月(ルナ)は笑う――幻想怪奇蒐集譚 第八話 悪意
トゥールーズ人民共和国中部首都エルキュール――
ある朝、綺譚蒐集者《アンソロジスト》ルナ・ペルッツは気がかりな夢から目覚めて、窓の外の空が薄く曇っていることに気付いた。
雨のようで降っていないという微妙な天候だ。
「寝過ごしちゃった」
そう思って時計を確認すると十時半だった。
――おかしい。
いつもなら八時になる前にメイド兼従者兼馭者の吸血鬼《ヴルダラク》ズデンカに叩き起こされるはずだ。
それが、こんな時間まで寝過ごしてしまうとは、かつてないことだった。
ホテルの部屋はがらんとして誰もいない。隣のベッドにもズデンカの姿はなかった。もとより、ズデンカは寝ないはずだが。
――どうしたんだろう。
気になりはしたが、生来暢気なルナはお茶を飲みに下の階へ降りていった。
喫茶室で、遅めの朝食を食べ、紅茶をすすった。
他の客は不思議と誰もいなかった。朝八時は必ず混んでいるのに。今は昼に近いからだろうか。
――独りも良いもんだ。
ルナは考えた。長い時間ずっとズデンカと一緒だったことに気付いたからだ。
ホテルの支配人がゆっくり自分へ近づいてくるのが分かった。
「お客さま、お話があるのですが」
「何でしょう?」
ルナは不思議に思って訊いた。支配人とは泊まった初日以来、話したことがなかったからだ。
「こちらで大丈夫でしょうか?」
支配人は耳打ちした。
「良いですよ」
ルナは朗らかに笑った。
「実は宿泊のお代金についてですが、ここ一週間ほど滞納されていまして……」
ルナは驚いた。ズデンカが払ってくれているものと思っていたからだ。
ルナは大金持ちだし、そういう日常の些事はズデンカと出会う前から召使いに一任していた。
「おかしいですね……お金を出しに行ってきます」
ルナは立ち上がった。銀行で口座を確認しなければならない。とても面倒臭い作業だった。
「いってらっしゃいませ」
送り出す支配人は微笑んでいた。だが、ルナはその唇の端にどこかこちらを馬鹿にするような影が差していることに気付いた。
ルナはそこに悪意を感じた。
ホテルを出て、銀行を地図で一生懸命探しながら歩く。
見事な方向音痴振りを発揮し、考えていたより時間が掛かってしまった。
「口座から引き出したいのですが……」
係員に告げるルナ。
「ご本人であることを証明する書類などお持ちではありませんか?」
「あ……」
忘れていたことにルナは気付いた。
「取りに帰ります」
とぼとぼと歩き出す。
ホテルの部屋に戻るとき、他の客がこちらを見て嘲笑っているように思えた。その顔には支配人と同じような悪意が浮かんでいたのだ。
――気のせいだ。
昼近くになってやっとまた銀行に戻った。
「うーん。ルナ・ペルッツさまの口座の残高はゼロですね」
銀行員が首を捻る。
「そんな! 確かめてください!」
ルナは珍しく背筋が寒くなるものを覚えた。お金など、ありあまるほど持っていたはずなのに。
「ありません。本当にゼロです」
銀行員はきっぱりと言った。その口の端に笑みが浮かんでいた。
悪意を含んだ。
もう、ホテルには戻れない。こんなことで法を踏み破りたくなかったが、払えない以上仕方がない。
ルナは財布を弄った。小銭がちょっとばかり、紙幣が五枚ほど。いつも食べているようなランチを頼めばあっという間に消えてしまう程度しかない。
ハンカチで額を拭った。冷や汗を掻いている。
――なんで、こんなことに。
ズデンカが姿を消したことと、何か関係があるのだろうか。
ルナは意外と自分に社会経験がないことに思い至った。
十代でベストセラーを世に送り出し、大金を手にして、以来毎日のように巨万の富が入ってきていたのだ。
まさか、一瞬にしてそれが失われるなんて思ってみもしなかった。
――とりあえず、馬車を確認してみなきゃ。いざとなったら馬を売ってでも……。
厩に行ってみると、ルナの馬も車体も残らず消えていることを知った。
「誰か、馬を勝手に出した人がいるんじゃないですか?」
ルナは疑い深く訊いた。
厩の管理人は首を振った。
「いえいえ、そもそもルナ・ペルッツさま名義の馬はここにはありませんよ」
やはり、管理人もあの悪意を含んだ笑いをしていた。
――信じられない。嘘を吐いてるんじゃないだろうか。
ルナは道行く人を見た。皆、自分を見て笑っているような気がした。
曇天は濁りをまし、心の中もすっかり重苦しくした。
超自然的な事件に巻き込まれることなんて生まれてから何千回とあったし、慣れているつもりだった。
でも、ここまでたくさんの人に悪意を向けられるのはどうしてだろう。
確かに、自分があまり好かれることはやってきていないという自覚はあった。
でも、旅先では歓迎してくれる人たちだっていたし、世の中自分を嫌う人ばかりじゃないと思っていた。
――それが、悪意ばかり。
心細くなって、ルナはあちらこちらぶらぶらした。
ルナは自分がいままで相当たくさんの無駄遣いをして暮らしてきたことを知った。
何かやりたいなあと頭の中に浮かぶたび、お金がどれだけ必要なのか計算してしまう。つい先日まで、そんなこと貧乏くさいと思っていたのに。
考えているうちにお腹がグーと鳴った。
結局、行きつけの店でいつものランチを頼んでしまっている自分に気付いた。
実に美味しかったものの、紙幣が二枚も飛んでいってしまった。
――どうしよう。
浪費している自分の馬鹿馬鹿しさにまた冷や汗が出る思いがした。
――ズデンカなら、何て言うだろう。
震える手でパイプを取り出して、煙草を詰め、火を付ける。
煙草入れをみると、ほとんどなくなっていることに気付いた。
ルナはニコチン中毒だ。煙草がなくなって買えないなんて地獄のような苦しみだろう。
――これからは切り詰めなくちゃ。誰かのの力を借りるしかないかも……。
頭で考えるのはたやすい。でも、実際行動に移すとなると億劫だった。
ルナは自分から頭を下げることが苦手だ。友だち付き合いだって悪かった。
エルキュールにも知り合いこそ多いが、頼れる相手となると思い浮かばない。
ふらふらと通りを歩くルナはやがて見知った姿を目に留めた。
メイド服姿、肌が浅黒く、背が高い――ズデンカだ。
「おーい」
ルナは手を振りながら走っていった。
しかし、ズデンカはルナを冷ややかな眼で眺めるのみだ。
「お前か」
「君、どうしていなくなったんだ!」
ルナは叫んだ。
ズデンカはルナから視線をそらした。
「なんで目をそらす!」
ルナは語尾に怒りを滲ませた。
何も言わず歩き出そうとするズデンカの袖を掴んだ。
「いきなりいなくなったのはどうして?」
「愛想が尽きたから」
ズデンカはぽつりと漏らした。
「え」
ルナは言葉に詰まった。胸が締め付けられるようだった。
「いままで、一緒に旅してきたじゃないか。苦しいことも辛いことも分かち合ってきたじゃないか。いきなり、そんなのってないだろ!」
ルナはいつになく饒舌になっていることに気付いたが止められなかった。
ズデンカは無視した。
「だいたい、わたしは君の雇い主だ。責任を果たせよ! 逃げる召使いがどこにいるんだよ!」
思わず語調の強くなる自分を留めようとしたができなかった。
ズデンカはまともに応じようとしない。ルナを小突き飛ばした。
ドサッと尻餅を突くルナ。その瞬間に怒りが爆発した。
「君が金を盗んだんだ! わたしの財産だぞ。この泥坊が!」
――違う! そんなこと思ってない!
ルナは口から出た言葉を後悔した。だが、ズデンカは冷ややかにルナを見下して、
「知らねえよ」
と言った。そして、歩き出した。
「待って、待って!」
ルナは地面を這いながらズデンカに縋り付いた。
「待ってよ! どうか、行かないで!」
その顔が靴で軽く蹴られた。
ズデンカは笑っていた。唇の端には悪意が滲んでいた。
呆然としてルナは取り残された。
しばらくの間、立ち上がることも出来なかった。周りの人が自分を見て笑っていることに気付いた。
――ステッキ、持ってくりゃよかった。
空が茜色に染まり始めて、やっとルナは歩き出すことができるようになった。
――誰かと話さなきゃ。
真っ先に浮かんできたのはオルランド共和国陸軍軍医総監アデーレ・シュニッツラーだった。
滞在場所を記した名刺を貰っていたのだ。あまり遠い場所ではない。
しかし、宿所の門は鉄柵でぴしゃりと閉ざされていた。
「あの、わたし、ルナ・ペルッツと申しまして、閣下の知り合いです。ぜひ、面謁を願えましたらと思いまして」
ベルを鳴らし、出て来た門番に丁寧な口調で、来意を告げる。
「はあ、では聞いて参りましょう」
門番は建物の中に引っ込んだ。
でもなかなか出て来ない。ルナはだんだん苛立ってきて、足で地面を叩き始めた。
門番は出て来た。馬鹿にするようにルナを見た。
「閣下は貴様などご存じないと仰っている。不審なやつだな。警察を呼ぶぞ?」
声こそ怒っていたものの、門番はルナを嘲っていた。その顔にもやはり悪意が浮かんでいたのだから。
「そんな……」
ルナはドタバタと走って逃げた。無様に思えたが、仕方なかった。
高級住宅街の誰も通らない夜道の中、ルナは壁を背にして一人踞った。
手袋をはめ、重ね着してマフラーも巻いて出てきたが、それでも手がかじかむほど冷たい。ルナは懐に入れて暖めた。
いろいろな思いが胸のうちに溢れてきていた。
――今朝まで、ふかふかの布団で眠れていたのにな。
過去には野宿をしたこともあった。でも、それは馬車の座席で眠るだけだった。
記憶はもっと昔にさかのぼる。
――あの時だって、寝台はあったのに。
暗い闇の中で、他の仲間たちと狭い三段重ねの寝台を分け合っていたことを思い出した。
狭くて、暗かった。今日みたいに冷たい風が、立て付けの悪い扉から吹き込んでくる。
ルナが寝ている寝台の下で自分と同じ年頃の女の子がゆっくり息を吐くのが聞こえてくる。
月の光で見えた。栄養失調で、肋骨がくっきり浮き出て、手足は枝のように痩せきっていた。
ルナは母親からパンを分けて貰っていた。懐の中にある。
――ちぎって、分けてあげればよかったのに。
ルナはそれをしなかった。
一人締めにした。
もし、あげたら自分が死んでしまうと思ったからだ。
次の朝、少女は死んでいた。
眼を開けたままで。
ルナは長く見つめることをしなかった。
死んだ人はたくさんいた。一人一人顔を目に焼き付けていたりしたら、とても身が持たない。
今なら、大人になった今なら、パンをあげられるだろうか。
ルナは首を振った。
――自分の命の方が大事だから。
助けてあげたいと思うだろうか。
無理だ。昨日までだったら知らない。でも今日、自分にはお金がない。
また、お腹が鳴った。
結局、夕食を抜かしてしまうことになった。
ランチを食べたのがずいぶん前のことのように思える。ルナは懐の中で手を何度も擦り合わせた。
――暖かい。
自分の体温の暖かさだ。また、寝台の記憶を思い出した。
布一枚ではとても真冬の寒さがしのげない。母親の寝台へ行って暖め合った。他の人が一緒にやってくることもあった。
怖い人が見張りに来そうな時は、誰かが知らせてくれる。
――今は、独りだ。
誰かと寄り添いたい。そればかり考えてしまう。
やっと空が白々と明けると、ルナは立ち上がった。
――アデーレにじかに会ってみないと。
パン屋で幾つかパンを買ってくると、立ちながらむさぼり食った。他人から見られると指を差して笑われると思ったが、空腹を何とかするのが先だった。
ルナは宿所の前に戻った。さっきの門番はもう離れている。
何時間か粘った。
馬車が開かれた鉄柵から走り出していく。その窓の中にアデーレの姿を認めたルナは必死に走り出した。
馬車と並んで、中を見上げる。
「待って!」
アデーレは不審そうな顔で外を見た。
「ほう」
「わたしだよ! ルナ・ペルッツだ!」
ルナは泡を食いながら自分の名前を叫んだ。普段なら、するはずもないことだった。
「だからどうした」
馬車に縋り付くルナを見下しながら、アデーレは言った。
「今、お金に困ってるんだ! 助けて!」
ルナは恥も外聞も捨てて叫んだ。
「はぁ……」
アデーレは眼鏡の柄を指で持ち上げると、
「自分で何とかしろ」
と冷たく笑った。
そこには悪意が浮かんでいた。
ルナは一気に顔面から血の気が引いていくのを覚えた。
足がガクガク震えている。煙草が欲しくなった。
必死で押さえた。
――人から拒絶されることが、こんなにも辛いなんて。
もちろんルナだって、旅の間には何度も酷いことを言われたし、言ってきたつもりもある。
でも、つい先日までは親しく接してくれていたはずの相手に突然冷たくあしらわれることが、こんなにも身を切られるようだとは始めて知った。
人の愛に飢えている自分に気付いた。
――誰もまともに話してくれない。
今、前のように男がナンパしてきたら、有無を言わずに付いていくだろう。たとえ、家に誘われたとしても。
だが、ルナに声を掛けてくれようとする人はいなかった。
心なしかみすぼらしくなったルナの身なりを指差して、遠巻きに密かに嘲笑い合うだけだった。
ふらふらとルナは歩き続けた。
そら相変わらず濁り切っている。当分晴れ間は見えなそうだ。
と、向こうにまた知った顔が見えるではないか。
変わったフードを着た、小柄な人影。
――大蟻喰!
拒絶されるのを内心恐れながらルナは近づいた。
「あー」
大蟻喰はルナをぼんやりと眺め回した。
「ずいぶん惨めなかっこうしてるね」
「うん! お金がないんだ! 気付いたら一文無しになってたんだよ!」
ルナは、普段の気取りも何もかも忘れて大声で叫んだ。
助けを乞うように。
「だから?」
大蟻喰は笑った。やはり、その顔にも悪意が張り付いていた。
「助けてください! お願いします!」
ルナは膝を突いて祈った。
「ははは」
大蟻喰はまた笑った。
「それじゃあ。乞食だよ」
すたすたと歩み去っていく大蟻喰にルナは縋り付いた。
「助けてぇ! 誰かがいないとわたしはぁ!」
ルナは人目も憚らず情けない声をあげた。
「しかも、愛情乞食でもある」
大蟻喰はルナを軽く押した。
地面に倒れた。
ルナが起き上がるまでにその姿は見えなくなっていた。
「なんで……」
皆がクスクス笑いをしていた。
――もう、お金持ちの住んでいるところなんていられない!
エルキュールも市街戦でかなり焼けたとは言え、貧しい者たちが住む区画はまだ残っている。
ルナはそちらに向かって歩いた。
貧しい者たちなら自分を分かってくれると思った。
それに過去エルキュールに滞在した際、ルナと関係のあった女たちに、そのあたりの住人が何人もいた。
もっとも相手と別れる時に大喧嘩で終わることの多いルナだから、今も会ってくれる人がいるとは考えられない。
――でも、唯一、話を聞いてくれそうなやつがいた。
貧民街に辿り着いた。確かに臭いはきつい。でもルナはそれ自体は平気だった。
むしろ心が安らぐものを覚えた。
確かに、貧しい人たちはルナのことを見ない。
見てもうつろな目で素通りする。
自分たちの暮らしで大変なのだ。悪意に満ちた笑いを向けられない、それだけで心が安らいだ。
今のルナにはありがたかった。
また日が暮れるまでルナは歩き回った。
ルナは酒場に寄りたかったのだ。そこなら多分、『彼女』の手掛かりがつかめるかも知れない。
店に入るとルナはカウンターに座り、お酒を注文した。
こじんまりとした狭い店だ。
バーテンは無言でグラスを置いた。
「ひっく」
二杯飲むとすぐ酔ってくる。
でも、いつものように暴れたくなる気分ではない。
ルナは飲み過ぎないようにしようとした。でも、頭が重く、耳鳴りがしてくる。
貧しい身なりをした男たちが周りに迫ってきた。
――まずい。
油断したと思った。最近は小綺麗な酒場にしか足を運んでいなかったから感覚を忘れていた。
こう言う酒場で独りの時、一杯以上飲んではいけない。
――この服を着てると、自分が女だと言うことをたまに忘れてしまう。
「姉ちゃん! おまえ姉ちゃんだろ? 遊ぼうや」
無理矢理手が掴まれた。
怖気がした。
「いやだ」
ルナは振り払った。立ち上がろうとするとその足がよろけた。
まともに進めない。何か混ぜられていたのかも知れない。
「待ちなよ」
女の声がした。
聞き覚えある声だ。
「エスメラルダ、お前の知り合いか?」
と男が聞いた。
オリーヴ色の肌で、背が高く、華やかななりをした女はそれを無視し、前に傾いていたルナの帽子を少しあげて顔を見た。
「ルナ、久しぶり」
「エスメラルダ!」
ルナは微笑んだ。
「やっぱり会えた。絶対ここにいると思ってたんだ」
エスメラルダはルナの頭を撫でた。昔の記憶が甦ってきた。
「さ、一緒にいきましょ」
エスメラルダは手を差し出した。ルナはそれをとった。
「けっ、売女が」
後ろから男たちの罵る声が聞こえた。
エスメラルダは娼婦だった。十代からずっとだ。女しか愛さないが、しょうがなく仕事としてやっていた。
二人は酒場を出て、エスメラルダの家に向かった。
「あんたみたいな金持ちが、どうしてあたしんところにまた?」
「ちょっと、しくじっちゃってね。いろいろあったんだ」
ルナは誤魔化すように笑った。自分の窮状をはっきり話したくないと思ったからだ。
「何年ぶり? もうしばらく会ってないよね」
「三年ぐらいかな」
「今は仲良くしている娘《こ》いるの?」
「いた……んだけど」
ルナは口ごもった。
――ズデンカ。
「言いたくないなら言わないで良いよ」
エスメラルダはいつもこうして自分を配慮してくれる。
「ありがとう」
懐かしいエスメラルダの家に到着するとルナは安心した。なかなか儲けているのか家具調度などは豪華なものだった。
しかもエスメラルダが使っているものとは別の寝室まであった。そこへ案内された。
何と言ってもルナは生来暢気なのだ。ベッドにだらんと横になった。
一夜を変な体勢で過ごしたため身体中が痛い。
「あー、一日ぶりの布団だ!」
ゴロゴロと転がる。
いい匂いがして、気持ちよかった。エスメラルダが気を使っている証拠だ。
「昨日野宿したの?」
「うん。まあそんなとこ」
「服汚れてるね。代わりのやつ持ってきてあげようか?」
「ありがとう」
エスメラルダは扉を開けて外に出ていった。
ホテルには着替えがあるが、取りには戻れない。お金はどうしたのかと聞かれてしまうから。
パイプを寝床に置く。
ルナは服を脱いだ。シャツまで汚れていた。
渋々ルナはボタンを外す。
ルナは胸を白い布で隠すために巻いていた。それを取った。
――こんなことも、最近じゃあズデンカにやってもらうことが多かったな。
エスメラルダはブルーのドレスをもって戻ってきた。
エスメラルダの前で裸になるのは数年ぶりなので、ルナは微妙に恥ずかしかった。
「これ、あたしが十代の時着てたやつだけど」
久々にブラジャーを付けた。と言うかエスメラルダに手伝って貰った。短く見えるようまとめていた髪を下ろされた。
「どう?」
「胸がごわごわする」
ルナはこそばゆく笑った。
鏡に映るドレスを着た自分の姿をルナは不思議そうに眺めた。
「世にも奇妙なものを見るって顔をしてるね」
「だって、わたしが女装なんて……」
ルナはぶつぶつ言った。
「ルナは女でしょ。まあ、昔からそんな感じだよね」
「女ってことは認めてるさ。この格好が好きだから」
「あたしらみたいな格好は嫌なの?」
エスメラルダが意地悪そうに訊いてきた。
「そ……それは嫌じゃないけど」
なぜかルナは一瞬背筋が冷たくなるのを感じた。エスメラルダのことを考えるとき、胸につっかえるものがあるのだ。
それが何か、正しく言葉に出来なかった。
「まあ、それはそれとして。お腹空いたでしょ? 一緒に食べない?」
「うん」
エスメラルダは市場で買ってきた魚介類を使って熱々のパエリアを作った。
ルナはふーふー吹きながら食べた。
「おいしい! エスメラルダのパエリアはいつも絶品だよ!」
「ありがとう」
エスメラルダは料理が上手かった。
――この点に関しちゃ、ズデンカは少し劣るな。
ルナはパエリアを咀嚼しながら、そう思って悲しくなった。
ズデンカは自分からお金を奪い取って消えたのだ。そんなことをするなんて思ってもみなかった。
――わたしのことが、好きじゃなくなっちゃったのかな。
あの悪意に満ちた笑いを思い出す。
いや、ズデンカが自分のことが好きだと思っていたのが幻想だったのかも知れない。
――しけた幻想だ。
今まで使ってきた決まり文句が、突然自分の元に帰ってきた。
――他のみんなもだ。なんであんなに辛くあたるの……。
ルナは人前で泣くのが嫌いだ。だから、顔を伏せてパエリアを頬張った。
――陳腐な喩えだけど、身を切られるようだ。
エスメラルダは無言でルナの手を押さえた。
――さっき見知らぬ男に触られた時はああまで怖気がしたのに、知っている相手なら、こんなに暖かい気持ちになれるなんて。
「ごっくん」
ルナはパエリアを嚥下した。
「悲しいことがあったんだね」
「うん」
ルナの声は震えていた。
「あたしは訊かないよ。ルナは教えてくれる性分でもないしさ」
「よく……分かってるね」
「長い付き合いだしね」
「しばらく、ここにいていい? 他にもう……帰る場所がないんだ」
オルランド公国に戻って、『仮の屋』にあるものを売ればなんとかなるかもしれない。 高価なものだってある。
――でも、どうやって戻る?
「いいよ。いくらでも好きなだけうちに居ればいい」
エスメラルダはウインクした。
「今日はもう疲れてるでしょ? 食べ終わったらすぐにお休みよ」
「うん」
「あ、服は片付けといたから。洗濯してあげる」
ルナは食べ終わると素直に寝室に下がった。
ベッドの上の服やパイプまでなくなっていることにしょんぼりした。
ぼんやりと天井を眺める。明るい光を点した電球が吊り下げられ、ゆらゆら弧を描いて揺れている。
「二日の間に全てを失っちゃうなんてな……」
ルナは声に出してみた。
コンコン。
軽く、扉がノックされた。
「誰?」
ルナは訊いてみる。
――エスメラルダかな。
返事はなかった。
いや、返事を待つまでもなく扉が勢いよく開け放たれたのだ。
「え」
ルナはまた、血の気が引いていくのを覚えた。
部屋に雪崩れ込んできたのは酒場にいた男たちだった。
ルナの手を触った男の他に、何人もの仲間が付き添っている。
男はルナの顎を持ち上げ、顔を近づけた。
「年増かと思っていたが、女のかっこうしてみりゃ、なかなかの上玉だな!」
――なんで? なんで?
この家は安全なはずだ。あまりの突然な出来事に、ルナは恐慌状態に陥って身
動き出来なかった。
幻解《エントトイシュング》しようと思っても、パイプがない。もともとパイプがなくても出来るはずだが、今はなぜか出来ない。力が使えないのだ。
「お前、まだ気付いてないのか?」
男は嘲笑った。
「騙されてるんだよ」
「ひえっ!」
ルナは変な声を上げた。
――騙されたって誰に?
「ルナ。あんたさぁ……」
男たちの後ろから、ひっそりとエスメラルダが入ってきた。
一瞬安心したルナだが、すぐに全身が震え始めた。
エスメラルダの口元に、あの――悪意の笑みが浮かんでいたのだから。
「娼婦《あたしら》のこと、蔑んでたよね」
「そっ、そんな! そっ、そっ、んなことないっ!」
ルナはどもりながら叫んだ。だが、実際は気付いていた。
――エスメラルダの言うことは正しい。
ルナには多くの恋人がいたが、男と関係を持った女もいた。ルナはそんな時、どこか嫌な思いをした。
――汚れる。
言葉にすれば凄く嫌だが、そんな思いを感じていたのだ。
ましてや不特定多数の男と関係のある娼婦のエスメラルダにはどこか忌まわしい印象を覚えていた。
もちろん、ルナだって男の友人はいたし、全員が嫌いではないが、身体を接することは何となく気持ち悪さを感じてしまうのだった。
本人のことはすごく好きだった。でも、ベッドの上にいるときは、何か嫌な感じがした。眼を見つめ合い、寄り添っても、どこか不潔な感じがしたのだ。
――男と寝て金を取る娼婦なんて、なくなればいい。
ときどき、そう思うこともあった。
「気付いていないとでも思ってた?」
ルナはやっと逃げようとしたが、ドレスに足がとられて縺れる。
――歩き慣れていない。着換えさせられたのはこのため?
酒もまだ残っているのか頭が重くなってきた。
その間に、男たちがルナの周りを囲んだ。
「この家は、小さな娼館でもあるんだよ。ちょうど人手が足りなかったんだ。ルナにはその一人になって貰おうと思ってね」
エスメラルダは悪意をたたえた笑顔のままルナを見据えた。
恐怖が極限に達して、思わずルナは笑ってしまった。
「なんだ。お前も楽しそうじゃねえか」
男がそう言ってルナの胸元へ手を入れる。虫酸が走ったルナは後ろに下がった。
そこへ無数の手が身体を撫で回してくる。
臭い息が掛けられた。
悪寒がした。
「やめて! やめでぇ! いやだぁ、なんで、なんでこんなことするのぉ!」
歪んだ叫びを上げ続けるルナを、
「こいつ、もうよがってやがるぜ!」
「うひゃひゃひゃ。なら抱いてやらなくちゃな!」
男たちは手を叩いてはやし立てた。
「やめてっ、やめてええ!」
ルナは繰り返すばかりだった。
腕を押さえられ、頬を舐められた。ナメクジに這い回られるように感じた。
「ぎもちわるい! たすけてぇ! たずけでぇ!」
命乞いをするかのように叫んだ。もう、まともに考えがまとまらなくなっていた。
口を塞がれた。ルナは息ができなくなって顔が真っ赤になった。
男の手を掴んでどけようとしたが、全くビクともしない。
力の違いを思い知らされた。
「もしかして、こいつ生娘かぁ?」
手が離された。
「ぶふぁ……はぁ……はぁ」
ルナは息を吐いた。床に崩れ落ちる。
「男とやったことはないはずだよ。使い物にならないんで『通して』おいてよ」
エスメラルダは笑った。
「いやだぁ! やぁだぁ!」
ルナは咳をしながら喚いた。
「へっへ、そいつぁ良いぜ! 誰が貰う?」
ルナから離れて男たちが円を作り、話し合いを続ける中、エスメラルダはルナの首根っこを掴んで言った。
「あたしが毎日どんな思いしてたか知れば、傲慢なあんたも少しは変われるんじゃない?」
「いぁやだっ、絶対にいやだぁ! いやあだああ!」
「あたしはね、それしかなかったんだ。そう生きることしか出来なかったんだ! それをあんたは心の中で馬鹿にしていた。悪意のある、蔑む眼であたしを見てきてた! それが許せなかったんだ!」
エスメラルダは突然真顔になって、叫んだ。 ルナは体が震えるのを感じた。
「ごめん……えすめらるだぁ……ごめんなさぁい!」
「謝ってもムダ。あんたは娼婦になるんだ!」
「それだけはぁ……かんべんしてぇ……おねがいぃ!」
ルナは眼の周りを赤くしながら叫んだ。
話が付いたのだろう。男たちが一斉に振り返り、近寄ってきた。
悪意に満ちた笑みで。
ルナはうつろな目でそれを見ていた。
――おしまいだ。
安穏とあの善き夜に身を任せてはいけない
老いぼれは日の暮れにこそ 燃え 喚け
怒れ 去りつつある光に 怒れ
どこかから、声が囁くのが聞こえる。
――ああそうか、そうだ。怒ればいいんだ……でも。
ルナには、もう怒る気力すらなかった。
だらんと、力なく肩を落とす。
――もう、ダメなのかな。
男たちに立ち上がらされた。
その時。
「ルナ! ルナ! 大丈夫か?」
どこからか、別の声がした。
聞き覚えのある、優しい声だった。
――ズデンカ?
ルナは上を見た。
天井の電球の放つ光がひときわ大きく広がって部屋の中に満ちた。
ルナは目を覚した。
仄暗い書斎の中、一冊の本に頭を置いて眠っていたらしい。
ブルーのドレスは着ていない。いつものままの服装で縒《よ》れもしていなかった。
『鐘楼の悪魔』のタイトルがそこには書かれていた。
「えっ……あれっ……どういうこと?」
ルナは驚いてあたりを見回す。
「あたしが訊きたいよ」
ズデンカは横から身を乗り出して本を奪い取り、ぐしゃぐしゃっと押し潰した。
「ズデンカ……」
「なんだ? いきなり名前呼びして」
ズデンカは気恥ずかしく頬を掻いた。
ルナはズデンカの名前を滅多に口にしないのだ。
「うえっ……ひぐっ、ぐっ!」
ルナの目元に大粒の涙がたまっていた。
「おい、ルナ?」
「びえっ……びええええええんんっ! 恐かったぁ……ずでんかぁ!」
顔を真っ赤にし、ぼろぼろ泣きじゃくりながらルナはズデンカに抱きついた。
「おいっ! いきなり何だよ!」
「びえええん。びょええええん。こわかったんだよぉ。こわかったこわかったこわかったんだよぉ!」
ルナはズデンカに顔を押し付けながら、ぶるぶる全身を震わせていた。
「もう……ぜったいにはなれたりしないよね……ずっといっしょにいてぐれるよね……」
「あたしはずっとここにいたぞ? お前が目を覚まさなくて……」
ズデンカは戸惑っていた。ルナがこんなに泣くなんて初めてのことだ。
「びええっ、んっ! びえええええん! うっ、しくっ、しくしく!」
すすった洟《はな》をズデンカが着るメイド服のエプロンで拭きながらルナは泣くのを止めなかった。
「汚ねえ」
と言いながらズデンカはルナの頭を撫でてやっていた。
長いこと泣き続けていたルナがやっと落ち着いてきたので、ズデンカはルナを椅子に坐らせて状況を話すことにした。
「古本屋から『鐘楼の悪魔』を手に入れた客の話をお前が聞きつけた。手放そうとしないらしい。お前とあたしはそいつの屋敷まで出向いた。ここまでは覚えてるな」
「うん……ひっく……なんとか」
ルナは子供みたいに項垂れた。
「さんざん粘って何とか書斎に入り、本を回収したんだが、二日酔いで疲れていたお前が突然本の上に倒れこんだ」
「そうだったね……思い出した。すっかり忘れてたよ」
「さんざん起こしてもなかなか目覚めようとしなかったんで心配したんだぞ!」
「悪夢を……見たんだ」
「どんな夢だ? 話せ」
ルナはぽつぽつと語り始めた。
「馬鹿なやつだな! あたしがそんなことする訳ないだろうがよ」
ズデンカは呆れた。
「でも……ぐすっ……すごいリアルだったし……」
ルナの目元にまた涙が溜まってきた。
「『鐘楼の悪魔』のせいだ。お前もあの本に頭を乗っ取られかけてたってだけの話だ」
と言ってズデンカはルナの額を指差した。
「しけた幻想に報いあれ……だっけか?」
「ふふっ」
ルナが微笑んだ。
「よっしゃ。元気になったな」
ルナの頭を撫でてやりながらズデンカは思った。
――ずっと一緒にいてやることはできないがな。
不死者であるズデンカにとってルナとくらせる時間は限りがある。
いずれは、一緒にいられなくなる日がくる。
――それまでは。
考えを打ち切り、普段と違ってすっかり大人しくなったルナの様子に微笑むズデンカだった。
それでもルナが落ち着くまで二三日は掛かった。
よほど生々しい体験だったようだ。
ズデンカはずっと付き添ってやった。
涙こそ初日で収まったが、何度も何度も、
「もう出ていかないでね!」
と念を押されるのでこりゃ相当重症だなと思った。
そんなルナが行きたいところがあると言うので、ズデンカはついていくことにした。
「どこ行くんだよ」
「ちょっと、ね」
ルナは広げた地図で顔を隠しながら答えた。
相変わらず秘密にされるが、それは元のルナに戻ったと言うことだ。
ズデンカは安心した。
目指す先は暗い共同墓地だった。
途中、先日店員が殺害された花屋に行って、ささやかな花束を買った。
「知り合いの墓でもあるのか」
「うん」
ルナは必死にあちこち探し回った。草叢を掻き分け、石畳が敷かれていない場所すらも歩いた。
ズデンカはやれやれと思いながらルナに続いた。
「あった」
ようやく一つの墓石を見つけ出し、花束を置くと、ルナは手を合わせて祈りを捧げた。
不死者であるズデンカはあまりいい気分はしなかったが、それでも傍らに立ってやっていた。
「娼婦の……連名墓か」
碑文を読むとそこには仕事柄ゆえの病気で亡くなった何人もの娼婦が眠っていると言うことだった。
「誰に祈ったんだ、言えよ」
ルナは無言で指し示した。
「エスメラルダ」と刻んだ名前が読みとれた。亡くなったのは去年の十二月で、今のように寒い中だったようだ。
「知り合いか」
「まあね」
ルナは短く答えた。
普段はそこから先は言わないが、
「昔の恋人だよ」
と答えた。
「どんなやつだった?」
ズデンカはまたほのかな感情の疼きを覚えた。
「君に似てたかも」
ルナは笑った。
「なんだよ。その言い方は」
ズデンカはしばし墓碑を触っていたが、
「夢で見たんだろ」
「うん」
ルナは渋々頷いた。
「どうだった?」
「わたしに怒ってたよ。わたしが彼女のことを心の中で差別していたのを見抜いていたから」
「お前が見たのは『鐘楼の悪魔』が作り出した悪夢だ。囚われていたらお前も化け物に変わっていたかもしれん。だから気にするな!」
ズデンカは厳しく言った。
「でも、わたしが差別してたのは事実さ」
ルナはまた祈った。
「わたしはね、差別されてきたし、すべての差別を憎んでいるつもりだった」
ズデンカは黙った。
「でも、そんなわたしの中にもやっぱり差別心はあった。エスメラルダがどんな思いをしてきたか、考えてあげることができなかった」
「すべての差別を憎む必要はないし、すべてを奴を分かってやる必要もない。お前は優し過ぎるんだ」
ズデンカは冷たく返した。
霧が墓地に垂れ込めてきた。墓石がハッキリ見え辛くなっていく。
「寒いね」
ルナはマントを前でギュッと握り合わせ、ズデンカに身を寄せた。
「あたしの身体は暖かくなんかないぜ」
「それでもいい。こうしていたい」
二人は棒立ちのまましばらくそうしていた。
「幸せだな。このままずっといたい」
ルナは呟いた。
「だが、明日には発たなくちゃな」
ズデンカは新聞を読み続けていた。ルナの良くない噂がトゥールーズでも広がり始めていることを知っていたからだ。
「そうだね」
ルナは同意した。
だが、二人しばらく動かなかった。
