月(ルナ)は笑う――幻想怪奇蒐集譚 第五話 八本脚の蝶
――トゥールーズ人民共和国東端ドールヴィイ
ホフマンスタールで劇作家リヒャルト・フォン・リヒテンシュタットと子飼いの俳優たちが殺害された事件は大きく報道された。
著名な綺譚蒐集者《アンソロジスト》ルナ・ペルッツが関与しているという真偽不明な情報も伝えられていた。現場にいた女性たちが何人かその姿を見たというのだ。
メイド兼従者兼馭者にして吸血鬼《ヴルダラク》のズデンカが手に入れてきたヒルデガルト国民新聞を読む限りでは、犯人と名指しされているようでもなかったし、半月ばかり前にシュミットボンの刑場で発生した集団虐殺事件に関連があるのではないかとも疑われていた。
「この街には誰も事件を知る者はいなそうだ」
ルナは宿の長椅子に腰掛けてパイプを吹かしながら言った。
トゥールーズはオルランド、ヒルデガルト両国をあまり快く思っていない。スワスティカ時代に国土の半分近くを占領された怨みもあるが、草の根の国民が抵抗運動に加わり、亡命政府も連合国側に組みして勝利した優越感も手伝っているのだった。
国際的な劇作家の死は話題となっていたが、詳しい内容に興味を持つものは少ないようだった。
ルナたちはと言えば、報道がなされるよりも早く検問をパスして、つつがなく入国を果たしている。
「思ったより語学が出来るんだね」
買い物籠を提げて入ってきたズデンカを見てルナが言った。
トゥールーズは言語が違う国だ。ルナはゆうに十ヶ国語を話せるが、ズデンカもまた買い出しに不自由しないぐらいは他国語を操れる。
「馬鹿言え、何年生きてきたと思ってんだ」
「そうだった。君の方がはるかに先生だ」
ルナは脱帽した。
「これからは毎日崇めろよ」
ズデンカは胸を張った。
「気が向いたらね」
「なんだそれ」
ズデンカは呆れた。
「長く生きてるわりにはもの知らずだなって感じることも多くてさ」
ルナは笑った。
「そりゃ、あたしだってなんでも知ってるわけじゃないさ。特に昆虫のことなんか全然知らない。昔は苦手だったからな」
「前でかい蜘蛛を見た時は内心ビクついてたの?」
意地悪っぽくルナは言った。
「ビクつきゃしねえよ。何にでも動じる心は百年前に捨てた」
ズデンカはぴしゃりと言った。
「まあ蜘蛛は昆虫じゃないけどね。リーザさんも言っていたろ? 八本脚だから」
「八本脚があるのは昆虫じゃねえのか」
「基本的に昆虫は六本脚が条件だからね。通称六脚類とまで呼ばれるほどだ」
「ムカデは?」
「あれも多足類っていって昆虫の分類に入らない」
「へーえ、今までそんなこと気にせずに生きてきたぜ!」
「世の中には君の知らないことをたーくさん調べている人がいるんだよ」
ルナは煙を吐いた。
「あたしより寿命が短いのに、やりやがるな」
ズデンカは素直に感心していた。
「せっかくだから、蝶の展覧会にでもいかない? ドールヴィイは自然に恵まれた土地だから、たくさんの蝶が採れるんだ」
「いいな、行ってみようぜ」
とは応じたものの、ズデンカはルナがあちこちに姿を見せることが不安で仕方なかった。
「よっこらしょ!」
ルナはさっさと仕度をして(ズデンカにして貰って)走り出していった。
「まるでガキだ」
冬枯れの並木道を二人は歩いた。
他には誰の影もない。
そこへ、ルナの影だけが地面へ伸びる。
ズデンカは不死者だ。影を持たない。慣れたはずなのに、今はそれをとても寂しく感じた。
風が吹き付けてきた。ズデンカは平気な顔、ルナはぶるりと身を震わせた。
「手を繋ごう」
ルナがさっと出した手をズデンカは何も言わずに握った。
ズデンカは周りに人の気配がいないか、さかんに警戒した。
「何不安そうにしてんのさ」
ルナが小声で言った。
「いや、用心のためにだな」
「気にしなくていいよ」
ルナはにんまりしていた。
「そうは言ってもな」
「冬はまだまだ続きそうだね」
「なったばかりだぞ」
ズデンカは落ち葉をきゅっと踏んだ。あたり一面に散り敷かれている。
「お二方、仲が宜しいですな」
燕尾服に身を包んだ老紳士がいきなりぬっと顔を突き出した。
ルナを遮ってズデンカが立ちふさがった。
臨戦態勢。
老紳士は後ろへ宙返りして身を引き離すと、優雅に一礼した。
「やっぱり生きてやがったか、大蟻喰!」
「さすが低知能な吸血鬼だけはある、勘もケダモノ並みか」
老紳士の腹を突き破り、大蟻喰が顔を出した。
「くそっ、あたしとしたことが接近を気付けなかった!」
ズデンカの瞳は赤く光っていた。殺気が漲っている。
「そりゃ、今までたくさんの格闘家や陸上選手を食べてきたからね。ボクの素早さには叶わないよ。でも、すこし待って。今日は君たちを食べに来たんじゃない」
見事にトゥールーズ西部の訛りを使いこなしていた。
「信じられるか!」
「それが目的なら、さっきルナを殺すことだって出来てたじゃん」
大蟻喰は掌に付いた血を舐めた。
「まあ、そうだな」
ズデンカは納得したものの、警戒は怠らなかった。
「ボクもね、大好きなルナをすぐには殺したくないんだ。少しずつ、切り刻みながら、一つ一つの臓器をえぐり出して愛おしむように食べていきたい」
「変態が」
ズデンカは吐き捨てた。
「ルナは時が来たら食べても良いって言ってくれた。その気持ちに変わりはないよね」
「もちろん」
ルナは頷いた。
「なら合意の上だ。然るべき楽園《アルカディア》を選んで、二人だけの食人儀式を行いたいんだよ。今すぐじゃなくていい!」
大蟻喰は瞳を輝かせ、よだれを垂らしながら話した。
「なら、前食べれば関係ないとか抜かしてたのはどうしてだ」
「久しぶりに会えて嬉しかったからだよ」
老紳士の皮をパリパリ食べながら大蟻喰は言った。
「何がお望みなのかな」
ルナのモノクルが光った。
「話は簡単さ、キミたちの散歩に付き合わせて貰いたい」
「ダメだ!」
ズデンカは叫んだ。
「わたしは良いけど」
ルナは言った。
「お前……」
「どこに向かう予定だったの?」
大蟻喰は聞いた。
「公会堂で開かれる蝶の展覧会に行く予定なんだよ」
ズデンカが止める間もなくルナは言った。
「へー、蝶はボクの趣味じゃない。鱗粉とかが口に付きそうでやだ」
と言いながら近づいてくる。殺意を消していたのでズデンカも反撃の体勢は取らなかった。
「食べるばかりが人生じゃないよ。見て楽しいものもある」
「分かるよ。ボクだって画家を食べたこともあるし博物学者も食べた。美しさは分かるし、知識もとりあえずはある」
「じゃあ行こう」
ルナは先へと歩き出した。
「待て」
ズデンカはその後を追いかけた。大蟻喰も付いてくる。
冬枯れに雪も降り始めた中、三人が距離を保って歩くさまはひどく奇妙に見えた。
「お前とルナはいつ知り合ったんだ」
ルナに声が聞こえないと見計らってズデンカは後ろに問いかけた。
「秘密だよ」
「お前も隠すんだな」
「そうだね。二人だけの思い出だからさ」
「あらかじめ言って置く! あたしはずっとお前を疑ってるからな。何かやろうものなら即座に殺すぞ」
「殺せるなら」
大蟻喰はすたすたと歩いていった。
展覧会場には意外と多くの人が詰めかけていた。
緋色の絨毯が一面に敷かれており、その単色さに目がやられたのか、ステッキを持ってこなかったルナはクラクラとしてズデンカによりかかった。
「大丈夫か?」
「ちょっと、ね」
「昔から繊細だから、ルナは」
大蟻喰は逆に喜んで室内を歩き回っていた。
「悪さすんなよ」
ズデンカはまた人を食い始めるのないかとハラハラしながら言った。
「ボクは食べたいときに食べるまでさ」
大蟻喰は笑った。
「もし食べたら……」
そうが言いかけてズデンカは壁面を埋め尽くすたくさんの蝶の標本に目を奪われた。
死んでいる。
ピン留めにされていて、確かに死んでいるはずだが、いまだに鮮やかな翅の色を保っていた。
シマウマを思わせたり、ミミズクのようだったり、鬼百合が咲いたかのように見えたりした。
――こんなにいろんな種類がいたのか。
ズデンカは驚いていた。
「来てよかっただろ」
ルナが耳元で呟く。
「この――名前は何て言うんだ?」
ズデンカは一匹の蝶を指差した。鬼百合を思わせるものだった。
「アカタテハって書いてるね。ふむ、でも変だな。分かるかい。この蝶、脚が八本あるよ」
ルナは蝶を色んな方向から眺めながら言った。
「どれどれー?」
二人の間に大蟻喰が顔を覗かせてきた。ズデンカは肘鉄を食らわせた。
「正面からじゃ分かりにくい、もっと近づいて横から見てよ」
ルナは言った。
「あー確かにそうだね。珍しいこともあるもんだ」
大蟻喰は驚いた。
ルナはきらりとモノクルを輝かせた。
「くんくん。綺譚《おはなし》の匂いがする」
そうやって鼻をひくつかせるポーズをやりながら一人ですっと立った。
「さて、調べるとしようか、諸君」
「誰かのイタズラです。こんなもの、最初はなかったんですよ。八本脚の蝶なんて、実在するわけないじゃないですか」
酷く困惑した顔で、小太りな展覧会の主催者は三人を見た。
「じゃあ、展覧会に来た誰かがやったかのかもしれませんね。特定出来ませんか?」
ルナは言った。
「出来るわけありません。一日何百人も来場されているんですよ!」
「出来るよね?」
大蟻喰は異様に目をぎらつかせて前へ身を乗り出した。それを見た主催者はたちまち身震いを始めた。
「まあまあ」
ルナはその肩を軽く叩いた。
大蟻喰は口を拭った。よだれを垂らしていたのだ。
「じゃあその蝶だけくださいませんか? いたずらなんだったら、必要ないでしょう。お金ならいくらでも」
「いっ、いえ、うちのものじゃないんでタダで結構です」
主催者は冷や汗を掻き顔をハンカチで拭きながら蝶に刺さった針を抜き、掌の上へ慎重に乗っけて戻ってきた。
「こちらです」
ルナはそれを不器用な手付きで取った。思わず落としそうになったところをズデンカが押さえた。
「ちゃんと持っとけよ」
ズデンカに置き直して貰って、ルナはそれを掌の上でしげしげと眺める。
糸や紙や粘土や針金が丁寧に撚《よ》り合わされており、本物と見紛わんばかりだった。
「精巧に作られてるなあ。でも、偽物なんだよね。たぶん」
指先でつんつんしていた。そのルナの様子を見てなぜかズデンカは心が落ち着いた。
「つまんないの」
大蟻喰は退屈そうだった。
「じゃあ、少し場所を移して」
展覧会場の奥にある喫煙室へ三人は歩いていった。
たくさんの紳士が煙草を吹かせていたが、ルナたちはずかずか踏み込んだ。
「女かよ」
「あれ、ルナ・ペルッツだよな」
「そう言えば……」
ささやき交わす声。馬鹿にするような笑いが聞こえた。
たまらずズデンカは一睨みした。
室内は水を打ったように静かになる。
ルナは気にせずパイプに火を点けた。蝶の標本へ煙を掛ける。
とたんにその蝶は生あるもののように羽ばたきを始めた。
「幻解《エントトイシュング》出来るってことは作者はまだ生きてるらしい。それもきっと遠くじゃない」
八本脚の蝶は飛んだ。最初はゆらゆらとしていたが、やがて真っ直ぐにおのれの目的の場所を目指して部屋の外へ向かっていく。
周りの連中は突如として生を得た蝶にふたたびざわめきだした。
「何をやったんだ?」
「魔法だ!」
ルナたちはそれを無視して後を追った。
「作者が見つかったら、そいつをボクが食べちゃえば手っ取り早いよ」
大蟻喰は面倒臭そうだった。
「いや、わたしは蝶にまつわる綺譚《おはなし》こそが聞きたいのだからね」
ルナは諭すように言った。
蝶は展覧会場を出るとのびのびと空高く飛翔した。
冬の冷たい空気と降りかかる雪は昆虫には堪えるはずだが、実在しない蝶は悠々と飛んだ。
「あれ以上昇られると追えないぜ」
ズデンカもいい加減にしてくれという気持ちになっていた。
「何とか探せるだろ。さ、いくよ」
展覧会場は瀟洒な住宅が建ち並ぶ地区にあったのだが、蝶はそこの家々には目もくれずに通り過ぎる。
隣接する貧民街の方へと向かうのだった。
臭いすら移り変わり、大蟻喰は露骨に嫌な顔になった。
「あまり行きたくないとこだ」
十年前、トゥールーズを占拠していたスワスティカ軍は矢も盾もたまらず自国領に後退した。そのため、戦火を受けることなく昔の町並みがそのまま残されているのだ。
そのうちの質素だが小綺麗に整えられた家の窓の中へ鬼百合のような蝶は入っていった。
ルナは扉のベルを鳴らした。
返事がない。
ルナは続けて鳴らした。
ややあって扉の奥でパタパタとした跫音《あしおと》が聞こえて来たかと思うと、小柄な五十代ばかりの髪に白いものが混じった女性が姿を現した。
「どなたさまですか?」
「あなたが展覧会でピンで留めた八本脚の蝶について教えて頂きたいのです」
ルナは一揖した。
女性はルナを冷たい眼で見た。
「ご存じない方には話したくないです」
扉を閉めようとした。大蟻喰はその間に指を差し入れ、首だけを中に突っ込んだ。
「ちょっと待ってよ。ルナが話したいって言ってるのに」
女性は怯えたように大蟻喰を見た。
「わたしはルナ・ペルッツと申します」
女性は流石に気付いたようだった。
「ああ、かの有名な。私はマルセルです」
「わたしに綺譚《おはなし》を語ってくださったら、願いを一つかなえて差し上げても良いですよ」
ルナはお決まりの文句を言った。
マルセルはまだ迷惑そうな表情を変えなかった。
「私に話せることなんてありません。この家で生まれて、この街で育って、結婚もせずに、清掃の仕事をして過ごしています。それだけですよ。願いなんて……」
「でも、あなたは蝶の展覧会に入って、自分の作った蝶を刺していったでしょう? あれだけのものを作れる人はそうそういないですよ」
マルセルは困惑してルナを見やった。
「キミのやっていることは軽犯罪にあたるだろう。警察に言えばしょっ引かれるかもね」
大蟻喰はいけしゃあしゃあと述べた。
流石のマルセルも不安になったのか、
「申し訳ありません。もう二度とやりませんのでお許しください」
「まあまあ、わたしはそんなことしませんよ。この人が勝手に脅しているだけで。とりあえず中でお話ししましょう」
ルナは開かれた扉から入った。
外観と同じように室内もちゃんと整えられていた。ほとんどの家具を売ったのかがらんとはしていたものの。
女性はお茶を沸かそうと立ちあがり掛けたが、
「いい」
とズデンカが断った。
テーブルを囲んで四人は坐った。
「では、改めて伺いたいのですが、あなたは何を目的にあの蝶を展覧会に置いたんですか?」
「見て貰えるかと思いましたから。初恋の人に」
マルセルは静かに言った。
「初恋の人?」
ぴくんとルナは背筋を正して、手帳を懐から取り出し、鴉の羽ペンで書き始めた。
「この町に戻っているか、生きているかすら分からないんですけどね。あそこに蝶を置いたら、私だと分かるだろうって」
「へえ、八本脚の蝶があなたとその初恋の人の思い出なんですね」
「はい、もう四十年以上昔のことですけどね。本当にどこにでもあるような、ありふれた話ですよ」
マルセルは前置きして話し始めた。
その人は蝶が好きでした。
名前はアルフレッド。私より一つ年上でこの家の隣に住んでいたから、幼なじみとして育ちました。
二人は許嫁同然でした。私の父は骨董商でしたので、アルフレッドに継いで貰いたかったんです。家族ぐるみの付き合いがありました。
この家も一昔前は海外から集めた珍しい品物でいっぱいだったんですよ。この地域も今では貧民街の一部になっていますが、戦争前はそうじゃなかったんです。
「女には骨董の価値が分からんからな」
父はいつもそればかり繰り返していました。趣味で針金細工を作っていたのですが、そのやり方も教えてくれませんでした。
でも、盗み見ながらこっそり真似ましたけどね。
今曲がりなりにも蝶を作れているのはこの時作り方をちゃんと覚えていたからです。
アルフレッドとはいつも一緒でした。物心付いた頃から二人で一緒に蝶を獲りに駆け回っていました。
近くの林の中で日がとっぷり暮れるまで、探し回ったものです。
私たちの国の季候では大きな虫はなかなか育ちません。
だから大きい蝶を見付けると子供心に嬉しい気分になるのでした。
「マルセルはほんとに蝶捕りが上手いな」
アルフレッドはいつも言っていました。
小さい時は私の方が身体も大きくて、走りも速かったんです。だから網を持って先に走って、勢いよく振り下ろして捕まえていました。
今の私を見たら意外に思われるかも知れませんけどね。
あの頃は本当に毎日が楽しかった。
「アルフレッドもじきに上手くなるよ」
私は自然と励ましていました。
「うん、そうだね」
でも、アルフレッドは悔しそうでした。私は彼が親から男の子だから、私をリードしてあげないといけない、とお説教をされてるところ聞いたことがあります。
「いつか絶対捕ってやるぜ!」
アルフレッドは断言しました。
いつしか彼は身体を鍛え始め、運動もするようになりました。私と離れて男の子たちと連み仲良くするようになりました。
「遊ぼうよ」
と誘っても、
「忙しいから」
と断られてしまうようになりました。
私はもっとアルフレッドと遊びたかった。二人きりで。でも、彼は蝶を捕るためにいろいろ始めたのに、いつしか蝶のことはどうでもよくなっていきました。
「そんな女の子みたいな趣味」
って馬鹿にされていたみたいです。
「お前と遊んでいると、色々言われるんだよ」
アルフレッドは私に面と向かって告げました。
「だから会うのは二人だけの時な」
私はアルフレッドがとても好きでした。だから、会う時が限られてしまうのはとても寂しかった。
時間が無限にあるように思えた子供時代だったのに。
学校に進む頃になると二人はもうほとんど話さなくなっていました。
もうアルフレッドはすっかり身体も大きくなって、私よりも高くなっていました。
エロイーズという彼女も出来たようで、その娘と一緒にいることが増えました。
豊かな栗色の髪の毛を持つ、びっくりするほど綺麗な人でした。
嫉妬はしませんでしたよ。もうべつの世界の人間になってしまったようで。
私は一人で蝶を追いかけることが増えました。
もう十四歳ぐらいにはなっていたでしょうか。
「なんだ、まだやってるのかよ」
夏に近づく春のことでした。蝶たちは今を盛りと飛び回っています。家から出て一人で野山を駆けまわっていたわたしは、後ろから声を掛けられてビックリしました。
アルフレッドでした。
「どうしてきたの?」
私が皮肉っぽく言ってみました。
「久しぶりに来てみたんだよ。お前いるかって思って」
その手には網も握られていませんでした。
「もう、私とは話したくないんだよね」
「そんなことねえよ。お前の方から話さなくなったんじゃねえか」
声には怒りが籠もっていました。
「私のこと、避けてたでしょ」
「避けてねえよ」
「じゃあ、なんで?」
「今から遊べばいいだろ。さ」
アルフレッドは私から網をひったくって走り始めました。追いかけはしましたが、とても速くなっていて私はついていけませんでした。
「それっ、それっ」
アルフレッドはデタラメに網を振り回しまくりました。それでも一匹捕らえてしまうのだから、力の違いを感じてしまいます。
「どうだ? 俺もちゃんと出来るようになっただろ」
覚えていてくれたのは嬉しかったけど、なぜか寂しい思いもしました。過去の思い出のような言い方で語らないでって言いたかったんです。
網に手を突っ込んで凄く乱暴な手付きでパタパタする蝶の翅をつかみ、鱗粉がつくのも構わず私の前へ差し出しました。
「それにしても蝶の脚って六本なんだな。八本あるって思ってたわ」
ショックでした。昆虫は六本脚で、八本脚の蝶は存在しない。幼いころから熱心に追いかけ回していた彼がそんな当たり前の知識を知らなかったなんて。
知っていたとして、忘れてしまったのでしょうか。
アルフレッドの中ではそうだったのでしょう。
私はアルフレッドから受け取った蝶を手放して、空へ放ちました。
蝶は最初はよろめきながらも、ゆっくり羽ばたきながら向きを立て直して飛んでいきました。
「あっ、何すんだよ!」
アルフレッドは怒って叫びました。
「いい。私が見たいのはこんな蝶じゃない。八本脚の蝶は、いる」
デタラメでした。彼が許せなくなって怒りのあまり口から出任せを言ったんです。
「へえ、実在するのかー」
素直にアルフレッドは感心しているようでした。そのきょとんとした顔が憎らしくなったのです。
「するよ。この世のどこかにはいる。捕ってこれる?」
「へえ、なら捕ってきてやってもいいよ。好都合だ。俺もこの街を出て広い世界を見て歩こうと思ってな。八本脚の蝶がいるってんなら、どこかで見つかるだろうさ」
私はしばらく言葉も返せませんでした。
「船乗りになるんだよ。こんなちっぽけな街でずっと暮らしていたら腐っちまう。親戚のおじさんに伝手があってな。甲板掃除として雇ってくれるってよ」
骨董屋のことはどうなるの? と言葉が喉元までせり上げてきたけれど止めました。
私自身、その時まで店をアルフレッドが継ぐなんて具体的に考えていた訳ではなかったからです。ぼんやりと、親が言っていることを信じていただけでしたから。
「俺は男だからな。冒険に生きて冒険に死にたいんだ」
そう言ってアルフレッドは両手を広げて空を仰ぎました。
その姿は勇ましくはありましたが、そんなことしないでいいのにって正直思いました。
この街でずっと暮らしてくれたら良いのにって。
アルフレッドはそれから二週間もしないうちに街から出て行きました。
父はとても怒りました。何も聞かされていなかったからです。事前に告げ口していたら、何か変わったでしょうか?
「店はどうする? あいつがいないとやっていくことができんではないか」
父は常日頃家に来たアルフレッドに骨董品に関する知識を授けていたのです。
落胆した父はしだいに病気がちになり、アルフレッドが出て行って二年後には亡くなりました。
音信は一切途絶えてしまったのです。手紙が来たのは最初の年だけでした。
残された骨董品の中にはかなり高価な物もあったのでしょうが、知識のない私と母では買いたたかれてしまい、二十年後母が亡くなるときには私が今の清掃の仕事で働いて家計を支えないといけないほどになっていました。
その間まあ色々ありましたよ。私は結局結婚しませんでした。アルフレッド以上にいい人がいなかったので。父の後ろ盾もなくなったから見合いの話も来ませんでしたし。
良かったこともありました。エロイーズと友達になったんです。親友と呼んでもいいほどでした。
最初はあまり好きではありませんでした。でも、社交家なエロイーズは向こうから話し掛けてきて、自然と付き合うようになったんです。
当然、話題はお互い知っているアルフレッドのことになりました。
「一本気な人だったよね」
エロイーズはいつも言っていました。彼女は二十になる前に親の勧めるまま結婚して旅籠屋の奥さんになり、たくさん子供を産んでいました。
「え? そうかな」
私はあまり納得がいきませんでした。幼い頃の彼を知っているからでしょうか。
「何をやらせてもうまく出来てね。勉強も、運動も。だから好きになってわけじゃないけどさ」
「何で好きになったの?」
「優しかったから」
漠然とした答えですよね。
「うっそ」
思わず否定してしまいました。
「あなたには優しくなかったの?」
「ぜんぜん。ずっと放っておかれたよ」
「それ、ひどくない?」
エロイーズは同調してくれましたが、半笑いで私の話を信じてはいないようでした。
「ま、私の方が付き合いは長いから」
自然と張り合うような言い方になってしまいました。別にそんなつもりなかったのに。
「でも、出て行く前の日まで一緒にいたのは私だからね!」
エロイーズは自慢するようでした。
「アルフレッド、何か言ってた?」
どうしても知りたくなりました。
「変なこと言ってたな。この世の中には八本脚の蝶がいる。俺はそれを探しに行くんだって」
私は自分のデタラメをアルフレッドが心から信じてしまったことに罪悪感を覚えました。だから、思わずエロイーズにそのことを全部話してしまった。
「なら、作ればいいじゃん」
「ええ?」
「実在しないなら、作ればいい。そうすればアルフレッドも気付いて帰ってくるかも知れないよ」
「でも、音信不通なんだよ?」
もうその時には私たちも二十の後半だったので、アルフレッドのことも昔の思い出になりつつありました。
でも。
「ドールヴィイでは大きな蝶の展覧会が公会堂で毎年開かれて色んな人が来るからね。そこに八本脚の蝶を置けば話題になってアルフレッドも気付くかも知れない」
わずかな望みの綱があるなら、試してみるのもいいかと思いました。
最初はほんと下手くそなものでしたよ。でも二人で一緒になって蝶を作るのは楽しかった。展示されている実物とほとんど変わらないかたちになるまで何年もかかりました。
エロイーズは色々奥さん仲間の伝手を頼って、良い素材を仕入れてくれて。子供を寝かしつけるとエロイーズはわたしの家に来て、一緒に蝶を作りました。
毎年開かれる展覧会の初日に私が行って、展示されている中にこっそり八本脚の蝶を刺しておくことにしていたのです。
仕事が清掃員だってお伝えしましたよね。当然公会堂にも出入りして、展覧会場のトイレや床を掃除することもやっていたので入るのは簡単でした。
ところが不思議なことに誰も気付かないのです。展覧会に来る殿方は実は蝶に興味がないのかも知れません。刺したのが端っこの方だったからかも知れませんが。
今日あなたたちがやってこられるまで誰も蝶が不自然だなと気付いた人はいなかったのです。
展覧会が終わる日になって蝶を回収するのはエロイーズの役目になっていました。
「うしし、本当に誰も気付いてなかったよ」
エロイーズは八本脚の蝶を手に持って、笑いながら帰ってくるのがいつものことでした。
私がやるよって言ってもエロイーズは、
「いやだよ、私だって作ったんだし」
と言い張ってましたっけ。
もう、私たちにとって慣例行事みたいな感じになっていたんですね。
そうこうするうちにお隣の国に成立したスワスティカが台頭してきて、ドールヴィイも占領下に置かれるようになりました。
自国拡大戦争の最中に、蝶の展覧会などけしからんということで、開かれないことになりました。
「残念だなあ」
エロイーズは悔しそうでした。もうその頃には私たちもだいぶ皺が寄ってきておばちゃんになってましたけどね。
別に悲しくはありませんでした。変な誘われ方をすることもなくなりましたし。
もちろんその間も蝶はたくさん作りましたよ。家の物置にも眠ったままです。
二人で作っている時間はとても楽しかったなあ。
もう、ぜんぜんアルフレッドの話はしないんです。私は毎度の仕事場である公共のトイレがどれだけ汚く汚れているか、エロイーズは下の子供たちがどんなに手に負えないか、上の子の結婚相手を見付けるのが大変かとか、そんなことばかりで。
でも、たわいない話が一番楽しかったな。
戦争は長引きました。十年前ですね。スワスティカが軍を引いて街が開放されたときにはエロイーズはもう病気になっていました。
ガンでした。四十の後半は若いけれど、クラスメイトもけっこう命を落としていて、昔を話せる相手はほとんどいなくなっていました。私と交流している中で話せるのは彼女が最後でした。
仲が良いことを知っていたのか、旅籠屋の仕事を継いだエロイーズの長男が私を家に入れてくれ、ベッド際まで連れていってくれました。
話を聞いて想像していた通り、いい方でした。
二人きりにして置いてくださったし。
でも。
意識がもうろうとしたエロイーズは私の手を握ってこう囁いたのです。
「私の人生って何だったのかな。意味があったのかな」
って。
言いようのない思いが胸の中に溢れてきました。私と比べたらどう考えても、エロイーズは人生が上手くいっていたように見えたからです。
どうして、って訊き返すのすら怖かった。
もちろん、それがアルフレッドに関わる後悔ではないことは分かりました。
エロイーズは自分の人生を後悔しているのでした。
旅籠屋の奥さんとして生きて、街の外へ一度も出ずに。
やせ衰えたエロイーズの手を私はしっかり握りました。
命が消えていくってこういうことなんだ。もちろん、私は父も母も見送りましたが、初めて実感したんです。
蝶が舞い立つように儚く。
お葬式にはちょっと出ただけですぐ教会を立ち去りました。死に顔を長くは見ていられませんでしたから。
短い間、私は首都のエルキュールへ旅をしました。ドールヴィイの外を見てみたくなったので。
そこでちょっと恋もしましたけど、すぐに戻ってきました。他のところではとても生きていけないと思ったんです。
ちょうどそれが展覧会が開かれる頃でした。私は独りで蝶を作り、針で留めては回収を続けました。
もう、エロイーズはいませんので。
お話はこれだけです。あなたがたはよくぞ見付けてくださったという感じです。
もうこれで、ささやかなお遊びは終わりにしますね。
「うん、いいお話だ」
ルナは手帳を閉じた。
「お作りになった蝶を見せてくださいませんか?」
マルセルは何も言わず幾つもの標本箱を持ってきた。
そこに張られたガラスの奥には本物と見紛うばかりのさまざまな蝶たちが針で留められていた。
そのいずれもが八本の脚を持っていた。
「ほんとにたくさんありますよね。ここまで作ったもんだって我ながら思いますよ」
マルセルは眼を細めた。
「何か願いはありますか?」
ルナは聞いた。
「もう一度だけアルフレッドに会わせてください」
マルセルは答えた。
「よろしい。ちょっと君、顔を貸して」
とルナは眠そうにしていた大蟻喰の肩を叩いて家の外へと連れていった。
「マイペースなご主人様ですね」
マルセルは微笑んでズデンカに言った。
「あたしもほんと苦労させられてるよ」
ズデンカは額を押さえた。ルナと大蟻喰を二人だけにさせておくのが不安で仕方なかったのだ。
扉がまた開かれた時、マルセルは目を瞠った。
よれよれになった服を着て、顔を覆う真っ白な髭が生えた背の高い男がルナの後ろに続いていたからだ。
「どなた……」
とまで言いかけてマルセルははっとした。
「アルフレッド!」
二、三歩ばかり近づく。
ルナはパイプを吸い、煙を吐き出していた。
「ああ、俺だ」
アルフレッドは寂しそうに笑った。
「今まで何をしていたの?」
「色んな港へしょっちゅう行ったよ。今は身体にガタが来ちまってな。だが、もうこの街には戻れねえ」
アルフレッドはマルセルに近づくことなく答えた。
「戻れないって! 私はあなたにずっと会いたかったのに!」
不安そうに両手を揉み、アルフレッドに詰め寄るマルセル。
アルフレッドは身を引いて言った。
「本当にお前が会いたい人は俺じゃないだろう?」
「どういうこと?」
とたんに食卓に置いていた標本箱がカタカタと震え始めた。
勢いよく地面に落ち、ガラスが割れる。
中の蝶たちが一斉に羽ばたき始め、続々と外へ飛び出してきた。
ビックリしたマルセルは身を引き離した。
アカタテハを先頭にして、無数の蝶たちが群れをなしてグルグルとマルセルの周りを飛び回った。遠くから眺めると円錐形に見えるぐらいに。
移り変わる蝶の紋様にめまいを感じながらマルセルは床にうずくまった。
「これは、いったい……」
「マルセル」
優しい声が聞こえて来た。
訊き返す必要もなかった。
「エロイーズ」
蝶の渦の中で二人は抱き合っていた。
「ずっと言いたかったんだ。あなたの人生は意味なくなんかない。私と一緒にいてくれてありがとうって」
マルセルはエロイーズの耳元で囁いた。
「一緒に過ごせて楽しかった。本当にありがとう」
エロイーズも繰り返していた。
マルセルが椅子の上で目覚めた時、周りにはもう誰もいなかった。ルナもズデンカも大蟻喰もアルフレッドも、
――エロイーズも。
まるで白昼夢を見ていたかのようにマルセルは立ち上がって、自分ひとりのためにお茶を入れに台所へ向かった。
「アルフレッドさんを食べたのはいつ頃のこと?」
ルナは聞いた。三人は誰もいない冬枯れの並木道を歩いていた。
もう、空は紅く染まっている。鰯雲が背中を並べていた。
「二年前だね。エルキュールの路地裏に行き倒れになってて、余命幾許もない感じだった。ただの酔いどれだったよ。死なせてくれ、死なせてくれって繰り返していたから流石のボクも叶えてやるしかなくって」
「君にしたら優しいね」
ズデンカの心にまた甘美な痛みが走った。ルナが自分にそれと同じこと言ったことを覚えていたからだ。
「ボクは優しいんだよ。そもそも人間が生きていくことがこの星に害しかもたらさないのだから食べてあげることにしてるほどなのに」
と言って大蟻喰は胸を張った。
「マルセルさんもエルキュールに行っていたんだから、もしかしたら生前会えてたかもね」
「会わなかった方がいいんじゃないか」
ズデンカは心配そうに言った。
「そうだね」
ルナは口を噤んだ。
「残念ながら、アルフレッドは蝶のことなんて覚えてなかったようだよ。昔過ぎるしね。マルセルさんの記憶すらおぼろだ。まあ、良い気分転換にはなったよ。明日からはまた心置きなく人を食べることが出来そうだ」
大蟻喰は言った。
「わたしたちは付き合うつもりはないけどね」
ルナは断った。
「そうなの。残念だなぁ」
そう言って大蟻喰は背中を丸め、速度を早めて先に走っていった。
小さくなっていく大蟻喰の後ろ姿を眺めながらズデンカは溜息を吐いた。
「宿に帰ろう」
「いや馬車を出すよ。次は花の都エルキュールだ」
ルナは言った。
「ったく。わかったよ」
ズデンカはまた溜息を吐いた。
「しけた幻想に報いあれ。って言う機会なかった」
ルナはしょんぼりしていた。
「言わなくていいんだよ」
トゥールーズ人民共和国ドールヴィイ郊外――
「ふんふんー♪」
後ろでルナが鼻歌を唄っていた。
「今日は機嫌良さそうだな」
馭者台に坐ったズデンカは言った。
昼と打って変わって風はなく、初冬にしては暖かな晩だった。
馬車に据え付けられたカンテラの灯りが視界をすっかり明るくしている。
「あんな二人の姿が見れたら、そりゃね」
「なんでマルセルは自分が本当に会いたいのがエロイーズだと気付けなかったんだろうな」
「本心なんて、誰もすぐには気付けないさ」
「お前もか」
ズデンカは不安そうに聞いた。
「ああ、そうだよ」
「お前はあたしが好きか?」
「好きだよ」
「本心は分からないよな」
「そりゃ分からないさ。君にわたしの心が読めたら別だけど」
「そんな能力はない」
「大蟻喰なら分かるだろうね。わたしの脳を食べれば」
ルナはヘラヘラしていた。
「また、ろくでもねえことを!」
ズデンカは怒った。
「そもそも、相手のことを何もかもぜんぶ知りたいなんて考えちゃいけないんだよ。必ず知れない部分はあるけれど、知りたがりもしない、ぐらいの方が上手くやっていけるんだ」
「あたしはルナのことをぜんぶ知りたいわけじゃない」
見え透いた嘘だった。
「君に言ってるんじゃなく一般論としての話さ。構わないでいてあげる優しさってのはこの世の中に存在する」
「構わないでいることか」
ズデンカは一瞬頭を垂れた。でこぼこ道ではないので、ちょっとぐらいは目を離すことも出来るのだ。
「うん」
「あたしはお前に構ってばかりいるな」
「そうかな」
「これからは控え目にしてもいいんだぞ」
「やーだーよー!」
後ろを見るとルナは子供っぽくバタバタ脚を動かしていた。
ズデンカは吹き出した。
「みっともない真似はやめろ」
「構ってくれるならやめるよ」
そう言いながらルナは落ち着いていた。
「構って欲しいのか、構って欲しくないのか、どっちかにしろよ」
「さあ、どうだかね」
ルナはパイプを取り出す。
「ほんとに煙草が好きだな」
ズデンカは咎めた。
「君も吸ってみたらいい。いつの間にかはまっているもんだ」
ルナは気持ち良さそうな顔で煙を吐き出しながら言った。
「いらん。吸っている輩でろくなやつを見たことがねえ」
ズデンカは刺々しく言った。
「この美味しさが分からないなんて、君は人生を半分損してるよ」
「あいにく人ではないんでね」
「ふふっ。前と同じこと言ってる」
ルナは笑った。
「お前と何回会話した? 同じ内容が繰り返されることもあるだろうがよ」
「確かに君は人ではないけど、昔は人だったはずだ」
「ああ、そうだな。ろくな思い出はないが」
「教えてよ」
「お前が教えたら話す」
「やーだね」
「じゃあ、あたしも嫌だ」
「ほら、これも構わない優しさだ。お互い秘密主義ってことでいいじゃないか」
ズデンカは答えられなかった。
「わたしは君と今旅が出来ているだけでいい。過去のことなんて話すもんじゃないよ」
「お前自身はマルセルに昔話をせびっていたじゃねえかよ」
ズデンカは突っ込んだ。
「わたしとマルセルさんは別人だから。彼女は昔のことを語りたかったけど、わたしはそうじゃない。スタンスが違うんだ。共通点は女であると言うことだけだ」
「女、というだけで同じ括りで見られるだろう、世間にはな」
「だよね。考えてみれば馬鹿らしい。逆の性別ならそういうことってあるだろうか」
「あるのかもしれん。あたしは知らん」
「ふふ。わたしも知らない」
ルナはまた煙を吐いた。
馬車はゆっくりと進んでいった。
