"鑑賞"から"消費"の時代へ〜プロレス写真がもたらす価値とは〜
悲しい。
私なんかの写真を保存したりプロフィール画に使ったりするのは全然使用許可とかいらないですしこちらも嬉しいのでどんどんしてもらって構わないですけど被写体の方や選手以外が無断でインスタやTwitterとかに載せたり壁紙みたいに加工したりするのはちょっと違うのかと。。。
— taiga (@taigaPhoto_pw) January 7, 2021
それだけはお願いします。
フィルムからデジタルに時代が変わりました。
写真を手元に置くためには、現像という作業を経ずとも、指先一つでポチッで済みます。
そして何より情報洪水のSNSにおいて、狭いジャンルの中であっても、あらゆるコンテンツは供給過多の様相を呈しています。
産みの難しさは残れど、受ける側にとって一つ一つのコンテンツの価値は相対的に低くなり、有象無象の中に埋もれてしまいます。
下がってしまった価値は、結果として「手元にある=自分の物」「公開されている=どう使ってもいい」という認識を生み、バレなければ誰でもクリエイター気分を味わう「一過性の消費コンテンツ」へと、写真を変えてしまいます。
そんな時代において、ことプロレス写真というのは、どんな価値観を提供できるのでしょうか。
同じものであふれかえるタイムライン
風景写真というものは長年研究された分野です。特にSNSが発達した現在では、撮影スポットは出尽くした印象すらあり、新たに発見されればその瞬間から「同じような写真」であふれかえることになります。
例えば誰もが同じ構図を思い出すであろう「清水寺の紅葉写真」を、今この状況でSNSに投稿することは、あらゆる意味において難しいんです。そのような困難な状況は清水寺のような著名な撮影地だけではなく、また写真のみに止まらず、広範な領域における「表現の主題」=whatが、一瞬にして消費し尽くされる時代が2010年代の後半に完成しました。2020年はさらにその傾向が加速します。
-別所隆弘 SNS時代における「表現のコモディティ化」より引用
ことプロレス写真においても、カメラを握って観戦するひとの数が増え、スマホなどでも撮影ができるようになったことで、1つの試合で同じ瞬間を捉えた写真が数多く出回ります。
違いがあるとすれば席の位置でしょう。
プロレス写真というものは、誰にでも生み出せるコンテンツになっています。しかし、SNSではインプレッションに明らかな差が存在していて、何かしら求められる価値というものが存在していそうです。
では、プロレスで写真を撮ること、そしてSNSで公開することに対して求められる価値について、表層的な部分から考えてみます。
表面的な価値
写真が提供するもののうち、最も即効性があることとすれば、「情報の視覚的認知・共有」でしょう。
例えば会場に行けなかった人。会場にはいたけど遠くてよく見えなかった人。たまたまトイレに行っていた人。
そんな人たちが詳細にその場面を知るツールは、間違いなく写真でしょう。では何が需要として存在しているでしょうか。
それは、いかに早く、いかにきれいな写真を、人を引き付ける文章と共に投稿できるか。価値の高さ、すなわちSNSのインプレッションは、「速報性×情報の質×フォロワー数」でおおむね決まります。特に速報性は誰にでも探求できる面であり、良いパフォーマンスを発揮できる人は、おのずとフォロワーも増えます。
しかし、速報性の面を強くしていこうとすると、疲れてしまいます。それは、写真だけでなく、そのアカウント、本をただせば中の人自身も、情報コンテンツとして消費される対象に見られてしまうからです。
多くの反応が貰いたいがために急いで編集して、自分の身の回りのことは後回しにしたり、人との交流を避けたり。突き詰めるほど、あたかもSNSのフォロワーたちに使役される労働者のように感じられ、袋小路に追い込まれることもあります。
もう少し深い価値-Howの探求
表面的には「情報の視覚的認知・共有」という価値があるとしました。では、もう少し本質的な価値とは何でしょうか。
先ほど紹介した記事のタイトルにもある「コモディティ」について見てみます。
コモディティ(commodity)とは、経済学において、完全または実質的な代替可能性を持つ経済的価値またはサービスである。誰がそれらを生産したのかに関係なく、市場はその商品価値を同等かほぼ同じとして扱う[1]。(Wikipedia「コモディティ」"https://ja.wikipedia.org/wiki/コモディティ" より引用)
表面的な価値での問題は、「あなたでなくてもいい」という点です。他の「より早く情報をくれる人」であったり、「きれいな写真をくれる人」であれば、あなたでなくても代替可能なのです。
裏を返せば、たとえ表面的な価値が薄れたコンテンツであっても、ちゃんと見てくれている人はそれ以外の面も見ているのです。
ではコンテンツの本質とは何でしょうか。
ここで、「ゴールデンサークル理論」というものを引っ張ってみてみます。
以下、引用。
「人は、何を(what)ではなく、なぜ(why)に心を動かさせる」

表面的な価値とは、「Whatの提供」です。本質的には、「なぜ(Why)」を紐解く「このように(How)」にコンテンツの価値があり、あなたにしかない魅力を成しているのです。
プロレス写真におけるHowの一例をあげてみます。
・観戦でこんな楽しみ方、見方もある
・選手が見せた一瞬の「感情」について語る
・このシーンはこんな秘密があった
これは単なる場面の説明でおさめず、プロレスというエンターテイメントのある側面に対して「WhatへのHow」という一つの解を提示する、という主張です。
そこに万能の正解というものはなく、立派だろうが拙かろうが、一つのHowです。
また別例をあげれば。
・「なぜこの場面は感動的なのか」に対する考察
・「なぜ選手が好きなのか」に対する感情の爆発
・「なんでプロレスってこんなに面白いのか」に対する体験談
etc...
挙げたものはすべて、「あなたがどう感じたか」という世界に一つしかない価値観の表現です。そこに正解は無く、ゴールもありません。
そして何より、これらの「How」を写真で表現できたとしたら。
「速報性×情報の質×フォロワー数」のうち、一番含みのありそうな「情報の質」に対してのアプローチができると思います。
なにより、それがオリジナリティであり、アイデンティティになっていくと思います。
より具体的に「プロレス写真のここが面白い」を捉えた素敵な記事をご紹介。
自分語り:noteという媒体
私自身、Whatに傾倒しすぎないように、可能な限り抽象的な表現を心がけるようにしています。
なので、「写真の撮り方」や「設定はこう」のように、もっと自分より技術レベルの高い人が代替できるテリトリーは、できる限り避けています。
Whatについて書くこと自体はとても素敵なことで、初心者だったり、より技術を伸ばしたい人に向けてはありがたい存在です。
しかし私が目指すのは、現状そのステージではないだろうと。
おそらく、カメラの設定とか、エントリー機でも撮れる写真講座とか書いたほうが反応はもらえるのでしょうが。。。
最終的に書きたいと思っているnoteに向けた布石を沢山打つのが今のすべきことと思ってます。
また、こんな抽象的な長文でもいいんだと、誰かnoteとか写真とか始めるきっかけになれたらいいなと思ってます。
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