風まかせ文芸部)

 祖父が遺したこの書斎は、どこか空気が違う。重厚なオーク材の匂いと、何十年もの時を吸い込んだ古書の埃。私が探しているのは、祖父の死後、忽然と消えたとされる「緑のダイヤ」の覚書だ。
 机の引き出し、隠し金庫、ありとあらゆる場所を探したが、手掛かりは一つもない。唯一異彩を放っているのは、壁際に立つ、大きな振り子時計だった。彫刻が施されたその振り子時計は、華美な装飾とは裏腹に、時を刻むことを放棄したかのように、完全に沈黙している。長針も短針も、きっかり午前三時を指したままだ。

「動かないくせに、場所だけ取るんだから……」

 軽い苛立ちと共に、私はその冷たい真鍮しんちゅうのフレームに触れた。その瞬間、指先に微かな、でも決定的な振動を感じた。さらに、耳の奥には乾いた歯車の音が響き渡る。カチ……カチ……と。いや、違う。チク……タク……と、逆向きに。
 時計の針が、ゆっくりと、しかし確実に動き始めた。三時から二時五十九分へ、そして二時五十八分へ。時計が時を巻き戻すにつれて、書斎の空間そのものが揺らぎ出す。壁の本棚に並んでいたはずの本の背表紙が、視界の端から別の色に塗り替えられていく。

「なに、これ……」

 私が本棚に触れると、本棚がガラガラと音を立て、何冊かの本が崩れ落ちた。その隙間から覗いたのは、普段はそこになかったはずの、漆黒の表紙を持つ、薄いノートだった。表紙には細い銀糸で「夜の取引」とだけ記されている。
 時計の針が二時半を指した時、自分の体がふわりと浮くような感覚に襲われた。

 ――部屋の重力がおかしくなっている。

 天井のシャンデリアがわずかに上へと持ち上がり、その影がねじれる。私は確信した。この書斎は、ただの部屋じゃない。祖父はここで、時間を、あるいは世界そのものを操作していたんだ。

 ノートを手に取り、開こうとすると、時計はついに二時を指した。その瞬間、全ての音が止まり、部屋は再び静寂に包まれた。しかし、先ほどとは違う。窓の外に見える景色が真夜中ではなく、なぜか強い夕焼けの色をしていた。

 ――私は今、いつ、どこの書斎にいるの?

 ノートの重みが、この現実の不安定さを証明していた。

 窓に駆け寄り、分厚いカーテンの隙間から外を覗いた。見間違いじゃない。少し前までは、確かに真夜中だったはずだ。しかし、目の前にはオレンジと紫が混ざり合った、強烈な夕焼けが広がっている。周囲の建物も、私が知るものよりどこか古びて見える。時間が逆行しただけでなく、別の時代か、あるいは別の次元に迷い込んだようだ。

 震える手で、漆黒のノートを開いた。紙の質感はろうを塗ったように滑らかで、インクの匂いさえも異質に思えた。最初のページには、祖父の几帳面な筆跡でこう記されていた。

《二時の書斎は、取引の場となる。ダイヤは楔。時間を繋ぎ止めるための対価であり、鍵。》

「ダイヤが……楔?」

 次のページには、複雑な幾何学図形と振り子時計の絵、そして、日付がびっしりと書き込まれていた。全ての日付が過去を示している。そして、最も新しい日付の下に、ただ一言、赤インクでこう殴り書きされていた。

《取引失敗。代償は時間。二時に誰かが来る。》

 書斎のドアが、ノックもなしにギィと音を立てて内側から開いた。ドアの向こうに、背の高い、燕尾服を着た男が立っていた。男の顔は夕焼けの逆光で影になって見えないが、手に持った古風な杖の先端が、薄緑色に光っている。

 男は静かに、しかし有無を言わせぬ響きで言った。

「おや、探し物はそちらでは?」

 私の心臓が激しく脈打った。緑のダイヤの覚書を探していた私を、この男はなぜ知っているのか。そして、この男が持っている杖の輝きこそが、祖父が隠した緑のダイヤ、そのものなのではないか。

 男は一歩、また一歩と部屋に入ってくる。ノートを握りしめた私の背後で、再びあの振り子時計が、今度は正しい方向に、ゆっくりと時を刻み始めた。

 ――チク……タク……。

 残された時間は、もうない。

(了)


iさんの「風まかせ文芸部」に参加しました。
お題は「書斎」です。


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