肖像|短編小説
【作品紹介】
大学生の三上純也はバイトがきっかけで知り合った美大生の鴨志田美樹と交際していた。しかし、美大の宮沢という人物に、美樹が妻子持ちの有名美術評論家と不倫していることを知らされる。美樹と別れた主人公は宮沢と交際することになる。主人公は美樹と過ごした一年間と、宮沢と過ごしたの一年間、この二つの違いは一体何だったのだろうかと自問する。
「私は絵描きなの」
六月の湿った風が、開け放たれた窓から入ってくる。美樹は絵筆を止めて、パレットナイフについた油絵具をボロ布で拭いながらそう言った。
僕は読みかけの文庫本から顔を上げ、思わず「絵描き?」と聞き返す。
「画家って言うと、なんだかベレー帽をかぶって髭を生やした大御所みたいじゃない? でも、イラストレーターだと、ちょっと商業的過ぎるというか漫画家寄りだし、グラフィックデザイナーだとCGって感じがする。やっぱり、自分の手と匂いで戦う『絵描き』がしっくりくるのよね」
独特の持論を展開する彼女に相槌を打ちながら、僕は部屋の隅に立てかけられた美樹の自画像をまじまじと見た。F100号という大きさのキャンバスに描かれたその絵は、圧倒的な存在感を放っている。
「そんなに見ないでよ。一年の時に課題で描いたやつなんだから。今見るとデッサンも甘いし、色使いも全然ダメね」
「そうかな。僕は好きだけど。この目の力強さとか」
「素人の慰めはいりません」
美樹はふふっと笑いながら、キャンバスに向き直った。テレピン油とリンシードオイルの入り混じった、鼻の奥をツンと刺激する匂いが部屋に充満している。僕はその匂いが嫌いではなかった。
「じゃあ、後になって凄い値が付くかな? 『巨匠・鴨志田画伯が日翔美大一年の時に描いた幻の初期自画像、オークションは一千万円から!』とか言って」
品のない僕の冗談に、美樹は振り向かず、新しい色を慎重にキャンバスに乗せながら、静かな声で言った。
「そうかもね。そうなればいいな」
その声には冗談めいた響きはなく、どこか祈りのような切実さが混じっていた。僕はその横顔と自画像を交互に見ながら、ニヤつきそうになるのを必死で堪える。
この空間には、未来への希望しか存在しなかった。僕たちは若く、時間は無限にあり、世界は僕たちのために用意された舞台のように思えた。
今思い出しても、遠い昔のような、つい最近のような、いや、本当にあったことなのかと思うほど、現実感がない。間違いなく言えるのは、あの一年間は、毎日が本当に痛いくらいにキラキラしていたということだ。
未練なんかじゃない。ただ、不思議なのだ。なぜ、あんな別れ方をしてしまったんだろう、と。そして、なぜ僕は、その後に続くあの日々を受け入れてしまったのだろうかと。
***
「たった三時間だぞ? 飲んで食って金もらって、うまくいけば彼女もゲットできる。こんなにおいしいバイト、他にないだろ? 四つの大学が集まる合同パーティーだぞ? 単純計算で確率は四倍だ」
あまりの単純計算に笑いそうになったが、大学の一年目をコンビニのバイトと必修科目の勉強だけで潰した僕は、退屈と孤独に飽き飽きしていた。「うまくいけば彼女もゲットできる」というサークルの先輩が垂らした釣り針に、僕はもう食い付く寸前だった。
五月のキャンパスは新緑に溢れ、行き交う学生たちは皆、春の陽気に浮かれているように見えた。でも、僕には灰色の日常に取り残されているような焦燥感があった。
先輩は僕の肩に馴れ馴れしく手を回し、まるで人生の真理を諭すように言った。
「なぁ三上、出会いってのはな、アグレッシブにいかないとダメなんだよ。口を開けて待ってたって、向こうから都合よく飛び込んで来やしないんだよ。な?」
先輩の安っぽい香水の匂いに顔をしかめつつ、僕はその手を振りほどいた。
「分かりましたよ。場所と時間を教えてください」
僕が観念すると、先輩は待ってましたとばかりに胸ポケットから皺くちゃの小さなメモを取り出した。
「丸の内パークタワーホテルのホールAだ。行けば分かる。一番でかいホールだからな。夕方の六時半に集合。制服は向こうで貸してくれるから、手ぶらでいい」
メモをグイっと胸に押し付け、先輩は「じゃあ、よろしく頼むな!」と足早に去って行った。その背中を見送りながら、僕は内心「してやられた」と思った。先輩はただ、自分のシフトの穴埋めを探していただけだろうと。
丸の内パークタワーホテルのパーティー会場は、僕の貧困な想像力を遥かに超えていた。天井には巨大なシャンデリアが鎮座し、床はふかふかの絨毯。二百人は優に入るであろう広大なホールAには、煌びやかな装飾が施されている。
バックヤードには、僕と同じように動員された大学生のバイトらしき若者が数十人ひしめき合っていた。簡単な挨拶を交わすが、皆一様に緊張した面持ちだ。
貸し出された糊の効いた白いシャツ、黒のベスト、そして蝶ネクタイ。鏡の前に立つと、自分が何者かになったような錯覚を覚える。バイトだということも忘れ、少し背筋が伸びる思いだった。
しかし、そんな高まった気分は、厨房から現れた料理長の怒号と共に、一瞬にして地の底へと叩き落された。
「お前ら! 突っ立ってんじゃねーよ!」
空気が凍り付いた。料理長というよりは、反社会的勢力の組長と言った方がよっぽど似合う、無精髭に鋭い眼光の男だ。その怒声に、バイト一同が震え上がる。
「遊びに来てんじゃねーんだからよ。お客様は神様かもしれねぇが、お前らはただの駒だ。動け! 働け!」
料理長はギラギラした目で僕たちを見渡すと、不運にも目が合った僕を指さした。
「おい、お前」
あまりにも強い眼力で射貫かれ、僕は弾かれたように「はい!」と裏返った声で返事をした。
「その大皿、全部あっちのビュッフェ台に持って行け。一枚でも割ってみろ。割ったら今日のバイト代から引くからな。いや、引くだけじゃ済まねぇぞ」
「はい! 気をつけます!」
目の前に重なっている陶器の大皿を五、六枚持つ。想像以上にずっしりと重い。指先に血が止まるほど力を入れ、とにかく落とさないことを最優先に運ぶ。額から冷や汗が流れた。
いざパーティーが始まると、そこは戦場だった。優雅な音楽と談笑の裏側で、僕たちは黒子として駆けずり回る。ひたすら料理や飲み物を運び、空になった皿やグラスを下げ、裏で洗い、そしてまた運ぶ。その無限の繰り返し。当然、飲んでもいないし、食ってもいない。
「ボーイさん、早く新しい皿持って来てよ!」
「ここ、白ワインないんだけどー!」
「なんで割り箸がないんだよ!」
着飾った大学生たちの容赦ない要求。彼らにとって僕は、便利な自動搬送機でしかないようだった。
「はい、すぐにお持ちします」
「申し訳ございません、ただいま」
会話と言えば、それだけだった。馬車馬のように働かされた僕が、ようやく人間に戻れたのは、パーティーがお開きになり、撤収作業も終わった夜の九時過ぎだった。午後六時から一度も時計を見なかった。いや、時計や時間の存在すら忘れていた。
ふと見渡すと、紹介してくれた先輩の姿はない。きっと気の合う女子が見つかり、さっさと二次会に繰り出したんだろう。「お疲れ様」の一言もないことに、疲労と空腹が混ざり合ったどす黒い感情が湧き上がる。よくよく考えれば、そんなにオイシイバイトなら、自分がやればよかったのだ。他人に譲る時点で怪しむべきだった。
バックヤードの長机には、パーティーの残骸であるオードブルやサンドイッチが山積みになっている。腹は減っていたが、まるで豚が食い散らかしたようなその惨状を見ていたら、完全に食欲が失せた。『千と千尋の神隠し』で、神様の食べ物を無断で食べた両親が豚になるシーンを思い出す。
――どいつもこいつも、みんな豚になりゃいいんだ。
心の中でそう悪態をついて、僕は小さな紙コップにウーロン茶を注ぎ、パーティー会場の隅、カーテンの陰にある椅子に深く腰かけた。グラスを使わないのは、この後の洗い物を一つでも減らすためだ。
「働き者だね」
突然、視界の外から涼やかな声がした。紙コップを口に付けたまま右を向くと、見知らぬ女性がこちらに歩いて来て、自然な動作で隣の椅子に座った。
「最後まで残ってる人、初めて見た」
女性は珍しい動物でも見るように大きく目を見開き、僕の顔を覗き込む。距離が近い。僕は反射的にのけぞってしまった。
言われてみれば、いつの間にか他のバイト仲間の姿もない。きっと途中でバックれたか、適当な理由をつけて帰ったのだろう。無理もないとは思いつつ、今日この場にはロクな奴がいなかったんだと、急にあらゆることが馬鹿らしくなった。
「もしかして、『楽なバイトしない?』とか言われて連れてこられた?」
「ええ、まぁ……似たようなもんです。『オイシイバイト』って言われました」
「あはは、だろうね。毎年いるのよ、そういう『被害者』が」
「でも、バイト代はちゃんと出ますから」
「そんなの当たり前でしょ?」
僕は「そうですよね、はは」と、力なく乾いた笑い声を上げた。彼女の言葉は辛辣だが、その声色は不思議と心地よかった。
「私、日翔美大三年の鴨志田美樹。専攻は日本画」
「関東大二年の三上です。三上純也。地球環境科専攻です」
「地球環境科って、環境問題とかエコとか?」
「まぁ、そんなとこです。森林の生態系とか、水質汚染とか」
僕は早まる心臓の鼓動を抑えようと、視線を無意味に泳がせ、空になった紙コップを再び口に付けた。
――美大の人にしては、着てるものが普通だな。
そんな考えを慌てて打ち消す。そもそも今日のパーティーに参加していた連中の方が異様なのだ。「何層塗ったんだろう」と思うような左官工事レベルの厚化粧、マリー・アントワネット気取りのドレス、嗅覚を破壊するような強烈な香水。
それに比べて彼女は違った。淡い青色のシンプルなワンピース。化粧も薄く、素肌の美しさが際立っている。うなじから肩にかけての滑らかな曲線は、油断すれば見とれてしまいそうだ。彼女だけが、このけばけばしい会場の中で、ピントが合っているように見えた。
「ねぇ、何か食べに行かない? お腹空いてるでしょ? ここの食べ物、味が濃すぎてほとんど食べられなかったのよ」
「あー……すみません、十時まで皿洗いが残ってて」
「手伝ってあげる」
「いやいや、ダメですよ。せっかくのドレスが汚れます」
「安物よ」
彼女が立ち上がった瞬間、青のワンピースの裾がひらりと揺れた。その青は、昨年、大学のフィールドワークで訪れた北海道、摩周湖の深く静かな青を連想させた。吸い込まれそうな、神秘的な青。
結局、僕は彼女の申し出を断りきれなかった。
広い厨房の片隅で、僕と彼女は並んで皿とグラスを洗った。泡立つ洗剤の匂い。水を流す音と、皿を重ねるカチャカチャという音が、深夜の厨房にやたらと大きく響く。
「これ、拭けばいいの?」
「あ、はい。お願いします」
彼女がグラスを拭く手つきは丁寧だった。細くて白い腕、白い指。水に濡れたその手は、まるで陶器のように滑らかに見えた。「白魚のような指」という陳腐な表現が、これほどしっくりくる瞬間があるなんて知らなかった。
帰り際、組長……じゃなくて料理長は「お疲れさん」と、パーティーの余りものではなく、まともな菓子折りが入った紙袋を僕にくれた。そして小さく「上手くやれよ」と美樹の方を見てニヤッと笑った。「突っ立ってんじゃねーよ!」に始まり、散々怒鳴られて印象は最悪だったが、根っからの悪人ではなさそうだ。
通用口から廊下に出ると、ワンピースの上に白いカーディガンを羽織った彼女が壁にもたれかかって待っていた。僕は小走りに近付く。
「待たせてすみません」
「ううん、涼んでただけ。さすがにこの時間だと、もうがっつり食べる気はなくなっちゃったなぁ」
「ああ……そうですね。近くのカフェで、ケーキでも食べましょうか。まだ開いてる店があるはずです」
彼女はパッと花が咲くような笑顔で「賛成!」と言うと、軽やかな足取りでエレベーターホールへと歩いて行った。僕は慌ててその後を追う。彼女の髪から、微かに絵の具のような、独特な匂いがした気がした。
深夜営業のカフェでは、何を話していいのか分からず、緊張で喉が渇いた。全く弾まない会話をどうにかしようと、苦し紛れに「僕、倉本鉄平と亀崎一郎のカレンダーを実家に持ってます」と言った。現代アートの巨匠たちの名前だ。
すると、彼女の目が輝いた。
「嘘! ウチの大学の卒業生だよ! 亀崎先生なんて、たまに講義に来るんだから。あの人の色彩感覚って、ホント凄いんだよ!」
そこからは堰を切ったように彼女が喋り続けた。日本画の魅力、岩絵具の扱いづらさと美しさ、好きな画家のこと。僕はただ相槌を打ちながら、楽しそうに話す彼女の表情に見とれていた。
終電間際のアパートに着き、料理長にもらった菓子を冷蔵庫に放り込むと、携帯電話が「ピコン」と鳴った。メッセージが届いたようだ。
△▼△▼△▼△▼
働き者の三上君へ。
鴨志田です。
今日は巻き込んじゃってごめんね。でも楽しかった。
私ばっかりマニアックな話しちゃってゴメンね。
次は三上君の話も聞かせてね。
環境の話、興味あるから。
△▼△▼△▼△▼
「次は三上君の話も聞かせてね」
その部分を、僕は何度も読み返した。
くたくたに疲れているはずなのに、なぜかベッドに横になる気になれず、窓を開けて夜風に当たった。東京の夜空は明るすぎて星は見えない。でも、今の僕にはどんな星空よりも、携帯電話の画面の光が輝いて見えた。
――これから何かが始まる。
そんな予感が、確信めいた熱を帯びて胸の奥で燻っていた。
***
「誰かゲットしたか?」
翌日、大学の食堂で、僕にバイトを紹介した張本人が眠いのを全面にアピールしながら聞いてきた。
「日翔美大の人とメッセージを交換しただけです。バイトで忙しかったんで」
できるだけ平然を装って答える。
「へぇ、美大生か。やるじゃん。でも、美大って変わった人が多いからなぁ。エキセントリックっていうか」
――あんたよりずっとまともだよ。
あくびをする先輩に、心の中で叫んだ。ただ、あの日あの場所に送り込んでくれたことに関してだけは、一生感謝してもいいと思った。
それから、僕は美樹さんと頻繁に会うようになった。
美樹さんとのデートは、ほとんどが美術館や博物館、あるいはギャラリー巡りだった。映画館や遊園地といった定番のデートスポットには目もくれず、僕たちは静かな空間で作品と向き合った。
僕が普段行かない場所ではあるが、彼女と一緒なら別にどこでも良かった。彼女の視点を通して見る世界は、僕が知っている世界よりもずっと色彩豊かで、奥行きがあったからだ。
「さっきさ、学芸員の解説を横で聞いてたんだけど」
上野の美術館を出た後のカフェで、美樹さんがいちごのショートケーキにフォークで切れ目を入れながら言う。
「なーんか話し方がちょっと上から目線というか、ドヤ顔しちゃってる感じなんだよね。『この絵のタッチが』とか『構図が』とか。自分の知識をひけらかしてるだけで、絵の魂を見てない気がする」
少し不機嫌そうに唇を尖らせる。
「そうかな? 僕は勉強になったけど」
「三上君は素直すぎるのよ。絵はね、もっと自由でいいの。知識で見るんじゃなくて、心で感じるものだから」
そう言うだけあって、美樹さんの解説は芸術初心者の僕にも分かりやすく、決して押しつけがましくなかった。「この青は寂しそうだね」とか「この線は迷ってる」とか、画家の感情に寄り添うような言葉を選ぶ。
僕は、絵や芸術について、まるで恋人のことを語るように嬉しそうに話す美樹さんのことが好きだった。
ある時、僕のアパートで二人で過ごしているとき、僕は勇気を出して自分の専攻の話をした。森林限界の話、絶滅危惧種の話、自然の循環の話。退屈じゃないかと不安だったが、美樹さんは真剣な眼差しで聞いてくれた。
「自然って、一番偉大なアーティストだよね」
彼女は僕の手を握りながらそう言った。
「人間がどんなに足掻いても、夕焼けのグラデーションや、雪の結晶の形には勝てないもの。三上君は、そういう神様のアートを守る仕事をするんだね。素敵だよ」
その言葉を聞いた時、僕は彼女とならどこまでも行けると思った。
この頃は、「地球は僕たちを中心に回っている」と本気で思っていた。どこに行っても、僕たち二人だけにスポットライトが当たっていて、他の全ては背景にすぎないと。
あの夏、あの秋、あの冬。季節が巡るたびに、僕たちのアルバムには笑顔の写真が増えていった。
***
変化が訪れたのは、三年の夏休み前だった。
蒸し暑い午後、僕は美樹を待って日翔美大のカフェテリアに座っていた。周りは個性的なファッションの学生ばかりで、Tシャツにジーパンの僕は普通過ぎて逆に浮いていたかもしれない。
「君、鴨志田さんの彼氏君?」
突然、知らない女性が向かいの席にどかっと座った。トレーにはコーヒーだけが乗っている。
「そう……ですけど」
美樹の友達だろうか。僕は愛想笑いを浮かべようとしたが、相手の刺すような視線に表情が凍り付いた。
女性は「ふーん」と興味なさそうに鼻を鳴らし、小さな鏡を取り出して自分の前髪をいじり始めた。ウェーブのかかった明るい茶髪、少し濃いめのアイメイク、胸元の開いたシャツ。全体的に派手な印象を受けるが、不思議と品がないわけではない。ただ、纏っている空気がやたらと鋭かった。
「知ってて付き合ってんの? 村岡のこと」
鏡越しに目が合う。
「村岡? 誰……どなたですか?」
僕は身を乗り出した。心臓が嫌な音を立てる。
「あ、ごめんごめん、いいの、気にしないで」
女性は鏡をパタンと閉じ、コーヒーを一口すすった。
「いやいや、気になりますって。教えてください」
興味、疑念、不安……様々な感情が湧き上がる。この先の会話に楽しい展開が待っていないことだけは予想できた。
「村岡啓介。私たちより二十歳くらい上のオジサンよで、有名な美術評論家よ。雑誌にもよく出てるし、コンクールの審査員もやってる」
彼女は淡々と言葉を紡ぐ。
「鴨志田さんね、五か月くらい前からその村岡と付き合ってるの。大学内じゃ割と公然の秘密よ? 彼女が最近、急に学内の賞を取り始めたのも、まぁ、そういうことかもね」
頭が真っ白になるというのを、初めて実感した。思考が完全に停止し、周囲の雑音が遠のいていく。
「……五か月」
「うん。ちなみにね、村岡には奥さんがいるわ。まぁ、この世界でコネなし、パトロンなしで生きていくのも大変だから、仕方ないっちゃ仕方ないけどね」
彼女はまるで天気の話題でもするかのように続けた。
「あ、君とはいつから付き合ってんだっけ?」
「……もう一年になります」
「あら、悪いことしちゃったわね」
全く悪びれる様子を見せない女性に、僕は何も言い返せなかった。怒りよりも先に、吐き気がこみ上げてくる。
「なんで、そんなこと僕に言うんですか」
「さぁね。ただの親切心? それとも、あの子がいい子ぶってるのが鼻についたからかな。あ、これ、私の名刺」
彼女は僕の目の前にバン、と名刺を叩きつけ、意地悪く微笑むと、席を立った。
僕は震える手で携帯電話を取り出し、美樹に「急用ができたから帰る」とだけメッセージを送った。返信を待たずに電車に乗り、途中下車して本屋に寄り、コンビニで水だけを買い、できるだけ長い道のりを歩いて、時間を消費して帰宅した。
――北海道の知床にフィールドワークに行くから、日程を合わせて向こうで旅行しよう! 摩周湖の青を一緒に見よう!
先週、二人で盛り上がった計画。そんな約束は北海道を通り越し、はるか彼方の宇宙の果てへと飛んで行ってしまった。
***
翌日、僕は美樹のアパートへ行った。部屋に入ると、いつもの油絵具の匂いがした。でも、今日はその匂いが鼻について気持ち悪かった。
「誰から聞いたの?」
「宮沢って人……」
「あのクソ女!」
美樹の顔は、見たことがないほど歪んでいた。憎悪と焦燥が入り混じったその表情は、僕の知っている「笑顔の素敵な美樹」とは別人のようだった。人は、一体どうやったら一瞬でこんなにも醜い表情を作れるのかと、場違いだと思いながらも妙に感心してしまった。
「嘘なんだよね?」
すがるように聞いた僕に、美樹は視線を逸らして言った。
「この世界で、絵描きとして生きていくためよ。綺麗ごとじゃ食べていけないの。チャンスを掴むためには、何だって利用しなきゃいけない時があるのよ」
開き直ったような口調だった。
「利用って……体も?」
「三上君には分からないわよ!」
彼女が叫んだ。
「軽蔑するならすればいいわ」
「別に軽蔑なんてしないよ。ただ、悲しいだけだ」
「じゃあどうするの? 謝ればいいの? ここで脱げって言うなら脱ぐわよ!」
美樹が自分の着ているブラウスのボタンに手をかけた。その指は震えていた。
「やめろって!」
僕は彼女の手を乱暴に掴んだ。美樹はその手を強く振り払う。乾いた音が部屋に響いた。
その瞬間、僕は悟った。
――もう僕の知っている美樹はいないんだな。
あるいは、最初からいなかったのかもしれない。僕が見ていたのは、彼女のほんの一部、僕にとって都合の良い部分だけだったのだ。彼女の野心も、焦りも、闇も、僕は何も見ようとしていなかった。
「帰るよ。今までありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。喉の奥が熱くて、涙が出そうだったが、絶対に泣きたくなかった。
ドアノブに手をかけても、背中越しに「ごめん」の言葉は聞こえなかった。
僕は一体何を期待していたんだろう。泣きながら「ごめんなさい! もう二度と会わないから!」とでも言われれば、許しただろうか。抱きしめただろうか。
ふと、部屋の隅に置いてある美樹の自画像が目に入った。あの、希望に満ちた強い眼差し。
せめて、夢を見ていた頃の美樹の顔を心に焼き付けようと、僕は数秒間その絵を睨みつけた。絵の中の彼女だけは、裏切らなかった。
部屋から出た瞬間、僕は携帯電話を取り出し、アドレス帳から「鴨志田美樹」の連絡先とメールアドレスを削除した。指先一つで、一年間の思い出がデータの海に消える。
そして、ポケットから宮沢さんの名刺を取り出し、書かれていた番号に電話をかけた。
「はい、もしもし?」
「全て終わりました」
「えっと……誰?」
「昨日、カフェテリアでお会いした者です。三上と申します」
完全に「無」の状態で喋る。正直、一体なぜ宮沢さんに電話したのか、自分でも全く分からない。
「あー、昨日の。で、終わったって……?」
電話の向こうで、宮沢さんの少し驚いたような声がした。
「そのまんまの意味です。別れました」
「そう」
少しの沈黙が流れる。
「ねぇ、今から会えない? どこでも行くから」
「じゃあ、東京駅の丸の内中央口で」
「いいわよ。じゃあ、東京駅の丸の内中央口で。一時間後に」
会話に流されるまま会う約束をして、僕は夕方の蒸し暑い空気の中を、東京駅へ向かってふらふらと歩き出した。
一人になりたくなかった。その一心だった。この空虚な穴を、毒でも何でもいいから埋めたかった。
「そんなに東京駅が珍しい?」
「東京駅を上から見るのは初めてだなって」
丸の内の高層ビルにあるレストラン。窓の外にはライトアップされた赤レンガの駅舎が浮かび上がっていた。まるで職人が精巧につくったジオラマのように見える。
僕と美樹の破局の引き金を引いた人と、夜景の見える高級レストランでお酒を飲みながら食事をしている。この状況の異常さは分かっていたが、もうそんなことはどうでもよかった。
宮沢さんは、以前会った時のような鋭利な雰囲気は少し和らいでいた。化粧も少し落ち着いている。急いで来てくれたのだろうか。それが僕に対してのせめてもの誠意だと、勝手に解釈する。
「恨んでる?」
グラスを回しながら、彼女が唐突に聞いた。
「どっちをですか?」
「鴨志田さんと……私」
「どちらも恨んでませんよ。もう恨む力も残っていませんから」
僕は本心で言った。
「むしろ、宮沢さんには本当のことを教えてもらって感謝してるくらいです。知らないままだったら、僕はもっと馬鹿なピエロを演じ続けるところでした」
宮沢さんが「ごめん」と言わなかったことが救いだった。謝るくらいなら、最初から美樹と村岡のことは僕に言わなかったはずだ。でも、真意は分からない。真意を確かめたところで、もう僕と美樹は元に戻らない。
「お酒、弱いのね」
「弱いですけど……この白ワインは美味しいですよ」
赤ワインをグイっと飲む彼女に合わせて、僕も白ワインを呷る。視界が少し揺れる。彼女の艶っぽい視線から逃れられない。
「ウチ、来る?」
彼女は頬杖をつきながら、試すように言った。
僕は黙って頷いた。
***
「凄いマンションですね」
「九階なの。眺めはなかなかよ」
都心の夜空を貫くように、ぼうっと白くそびえ立つマンションを、僕は首が痛くなるほど見上げた。
――パトロンでもいるのかな。
そんな下世話な考えが頭をよぎったが、宮沢さんにパトロンがいたとしても全く不思議ではないし、おかしいとも思わなかった。。
部屋はモデルルームのように生活感がなかった。壁には数枚の抽象画が飾られている。
「これ、宮沢さんが描いたんですか?」
「昔ね。今はもう描いてない。私は鴨志田さんと違って才能なかったから」
鴨志田というキーワードに、心臓が止まりそうになる。頭では「もう終わったこと」と理解しているが、感情の方で追いついていない。
彼女は蔵庫からミネラルウォーターを二本取り出し、その一本を僕に差し出した。彼女の手が僕の手に触れた瞬間、僕は反射的に彼女の手を握った。冷たくて細い指。
顔を近づけると、彼女は少しだけ悲しそうな目をして、僕の唇を手で制した。
「待って……」
かすれた声だった。
僕の中で、何かが崩れ落ちるような音が響いた。
***
それから僕は、宮沢さんと会うようになった。
彼女は僕を拒むことはしなかった。僕と美樹を引き裂いた罪悪感なのか、傷ついた僕を慰めようとしていたのか、それとも彼女自身も何かから逃げたかったのか。
僕たちは、言葉よりも体温で会話をした。
美樹との時間は「昼の光」だった。美術館、公園、未来の話。
宮沢さんとの時間は「夜の闇」だった。マンションの一室、アルコール、過去の話はしない沈黙。
――いっそ堕ちるところまで堕ちてしまえ。あとはもう浮上するだけだから。
宮沢さんは、一緒にその「底」を探してくれていたような気がする。心の隙間を埋め合うとか、傷を舐め合うとか、そんな美しいものじゃない。もっと俗物的で、でもどこか必死な、生存本能に近い関係だった。
ある夜、彼女の寝顔を見ながら思った。彼女もまた、芸術という魔物に傷つけられた一人なのかもしれないと。美樹が選んだ道を、彼女は選べなかったのか、それとも選ばなかったのか。その答えを聞くことは、最後までなかった。
大学卒業後、僕は北海道の知床自然保護財団に就職が決まった。あの時、美樹と行くはずだった場所だ。
東京を離れる日、宮沢さんは羽田空港まで見送りに来てくれた。出発ロビーの雑踏の中、僕たちは向かい合った。
「元気でね」
「宮沢さんも」
ありきたりな言葉しか出てこない。
僕が保安検査場を通る直前、彼女は「携帯出して」と言った。
「お互いの連絡先を消そう」
その提案に、僕は一瞬言葉を詰まらせた。美樹の連絡先はためらわずに消したのに、宮沢さんの連絡先を消すのは、なぜか胸が痛んだ。この一年、僕を支えてくれたのは間違いなく彼女だったからだ。
「消さないとダメ?」
「――ダメ」
一度も僕を拒まなかった彼女が、初めて僕にはっきりと突き付けた「NO」だった。
「三上君は新しい場所に行くんでしょ? 過去の荷物は全部ここに置いていきなさい。私もそうするから」
彼女の瞳が揺れていた。僕は観念して、目の前で彼女の連絡先を削除した。彼女も同じように操作をする。
「さよなら」
彼女は少しだけ微笑んで、背を向けた。その背中は、美樹よりも少し小さく、でも凛として見えた。
やっぱり僕は宮沢さんのことが好きで、彼女に救われたんだと思う。それに気付いても、もう手を振ることしかできないことが、もどかしくてたまらなかった。
――僕は彼女に救われたけど、彼女にとって僕は何だったんだろう。
ただの暇つぶし? 罪滅ぼし? それとも……。
飛行機が離陸し、東京の街が小さくなっていく。窓の外を見つめながら、そればかりが頭の中をぐるぐる回っていた。
***
北海道の冬は厳しい。
白い雪原に立ち、凍てつく風に吹かれながら、僕は時々あの頃を思い出す。
美樹との一年間と、宮沢さんとの一年間。どちらも僕にとってはかけがえのない時間だった。
じゃあ、何が違うのか、今でもうまく説明ができない。どこかへ出かけて、食事して、お酒を飲んで、抱き合う。傍から見れば、同じことをしていたはずなのに。
違うのは、僕の記憶に残っている宮沢さんの少し寂しげな笑顔と、キャンバスの中で自信満々に笑っている美樹の自画像。それだけなのかもしれない。
僕はポケットから手袋を出し、白い息を吐きながら、また歩き出した。
青い空は、あの日の摩周湖のように、どこまでも高く澄み渡っていた。
(了)
作中に出てきた「倉本鉄平」と「亀崎一郎」は、画家の笹倉鉄平と鶴田一郎のことです。カレンダーとポストカード、持ってます。
こちらもどうぞ。
テーマ「熟成下書き」でCONGRATULATIONSを頂きました!

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