始まりの木|掌編小説
僕の家のすぐ裏には、見渡す限りの草原が広がっている。その真ん中に、不思議な木が一本だけ、ぽつんと立っていた。近所の人たちは「あの木は変わってる」と言いながらも、誰も深く気にしない様子だった。
春には桃のような花を咲かせ、夏になると葡萄に似た房が実る。秋には紅葉と共に、栗のような実を落とし、冬になると葉をすっかり落としながら、どこか柚子のような香りを漂わせる。
世界中の植物学者や研究者たちがどんなに調査しても、種の特定はできなかった。DNA検査も役に立たず、文献にも載っていない。どんなに科学が発達しても解明できない、この世の神秘が凝縮されたような存在。僕はこの木のことを、勝手に「生命の木」と呼んでいた。
僕はその木が好きだった。木陰で本を読んだり、実った果物をこっそり味見したりして。
何も語らず、誰の言葉も必要とせず、ただ季節を身にまとって凛と立っている姿に、どこか安らぎを感じていたし、僕の成長を見守ってくれているような気がしていた。
ある日、その木が少し傾いているのに気づいた。幹には深い亀裂が走り、樹皮の一部が剥がれ落ちている。まるで、長年の重みに耐えきれなくなったかのように。
それからというもの、木は日に日にその角度を増していった。葉の色は灰色になり、実の数も減っていく。その光景を見た瞬間、僕は悟った。この木にも、終わりが来るのだと。永遠にそこにあり続けると思っていた生命が、静かにその幕を閉じようとしている。
最期の秋、木はふわりと花を咲かせた。季節を間違えたのか、あるいは、それが別れの合図だったのか。淡い橙色の花が風に揺れて、どこか懐かしい匂いを運んでいた。
僕は木の傍らに座り、静かに手を伸ばす。幹に触れると、温かかった。まるで、長い旅を終えた友人の手を握っているようだった。
空が高く、鳥の声が遠くに聞こえる朝、木は倒れた。音もなく、静かに、草の上に身体を横たえた。僕は、すっかり小さくなってしまった幹に手を置いて、「さよなら」と言った。
その夜、夢を見た。草原の真ん中に立つ木が、にっこり笑って、僕に手を振っている。まるで「ありがとう」と言っているように。
翌朝、草原にはもう、木の姿はなかった。不思議なことに、倒れたはずの幹も枝も、跡形もなく消えていた。ただ、そこには小さな芽が顔を出していた。
僕はその芽に水をやった。名前のないその木の、始まりの朝だった。
(了)
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