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明日からその人と会えなくなるとして、その発言や行動をするのか。

人とのかかわりはシャボン玉のようなもの。
ふわふわして綺麗で、風に流されて。
触れようとすると弾けてしまう。

でも触れないでいるとひとりぼっち。
だから壊れることを恐れつつも触れに行くのだ、と。

もしそれがトゲだらけの手で触れる行為だったら。
勢いをつけて叩いてしまったら。




書きたいこと

旧Twitterでの炎上事件を扱いますが、当事者を非難はしません。
ポートレート界隈のことに触れますが、啓蒙するわけでもないです。
私自身が思い、感じ、反省したことを書く、備忘録のようなものです。
知見はないし、オチもない。
でも私自身にとっては書く意味があるので書きます。


旧Twitterで火の手が上がった。

「ポートレート界隈」
の文字がトレンドに載っている。

火元をたどると一つのpostにたどり着く。
要約すると。

  • 写真展へ写真が飾られる予定なのに、展示する写真がどれになるのかモデルさんへ当日になっても知らされないし、当日にプリントができていない説明する始末

  • 過去に何度もトラブルがあった

  • 不遜な態度や拘束するような言動があった

  • モデルさんは「『ポートレート』は好きですが『ポートレート界隈』は大嫌いです。」と

件の人物はおそらくプロのフォトグラファーで、それなりに歴が長く実績もある模様。
その結果がこれである、と。
過去の投稿を見ると色々主張をしていたようで、「この人は前から○○だと思ってた」みたいなコメントが見受けられた。

まぁその人のこと知らないので多くは触れない。
石を投げるだけの第三者ではいたくない。
私はここから教訓を得るために書くのだから、責めることは本筋からは外れてしまうのでしない。

ここでのテーマは「明日からその人と会えなくなるとして、その態度をとるのか」

ポートレートの危うさ

写真は現実に存在する物体しか撮れない。
たとえば空想の生物を撮ろうとしても撮れないから模型にするしかない。
はたまた「私の考え」みたいなものはメタファーとして表現するしかない。
カメラという光を記録する装置と、光を発するか反射する物体の相互作用で初めて写真が成り立つ。

被写体は何でもいいのだけど、昔からある2大ジャンルは風景と人物。
19世紀末に画家から仕事を奪ったのはまっさきにこの領域で、脈々とその歴史は紡がれてきた。
風景は自然が相手だからまだいい、人物が相手となるとトラブルの種がそこかしこに存在する。
ちょうどドガが女児へのいろんな疑惑を持たれていたように。

つまるところ、コンテンツ制作者であるまえに一人の人間であることを求められる。
それもトラブルを起こさない、出来た人間であることを。
被写体への敬意はどれも変わらず持つべきだけど、さらに「相手を人間としてどう捉えるか」が問われる。

たとえば「モデルは私の考えを表現するための存在」とすれば、それはランウェイを歩くファッションモデルさんのように、目的を満たすための動作を求められる無機質さが必要になる。
一方「モデルと仲良くおしゃべりする時間が楽しい」「その人を撮っていることがステータス」のようになってくると、単純なよくある人間関係へと落とし込むこともできる。

いずれにしても、撮る側の思想によって「モデルさんがどう観られるか」が決定される。
その上撮影という(物理的な)距離感の近い時間を過ごすから、関係性によっては接客業のような消耗する事態になる。
写真は撮る側の元に残るので「その人を獲得した感覚」を持ってしまう。

日本のポートレート界隈における産業構造は独特だとも言われており、モデルさんもカメラマンさんも活躍できる場であることと、トラブルの温床であることが表裏一体な中で消費活動が行われている。
そんなさなかで炎上が起きてしまった、と。

もし当事者に、騒動のさなかに聞けるなら聞きたいこと。
「ほんとうにその言動は、明日から相手と会えなくなるとしても同じことをするのか」

明日からその人と会えなくなるとして、その発言や行動をするのか

・孤独死

国立新美術館の企画展『遠距離現在 Universal / Remote』でこんな展示を見た。
記事の着想はここからもらった。
これまで見てきた写真展示の中でも特に心を揺さぶられた。

ティナ・エングホフ
《心当たりあるご親族──男性、1964年生まれ、自宅にて死去、2003年7月31日発見》| 2004
ティナ・エングホフ
《心当たりあるご親族──男性、1935年生まれ、自宅にて死去、2003年3月2日発見》| 2004

ただの部屋の写真。
でもそうではない。
これはデンマーク、世界でも最も幸福度の高い国の一つの写真。
福祉国家として知られる国で起きている孤独死、つまり社会福祉によって個々人を頼ることが困難になった実情。

たしかにその部屋に生きていて、その形跡があるのに、ひっそりと一人誰にも看取られることなく、いつのまにか死んでいった。
海外の高齢者の話だけど、私の身の回りで起きても不思議ではないし、私が当事者にもなりうる
という恐怖に震えた。

・会えなくなった人

個人的な話を。

私にはもう会えなくなってしまった人がいる。
その人と最後に交わしたのは「ここで四季を撮って、つづっていきませんか」という提案。
ついぞ叶わないものになった。

この一件を後悔はできない。
私にできることは何ひとつなかったから。
しかし、このできごとは私の中に「誰もが明日から会えなくなってしまうかもしれない」という恐怖を植え付けるには十分だった。
今の今まで不安で仕方ないし、それが原因でトラブルをいくつも起こしてしまった。

ひるがえって。
明日から突然その人と会えなくなってしまうとして、どんな発言や行動をすべきなのか。
冒頭の炎上騒動を通じて、そんな考えに耽った。

・もらった言葉

そんな折に某SNSでステキな言葉を友人がくれた。
すごく尊敬している方、自分もこうなりたいと憧れる人の言葉。
「自分がされて嬉しいことを相手にもする」

いや、言葉自体は耳にタコができるほど聞いている。
でもこのとき「自分はされて嬉しいことの認識が人とズレている」ということを気づかされた。
自他境界があいまいになって、自分が機能や役割を果たしていることが、相手にとっても幸福なのだという妄想。
写真や文章という成功体験にすがる、自信のなさ。
明日には見捨てられるかもしれない、なんていう妄想に支配されていた愚か者だった、と。

もっともっと本質的なこと。
「本当に相手の立場に立っているのか、今一度考え直す」
「自分から機能をはらった状態で、何をされて嬉しいか考える」
「おせっかいではなく、親切とは」

という小学生中学生くらいで獲得しているべきことを私は身に着けていないことに気づかされた。

この状態で聞くその人の言葉は、私に突き刺さった。
そしてタイトルの言葉を今一度考え直す。

明日からその人と会えなくなるとして、その発言や行動をするのか
への答えは

人として見て、自分本位にならず、言われて嬉しい言葉、されてうれしい行動を常に心がける
だと。

結論:人生の一日をもらっている自覚

人はいつ死ぬかわからない。
この文章を書いているいま、帰り道で車にひかれて死ぬかもしれない。
何かしらの病気にかかって目を覚まさないかもしれない。
私が敬愛する誰かだって例外ではない。

何かしら時間を割いてくれるなら。
お互いいつ死ぬかわからない中の一日をもらっている自覚を。
その一言で相手の人生が終わった時に後悔しないことを。
って自分に言い聞かせます。

これまでの私には誤りがたくさんあった。
でもそれは心の中の幼い自分が、それまで得られなかった何かを獲得しようと、安心しようと、私の理性を振り切ってしまうほど強力に動いていたからで。
今までの自分が罪ではなく、誤りだったと受け入れて、もう繰り返さないと誓う。
たぶんまた同じことをしてしまうけど、起こさない努力はしようと。

そしてもしこれを読んで、誰かモデルさんやカメラマンさんが影響されて、嫌なことが一つでも減ったらいいなという願い。
私もポートレート界隈は好きではないけど、ポートレートは好きな一人なので。

齢30、弱い30。
年齢はボカすけど、私はそんな人間なのです。
でも弱いからこそ成長しなきゃという考えに行きつく。
失った十数年は今から埋めます。
ステキな方々にご縁頂いてるので、成長せねばと。

おわり。

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