プレリュード|掌編小説
僕は、この街で一番古いピアノの前に座っていた。鍵盤は象牙が剥がれ、ところどころ黒ずんでいて、まるで年老いた友人の顔のようだ。僕の手がそっと鍵盤に触れると、心臓の鼓動が速くなる。
――プレリュード。
それは、序曲。つまり、物語が始まる前の曲。この一瞬に全てが凝縮されているような気がする。
指がAマイナーの和音を奏でた。静かな、少し悲しい響き。まるで、過ぎ去った日々の夢を思い出すように。窓の外では、夕日がビルの間に沈みかけている。その光が、ピアノの埃っぽい表面を金色に染めていく。僕の心の中も、同じように光と影が揺れている。
このプレリュードは、僕の人生の始まりを告げるものだ。いや、始まりを願うもの、と言った方が正しいかもしれない。父さんが、僕がまだ小さかった頃によく弾いてくれた曲だ。父さんの指は、僕とは比べ物にならないほど力強く、優しく、鍵盤から生まれる音は、生きているみたいに部屋中を駆け巡った。
ある日、父さんは突然姿を消した。理由も告げずに。僕はその日から、父さんが残したこのピアノに毎日向かい、父さんのプレリュードを弾き続けた。父さんの残した楽譜は、もうボロボロになっている。でも、音は僕の頭の中に深く刻み込まれていた。
不意に、鍵盤の上で指がもつれた。不協和音が鳴り響き、部屋の静寂を破る。僕は思わず手を止めた。僕のプレリュードは、いつもどこか不完全で、何かに怯えているみたいに震えている。父さんのように滑らかに、情感豊かに弾くことができない。でも、それでもいいんだ。これが今の僕のプレリュードだから。
始まりは、いつも未熟で、不確かで、そして希望に満ちている。僕はもう一度深く息を吸い込み、指を鍵盤に置いた。次の一音は、もっと強く、もっとまっすぐに。
今度は恐れない。指が、再び鍵盤の上を滑り始めた。僕のプレリュードは、今、まさに始まろうとしている。
いつか、僕のプレリュードが、次の物語へと続く、完璧な序曲になるように。
(了)
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