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2022年の私的結論「写真はイルカの夢をみる」

2022年最後のnoteとなります。
本年も大変お世話になりました。

2022年はいろいろ転換したし、転換させた年でした。
そのせいかメンタルの浮き沈みが激しく、疲弊してしまう日も多くありました。

その原因の一つは、写真について勉強し始めたこと。
もとい、美術史や美術史における写真の立ち位置など、歴史的背景や現代アートに続く流れを追っていました。

浅い知識で行きついた結論として。

写真である必要はない

について書いてみます。

写真である必要はない

結論から。
何か創作活動、表現活動をするにあたって、写真を選択する必要性や必然性というものは、どこにもありません。
絵だっていいし、音楽だっていい。
ダンスでも、芝居でも、文章でもいい。

したがって、今私が役者さんやプロレスを撮っている行為自体も、写真である必要なんてどこにもありません。
むしろ写真であることで枷になってしまうこともあります。
写真でなくていい、とも言えるでしょうか。
役者さんですから、映像や音声の方がいいのかもしれません。

論の背景について深堀りしていきます。

写真美術館が突きつける、写真の否定

東京都写真美術館。
日本における写真美術の権威です。
その展示のひとつ、あるキュレーター主催の「新進作家展」を取り上げています。

動画の中で「新進作家展の図録に、写真家は一人もいない」と指摘があります。
多ジャンルの美術を学んだ方が写真を使って表現をしているに過ぎません。
また展示自体も、写真そのものというよりインスタレーションによる作品となっています。

これを「写真でない」と片付けてしまうのは簡単です。
しかし(一個人とはいえ)東京都写真美術館の選ぶ「これからの写真はこれだ」なのです。
撮るという行為そのものは作品のごく一部に過ぎず、プリントもごく一部に過ぎない。
あくまで芸術そのものを学んだ人が、手段としての写真を用いて、表現を構成している作品が「これからの写真」。

捉え方は千差万別あると思います。
私は「表現において写真は手段に過ぎない」という認識に至ってしまいました。
自分が体と頭を使って、精神すり減らして、バカみたいに5年間下手の横好きしてきた写真は、ただの手段です。

現代アートと主張

アートはビジネスです。
パトロンやコレクターにお金を出してもらってナンボです。

そんな世界において、現在は環境や政治的な主張は欠かせません。
何かしらのイデオロギーに従って表現をし、それに値が付くのです。

写真の登場、デュシャンの登場など、いくつかの転換点をもって、アートは主張の場ともなったと認識しています。
歴史的文脈や、背景にあるイデオロギーを理解して、そしてアート界における立ち位置なんかまで踏まえて、初めて理解できる。
とても高尚で、美しいだけ・上手いだけではない、そんな世界。

『表現の自由研究』という企画(休載中)をやり始めて、この辺の資料を読んだり動画を見たりしてました。
詳しくなると思うじゃないですか。
ますます分からなくなってくるのです。

その主張とその作品が、本当にリンクしているのかなんてことすら不明。

写真なんて

翻って自分の写真、どうでしょう。

一応主張というかテーゼはあったりします。
文章にすることについては、人並みにやってきた気でいますので。
じゃあ主張が写真として成立していて、世間様に浸透しているかといえばNOです。

それを撮っている自分が、写真を撮る必要はあるのか。
自分でなければ、写真でなければダメな理由はあるのか。
自分というフィルターを通して見る世界は、汚らわしくないのか。
森山大道『写真よさようなら』の世界にこそ正解があるのではないか。

写真なんて続けてても無駄なんじゃないか。
そんな考えが頭を支配します。

私は行き詰りました。
仕方なく、原体験まで戻ってみます。
それは写真を楽しいと思えた日。

プロレス写真という原体験

なぜ5年以上も写真を撮ってこられたのか。
たぶん入りが楽しかったから。

当初は一人旅の記録用として買いました。
そんなカメラを携えて、趣味のプロレス会場へと足を運んだことが始まり。

プロレス会場で写真を撮ること。
それは自分に役割を課すことでもあると思えます。
一観客でありながら、自分が良いと思う瞬間を切り取り、記録としても作品としても成立させられる一葉を世に出せるのですから。

別に難しいこと考えなくても、自分がいいなと思える写真が撮れたら楽しかった。
写真を通じて会話ができることが楽しかった。
それで充分だった。

写真である必要はない。
絵でもダンスでも、映像でもいいはず。
でも写真である理由はあるのです。
撮ってて楽しい。

こうも思います。
完璧な写真はない。
完璧な文章もない。
完璧な表現はない。
全部が不完全だから、いろいろ使って、より曖昧にする必要があって。
絶対的な正解はなくて、だから面白い。

行き詰った自分に必要なのはたぶん許容で、「プロレス写真の延長でもいい」という赦しだろうと。
きっと、こんなフレーズが合う。

ラッセンがーーーすーーーきーーー

永野さんのことはよく知らない…ブームになっているころにはテレビを見ないマンだったので。
ちなみに私はゴッホも好きですがモネとかルノワールの方が好きです。

たぶんね。
そんくらいでいいんです。

ラッセンはアートというよりビジネスシーンで成功した画家です。
その絵に文脈とか、わずかです。
でも色使いや構成力で魅了してくれます。
直感的に「きれいだな」で終了。

そんくらいでいいんです。
土井先生が一汁一菜でええんですって言うくらい、そんくらいでいいんです。

なんせ私は賞レースから逃げた人間。
日本のアマチュアポートレート界隈で評価されなくてもまぁええやろで行くしかないのですから。

じゃあ何するかって言えば、何度も書いてる気がしますが。
写ってくれた人が喜んだり綺麗だなと思う写真。
写ってくれた人のファンが喜んだり綺麗だなと思う写真。
ラッセンくらいのうっすい感想でもいい。
それでいい。

でも勉強したことは無碍にしたくない。
判別できなくてもいいくらい、ほんのり載せとけばいいじゃないか。
「フォークト=カンプフ感情移入度検査法」でしか判別できないアンドロイドのように。

『写真はイルカの夢をみる』
2022年おわり。

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2023年もよろしくお願いします。
喪中のため、新年のご挨拶は控えさせていただきます。

それでは。

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