BOØWYと坂本龍馬――なぜ「時代を変える者」は、あまりにも早く駆け抜けるのか
BOØWYについて考えていると、ときどき、まったく別の時代を生きた一人の男が頭に浮かぶ。
坂本龍馬だ。
幕末の志士と、1980年代のロックバンド。
時代も違う。
やったことも違う。
生きた世界もまるで違う。
普通なら、二つを並べて考える理由などない。
それなのに、どうしても似て見えるのは私だけなのか。。。
あまりにも短い。
そして、その短さに反比例するように、後の時代へ残したものがあまりにも大きい。
さらに、もう一つ。
よく考えると、少し不気味なほど似ているところがある。
どちらも、自分たちの時間が永遠には続かないことを知っていたかのように、最後まで速度を落とさなかった。
坂本龍馬は、身の危険を感じながらも動くことをやめなかった。
BOØWYは、誰かに終わらされたのではない。
人気絶頂の中で、自ら解散を選んだ。
一方は命を奪われた。
一方は自分たちで幕を引いた。
まったく違う。
……はずなのに。
なぜか、同じものを感じる。
彼らは、なぜそんなに急いでいたのだろう。
坂本龍馬という、不思議な男
坂本龍馬は1836年、土佐に生まれた。
今のように、遠く離れた場所へ数時間で移動できる時代ではない。
電話もない。
メールもない。
SNSもない。
誰かに会いたければ、自分がそこまで行く。
遠く離れた人間に考えを伝えたければ、手紙を書く。
その手紙が届き、返事が返ってくるだけでも時間がかかる。
人も情報も、今とは比較にならないほどゆっくり動いていた。
そんな時代に龍馬は、まるで一人だけ違う時計を持っているかのように動き続けた。
土佐を出る。
江戸へ行く。
京都へ行く。
長崎へ行く。
勝海舟。
西郷隆盛。
桂小五郎。
後藤象二郎。
当時の日本を動かしていた人間たちと次々につながっていく。
薩摩と長州。
本来なら簡単には手を結べない者同士をつなぐために動く。
そして幕府から朝廷へ政権を返す大政奉還へとつながる構想にも関わっていく。
現代のような通信手段がない時代だ。
それを考えると、その行動量だけでも異常に見える。
しかし、もっと不思議なのは最後だ。
龍馬は、自分に危険が迫っていることを知らなかったのか
龍馬は1867年、京都の近江屋で暗殺される。
まだ31歳だった。
あまりにも短い人生だった。
ただ、龍馬は最後まで何の危険も感じずに行動していたわけではない。
命を狙われる危険があることは、十分に分かっていたはずだ。
実際、その前年には寺田屋で襲撃も受けている。
それでも――
止まらなかった。
もう少し身を隠すこともできたかもしれない。
もっと慎重に生きる道もあったかもしれない。
それでも動いた。
まるで、
「自分には時間がない」
とでも思っていたかのように。
もちろん、龍馬自身が自分の死期を正確に知っていたわけではない。
それでも後世から彼の人生を見ると、妙な感覚になる。
あまりにも短い人生だったとは思えないほど、多くの人と出会い、多くの場所へ行き、多くのものを残している。
普通なら数十年かけて積み上げるようなものを、人生の最後の数年間へ異常な密度で詰め込んでいる。
なぜ、そんなに急いだのだろう。
そして、この感覚。
BOØWYを見ていると、どこか似ている。
そして、たった6年のBOØWY
BOØWYの活動期間は、わずか6年ほどだった。
インターネットはない。
SNSもない。
YouTubeもない。
一曲を投稿した翌朝、何百万人へ届くような時代ではない。
ライブをする。
口コミで名前が広がる。
雑誌に載る。
レコードやCDを買ってもらう。
テレビやラジオで知ってもらう。
音楽が広がる速度そのものが、今とは違った。
そんな時代にBOØWYは現れた。
そして――
驚くほど短い時間で、日本のロックの頂点まで駆け上がった。
冷静に考えると、恐ろしく速い。
約40年後に聴いても、なぜ未来の音がするのか
BOØWYの不思議は、成功の速さだけではない。
今聴いても、妙に古くない。
もちろん録音技術などには、その時代の空気がある。
それでも、曲そのもの。
ファッション。
立ち姿。
ステージでの見せ方。
氷室京介のボーカル。
布袋寅泰のギター。
松井常松の存在感。
高橋まことのドラム。
4人が並んだときの、あの独特な空気。
約40年前のバンドなのに、
「昔の人たちがやっていた音楽」
という感じがしない。
むしろ現在の日本のロックを見ていると、
「これ、BOØWYがずっと前にやっていたよな」
と思う瞬間がある。
音楽だけではない。
バンドの見せ方も、ファッションも、立ち姿も。
後から多くのバンドが歩くことになる道を、彼らだけが先に知っていたようにも見える。
だから時々、馬鹿げたことを考えてしまう。
BOØWYは少し早く、この時代に来すぎたんじゃないか。
最大の偶然――なぜ、この4人だったのか
BOØWYには、もう一つ不思議なことがある。
氷室京介。
布袋寅泰。
松井常松。
高橋まこと。
なぜ、この4人が同じ時代に揃ったのだろう。
氷室京介の声とカリスマ性。
布袋寅泰のギターと音楽的アイデア。
松井常松の、ほとんど動かないことすらスタイルに変えてしまう存在感。
高橋まことの、バンドを前へ押し出すドラム。
全員違う。
なのに4人になると、
BOØWYになる。
誰か一人が違っていたら。
同じ曲を演奏することはできたかもしれない。
似た音を作ることもできたかもしれない。
でも、BOØWYにはならなかった気がする。
実力だけでは説明できない。
実力のあるミュージシャンなら、ほかにもいた。
必要だったのは、
あの4人が、あの時代に、同じ場所へ集まるという偶然。
坂本龍馬が、幕末という巨大な変化の中で、後に歴史へ名を残す人間たちと次々に出会ったように。
歴史が大きく動くとき、ときどき異常なほど人が集まる。
偶然なのか。
それとも、時代が必要な人間を集めるのか。
そしてBOØWYは、自ら終わった
ここで、龍馬とのもう一つの共通点が見えてくる。
BOØWYは売れなくなって終わったバンドではない。
人気が落ちたから解散したわけでもない。
むしろ逆だ。
人気絶頂の中で、解散を選んだ。
もっと続けられた。
もっと売れたかもしれない。
もっと大きな存在になった未来もあったかもしれない。
それでも4人は、
終わることを選んだ。
坂本龍馬は違う。
龍馬は自ら死を選んだわけではない。
暗殺された。
BOØWYは自分たちで解散を決めた。
表面だけ見れば、まったく違う。
しかし、少し角度を変えて見ると――
妙な共通点が浮かんでくる。
龍馬は、身に危険が迫っていることを感じながらも歩みを止めなかった。
BOØWYは、まだ先へ行ける絶頂期に、自ら歩みを止めた。
一方は、終わりが近いかもしれないのに止まらなかった。
一方は、まだ終わる必要がないのに終わった。
正反対に見える。
なのに結果として、どちらも――
長くそこに居続けることをしなかった。
龍馬について、それを本人が選んだと言うことはできない。
だが、後世からその人生を見ると、
短い時間の中で、やるべきことを一気にやり切ったように見える。
そしてBOØWYもまた、長く続けることより、その瞬間に自分たちがやるべきことを選んだように見える。
そこが、不思議なのだ。
まるで「終わり」を知っていたように
ここからは完全に想像の話だ。
歴史の事実とは別の、ただの空想として読んでほしい。
もし坂本龍馬が、自分には長い時間が残されていないことを知っていたとしたら。
もしBOØWYが、自分たちは何十年も続けるバンドではないと最初から知っていたとしたら。
あの異常な速度にも、少し説明がつく。
龍馬は、
「時間がない」
と知っているかのように日本中を駆け回る。
BOØWYは、
「長く続ける必要はない」
と知っているかのように駆け抜ける。
そして役割を終えた瞬間――
いなくなる。
一人は暗殺によって。
一組は解散によって。
もちろん、そんな筋書きがあったわけではない。
それでも後世から見ると、
あまりにも綺麗に終わりすぎている。
もし、続きがあったなら
考えてみると面白い。
もし坂本龍馬が暗殺されず、その後の日本を生きていたら。
もしBOØWYが解散せず、その後も何十年と活動を続けていたら。
もっと大きなものを残していた可能性はある。
龍馬は明治の日本で、さらに重要な役割を果たしたかもしれない。
BOØWYはさらに何枚もの名盤を作ったかもしれない。
でも――
今と同じ「伝説」になっていただろうか。
分からない。
ここに、「伝説」というものの少し残酷な性質がある気がする。
終わってしまったから、続きを想像する。
「もし生きていたら」
「もし解散していなかったら」
その答えを誰も知ることができない。
だから物語が終わらない。
本人たちはいなくなったのに、
物語だけが、何十年も生き続ける。
時代の先を走る者には、時間の流れ方が違うのか
坂本龍馬の時代。
人も情報も、今よりはるかにゆっくり動いていた。
BOØWYの時代。
音楽も情報も、今よりはるかにゆっくり広がっていた。
それなのに彼らだけは、
時代の速度を無視するように駆け抜けた。
そして周囲が彼らのやったことを理解し始めた頃には、
もうそこにはいない。
これは偶然なのだろうか。
才能がある人間とは、そういうものなのだろうか。
時代が変わる瞬間には、そういう人間が必要になるのだろうか。
それとも――
本当に時代を変える者には、私たちとは少し違う時間が流れているのだろうか。
もちろん、そんなことはない。
龍馬が未来を知っていたわけではない。
BOØWYの4人が未来から来たわけでもない。
それでも。
坂本龍馬とBOØWYを並べて考えていると、どうしても一つの疑問が残る。
なぜ、彼らはあれほど急いだのか。
そして、なぜ――
あれほど短い時間しか存在しなかった者たちが、こんなにも長く私たちの中に残っているのか。
だから伝説は、終わらない
坂本龍馬は、31年しか生きなかった。
BOØWYは、6年しか存在しなかった。
なのに、龍馬は150年以上経った今も語られ、BOØWYは約40年経った今も聴かれている。
不思議なものだ。
長く残ろうとしたわけではない者たちが、結果として誰よりも長く残っている。
龍馬は、身の危険を感じながらも止まらなかった。
BOØWYは、まだ続けられる絶頂期に自ら終わりを選んだ。
もしかすると彼らにとって大切だったのは、
「どれだけ長くそこにいるか」ではなかったのかもしれない。
自分たちの時代に、自分たちにしかできないことをやり切る。
そして――去る。
だから、残された私たちは続きを想像する。
龍馬が生きていたら、日本はどうなっていたのか。
BOØWYが解散していなかったら、どんな音楽を作っていたのか。
その答えは、永遠に出ない。
だから伝説は、終わらない。
そして今日も、約40年前のBOØWYを再生する。
音が鳴った瞬間――
やっぱり、この4人だけ時間がおかしい。
