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月(ルナ)は笑う――幻想怪奇蒐集譚 第九話 人魚の沈黙

トゥールーズ人民共和国西部――

 スワスティカ猟人《ハンター》フランツ・シュルツはエルキュール発の夜汽車に揺られていた。

 車輌には他に人影がない。車掌が来たのはもう三時間も前だ。

 時折、車輪が枕木を軋らせる音がして、震えが伝わってくる。

「ルナ・ペルッツは昔、知らない場所へ旅することを『夜汽車に乗る』と呼んでいた」

「それは彼女が、移動によく夜汽車を使っていたというだけの話じゃないでしょうか」

 女とも男ともつかない、高めの声がどこかから答えた。

 だが、少なくともフランツの前にも後ろにも誰も坐っていない。

「いや、人生を旅に喩えていたんだろうさ、やつは」
「そういう喩え方ですか。なら人生という旅には終着駅があるでしょうね、あなたにも」

「陰気くさいことを言うな」

 フランツは冷たく言った。

「あなたの顔が陰気くさいからです」

 顔の見えない相手は答えた。

「生まれつきこう言う顔だ」

 フランツは腰に差した大きな鞘から柄を抜き放った。

 不思議なことに刀身がない。

 代わりに細い、幾本かが寄り合わされた糸が柄から伸びていた。

 フランツが無言で糸を引くと、中から星形をした糸巻きのようなものが出てきた。星形の真ん中には棒が一本通っていて、この棒から直角にまたもう一本棒が突き出ている。

 妙なかたちだった。だが、その妙なかたちをしたものが喋っているのだ。

「黙ってろ、オドラデク」

 フランツはそのオドラデクと呼ばれた物体を摘まみあげようとしたが、するりと指をすり抜けられた。

 オドラデクはクルクルとフランツのまわりを浮遊していく。

「人生という夜汽車に相乗りの相手がいなくても、あなたにはいるでしょう。ぼくという相手がね」
「お前はただの武器だ」

「武器! ああおかしい!」

 オドラデクは笑った。肺がなくても出せるような笑いだ。落ち葉がかさりとなるように響いた。

「ぼくがいなくても、あなたは勝てるでしょう」

 フランツは黙った。これ以上会話を続けても無駄だというように。

 夜汽車はトゥールーズ西部の村ヴェルハーレンへ向かっていた。

 フランツの目的はただ一つ――スワスティカの残党を狩ること。

 フランツは書類入れを鞄から取り出して、無言で読み始めた。オドラデクが後ろから浮遊してきた。

「へー、この人が次の標的って訳ですね」

 古びた写真には筋骨隆々とした四十ばかりの大男が映されていた。

 名前は「ゴットフリート・フォン・グルムバッハ」と書かれている。

 旧スワスティカ親衛部特殊工作部隊『火葬人』席次三。

 『火葬人』は多くのシエラフィータ族の殺害に手を染めた、フランツにとって絶対に許されざる存在だった。

 リストに挙げられた五名のうち三人は死亡したとされている。

 グルムバッハはもともとオルランド公国領内の位の低い貴族だったが、スワスティカに早くから同調し、幹部にまで成り上がった。

 幾つかの収容所では実際殺戮に手を染めたという話も聞いている。

 そのグルムバッハが生き延びて、トゥールーズ人民共和国に潜伏している。

 猟人仲間の一部の筋からもたらされた確実な情報だった。

 フランツは目をつぶって過去のことを思い返していた。

 フランツは十才の時、カザック自治領のムルナウ収容所に入れられた。

 ろくに食べ物も与えられず、寒い中を凍えて過ごさなければならなかった。

 昼過ぎになると収容所中に響き渡る、鈍い鉄の響きを忘れられない。

 鎖に繋がれた幾人ものシエラフィータ族が歩かされている。
 重い材木を運ばされているのだ。

 何か目的があって労働させられている訳ではなかった。

 ただ一人の遊びのために無駄に歩かされてていた。

 フランツは震えながら物陰でそれをみていた。

 父のヨーゼフが中にいたのだ。

「助け……てください! 呼吸《いき》が……出来……ないんです……」 

 その背中へ無情に鞭が振るわれた。

「話せるってことは出来るんだろう」

 赤毛で小柄な、親衛部の黒服に身を包んだ少女が微笑んだ。 

 『火葬人』席次五、ビビッシェ・ベーハイム。

 ヨーゼフは、そのまま地面に倒れた。

 ベーハイムはヨーゼフの頭をギリギリと押し付ける。

「起きるんだよ」

 まるでパン屑をテーブルになすりつけでもしているかのように、ベーハイムは平気な顔をしていた。

 父は絶息していた。

 フランツはただ恐怖に囚われてそのさまを見ていた。

――とても、抵抗出来るなんて、その時は思えなかった。

 病気になる前は責任感あるリーダーだった父は皆から愛されていた。

 鎖に繋がれていた他の人々が一斉にベーハイムの周りを囲み始めた。直接手が届きそうな程近くにいたからだ。

「縛られてるのに抵抗するんだ?」

 ベーハイムは笑った。
 怒りが皆の間に漲った。

 ベーハイムが小柄で華奢だと見たからだろう、飛びかかって押さえつけようとした。

「馬鹿だねえ」

 ベーハイムの指と爪の隙間を縫うように血が細く、ポタポタと地面に落ちた。

 即座に血は盛り上がり、宙に浮き、ベーハイムの周りに細長い紡錘形の棒が幾つも浮かび上がった。

 「幻想展開《ファンタジー・エシャイン》『刺絡』」

 棒は一斉に皆の方を向く。

 逃げ出す隙もなかった。

 弾丸のような早さで、その棒が射出されたのだ。

 皆の心臓を狙って。

 あやまたず胸に突き刺された。

 ドサドサと血に倒れ伏すシエラフィータ族たち。

「ははははははっ」

 血を浴びながら両手を空へと突き上げて笑うベーハイム。

 『火葬人』の五人は皆、特殊な能力『幻想』をこの世に具現化させることが出来た。

 なすすべもなく、フランツは見ていた。

 その姿が瞳の奥に焼き付いている。

 憎い。

 絶対に殺してやると誓ったのは、収容所から解放されてかなり時間が経ってからだった。

 憎しみという感情は時を経て醸造されるらしい。

 だが、スワスティカの崩壊と共にあっけなくベーハイムは命を落とした。

 その遺体は杉の柩に入れられて、オルランド公国のどこかへ葬られたと伝えられている。

 戦後、大きくなったフランツは苦しい思いを秘めて生きなければならなかった。

 怒りをどこにぶつければ良いかが分からなかったのだ。

 偶然知り合いになったルナ・ペルッツも似た体験をしていると訊き、初めて会ったときに意気投合したものだ。

 不安が軽くなる思いがした。

 収容所から逃れた者は、あまりそのことを話さない。自分たちが物のように扱われた記憶をとても思い出したくないからだろう。

 ルナはフランツより何歳か年上だが、気さくに話してくれた。過去の記憶と向かい合わざるを得ないフランツにとってはそれはありがたいことだった。

 師匠と弟子と言える関係ではないが、ルナからはこっそり多くを学んだとフランツは思っている。 

「月並みな言い方だけど、過去は変えられないからね」

 ルナはパイプを片手にいつも語っていた。フランツも同意するところだ。

――いや、そう言う風に前向きに考えないととても耐えられないのだ。

「わたしは綺譚《おはなし》がとても好きでね」

 ルナの前向きな態度にはどこか悲しさが見えたから。

「わたしが欲しいのはそれだけなんだ」

 フランツはルナとは違い、スワスティカの残党を刈り尽くすことに身を捧げる決心をした。

――グルムバッハ、絶対に仕留めてやる。

 生け捕りにして裁判に掛けるのが望ましいのだが、不可能な場合、シエラレオーネ政府から殺すことも認可されていた。

 もちろんトゥールーズ共和国の許しを得ることは不可能なので、秘密裡に行わないといけない。

――俺は出来る。

 殺しは何度も行ってきていた。だが、ここまでの大物を仕留めたことはない。

「この、『武器』が役に立てば」

 そう、鋭い目をオドラデクに向けた。

「だから、ぼくに頼るのやめてくれません? ぼくはひ弱な生き物なんですよ」

 また、オドラデクが笑い声を上げた。

「お前で何人殺してきたと思っている」

「全部弱い相手ですよね。ぼくなんて使わなくても殺せる。あなたも刀が使えないという訳じゃない。なのに空の刀身なんて提げて……ああ、おかしい!」

 フランツは見る見る顔を曇らせた。

 また、会話が途切れる。

「汽車が着くまで退屈ですよね」

「……」
「待っている時間が長いあたり、確かに夜汽車に乗ることと人生は似ているかも知れないですね」

「ただ、坐して待ってるやつにとってはな」
「あなたはそうじゃないと?」

 オドラデクはふざけた調子で言った。

「そうだ。俺は自分から動いて来た。自分で勝ち取ってきた人生だった」  

「大層な自信ですね。もっとも、あなたのすべてをぼくは知ってるわけじゃないから何とも言いかねますけどね」
「知らないなら黙っとけ」

 フランツは怒り混じりに叫んだ。

「ははぁ」

 オドラデクは何も言わなくなった。

 深夜の静けさの中、車輪の音だけがした。

「眠らないのですかね」

 だいぶ経ってオドラデクはまた告げた。

「眠らない」

 フランツは静かに言った。

「明日までまだ時間はありますよ」
「どう仕留めるか計画を練らなくてはいけないからな」

「勉強熱心ですね」

 フランツは答えない。

「あなたと会話していて楽しいって思える女性はいませんね」

 オドラデクはからかった。

 フランツは黙っていたが、少し顔を赤らめたようだった。

 ヴェルハーレンは連なる山々から風がそのまま吹き付けてくるため、とても寒い村だった。

 フランツは降りる前に食堂車でコーヒー三杯を飲み、眠気を払っていた。

 しかし、その眼の周りには既に隈が出来ている。

 あくびすらも押し殺しながらフランツは歩き続けた。

 オドラデクは再び鞘の中に収まっていた。

「正直言って警戒されるでしょうね。あなたが一人でこんな村に入っても」
 くぐもった声ではある。だが滑舌はよくなめらかに聞こえた。

「一気に仕留めて帰る」

「でもグルムバッハってやつ、名前変えてるんでしょう?」

 オドラデクは昨日の書類に書いてあった情報をちゃんと読んでいるらしい。
 グルムバッハはラファエル・ケッセルと変名し、生粋のトゥールーズ人になりすましている。

 何でも私塾を開き、えらく繁盛しているそうだ。

 シエラレオーネの猟人本部が派遣した潜入者の調査力にはフランツも呆れた。ならば当人が殺せばいいではないかと思ったりする。

 とは言うものの、フランツの実力でなければ確実に仕留められないと判断したのだろう。ある意味では誇らしかった。

「家を一軒一軒当たっていく訳にもいかないでしょうし、どうします?」
「子供に聞いてみる」

 フランツは眠そうに言った。

「グルムバッハは私塾で子供たちを教えている訳ですから、そういう手もありますよね。でも、どうやって接触するんです?」
「昼になれば連中も遊ぶだろ」

「なるほど、頭が回りますね」

 オドラデクの褒め言葉など意に介さず、フランツは村の近くの林の中に身を潜めて待った。

 鳥の鳴き声がたまに聞こえてくる他はとても静かな空間だ。

 何も言わず立ち尽くすフランツ。

 会話する気すら感じられなかったせいか、オドラデクの声は聞こえなくなった。

 昼近くなると、子供たちの姿が現れた。

 皆元気よく、野原を駆け回っていた。

 そのうちに縄跳びをして遊び始めた。

「よっ、お前ら!」

 フランツは気さくな年長の友達とでも言ったように声を掛けた。

「よっ!」

 何人かは見知らぬフランツに尻込みして恐がり、話し掛けるのを躊躇っていたが、ガキ大将と見える活発な子が答えた。

「俺は旅の者だ。ある人を訪ねてきたんだ。ラファエル・ケッセルという先生でね」
「ケッセル先生は村一番の先生だぜ!」

 ガキ大将が叫んだ。

「へえ、そんなに評判が良いのか」

 フランツは驚いた。

「俺らはみーんな教えて貰っているからなあ」
「ケッセル先生に教えて貰って字も書けるようになったし!」

 舌足らずな話をまとめみると、ケッセルことグルムバッハは親のいない村の浮浪児たちにも無償で文字を教えているという。

 それだけではなく、村会議などにも進んで参加して発言を多くしているということだ。もっとも子供の言うことなので「むらのだいじなあつまり」程度の言葉から意味を斟酌したのだが。

 ケッセルが学校兼住宅として使っている古い屋敷の場所を聞き出すことが出来た。

「大した先生じゃあないですか」

 子供に別れを告げた後、オドラデクは小さな声で聞いた。

「話すなと言ったろう。誰かに見られたらそれこそ怪しまれるぞ」

 オドラデクは黙った。
 フランツは無言のまま村中を探した。

 行き交う大人たちが何人か、警戒した視線を向けてきたが、フランツは無視して逃げもせず堂々と歩いた。

「やり過ごせますかねえ」
「黙っとけ。こう言う時はむしろ臆病に振る舞うことが猜疑心を増す」

 フランツなりの今までの人生で得た処世訓だった。

 目指す屋敷は村の奥の方、村長の屋敷の近くにあった。とても豪壮な建築だった。

「ずいぶん認められているんですね」

 オドラデクが笑った。

 普通、村の中心に家を構えられるのは認められた人間だけだ。一昔前なら魔女呼ばわりされたような地域社会のはぐれ者は村の隅っこで暮らさなければいけないのはどこでも同じことだった。

「いくら認められようがスワスティカはスワスティカだ。虐殺に手を染めた者を許すことはできん」

 注意深く周囲を眺め誰も居ないことを確認して、フランツは答えた。

「なるほど」

 オドラデクは感心したように答えた。

 グルムバッハはスワスティカ崩壊時、現ヒルデガルト共和国領内の炭鉱で労働させていたシエラフィータ族の連行が無理と分かると一列に並べさせ銃殺した疑いがある。被害者は数百人に及んだ。

「裁きは受けさせる」

 家に近づいて、普通より遙かに大きく感じられるドアをノックした。

「はい」

 女の声が響いた。少し緊張しているように聞こえた。

「ラファエル・ケッセルさまは在宅していらっしゃいますでしょうか?」
「主人は今、出かけております」

 とすれば、今の女はグルムバッハの妻らしい。それにしては幾分か若いようだが。

「私はエルンスト・ヴァルドマールという者です。オルランド公国からの移民で、昔先生の教えを受けたものでして」

 フランツは顔色一つ変えず嘘を吐いた。これも訓練によって習得したものだった。

「ああ、なんて偶然でしょう!」

 女は突然明るい声になってドアを開けた。明るい色をしたブランドの髪が昼の光に照らされた。

「……」

 驚くばかりの肌の白さにフランツは少し毒を抜かれた。年齢はフランツよりも何歳か若いと思われたからだ。

「私はケートヒェンと申します。元は孤児だったのですが、名前だけは覚えていました。記憶こそありませんが、あなたと同じオルランドから来たんじゃないかと思っているんです」

「それは奇遇ですね。マダム・ケッセル、どうかよろしくお願い致します。もしや、あなたも先生に教えを受けたのですか?」

「はい、元生徒だったのです。あなたのことはお見かけしたことがありませんが、ラファエルとはどのような関わりで」

 ケートヒェンは顔を赤らめて答えた。

「一年ばかりの短い間でしたが、トゥールーズ語を教えて頂いたことには感謝しています」

 フランツはしれっと嘘を重ねた。

「今でも主人は言葉の分からない子供たちにトゥールーズ語を教えているんですよ。親のいない子も多いので」

 ケートヒェンは目を輝かせながら語った。

「それでは先生がいらっしゃるまでお待ちしても大丈夫ですか?」

 フランツは少し疲れたかのように聞いた。

「もちろん! ぜひお上がりください」

 絨毯が敷かれた食卓へ坐り、フランツはケートヒェンに入れて貰ったお茶を飲んだ。

 オドラデクが一切話さないので静かだ。

「少し、わたしのことを話させて頂いても宜しいですか」

 ケートヒェンが椅子に腰を下ろして聞いた。

「もちろん」

 フランツは素っ気なく言った。

「わたしがここに来たのは六年前です」

「ああなるほど、こちらが知らないわけです。わたしは七年前にここを去りましたから」

 もちろん、ただ話を合わせただけだ。

「そうだったんですね! 最初は文字もよく読んだり書いたりできなくって、とても性格の良くない……子供だったんです」
「意外ですね。今のあなたからはとてもそう見えませんが」

 フランツは微笑んだ。

「ほんとうにお恥ずかしくって。何も教えて貰っていない状態だったんで、仕方ないですけど。泥だらけで野山を転げ回っていたんですよ」

「お転婆ってやつですね」

 フランツは皮肉った。こう言うテクニックも相手の懐に入る際は使わざるを得ない。

「ふふふ。そうなんですよ。すごくお転婆だったんです。先生――夫のことですが、いろいろ教えてくれなかったら、今でもそのままだったことでしょう」
「ケッセル先生は偉大な方ですからね」

 フランツはとりあえず話を合わせた。

「はい。かけがえのない存在です。ラファエルがいなければ今の私はありませんから」

 フランツは答えず、少し目を瞑って考えた。

――何か違和感がある。

 フランツは、昔ルナ・ペルッツと話したことを思い出した。

「結婚は対等な両性の合意だ、という話を良く聞くね」
「いきなりどうした」

 フランツは怪訝に思って問い返したものだ。

「ふと、思ったのさ。対等だとしたら二人の年齢も釣り合わなけりゃおかしくないかって。でも、二十歳以上ぐらい年が若い妻を貰う成功者の男もいるだろ」
「別におかしなところはない。両性が合意してればそれでいいじゃないか」 

 フランツはまだ納得できなかった。

「おかしいと思わず、みんなが受け入れてることの方がおかしいって場合もあるさ」

 ルナらしい持って回った言い方だった。

「お前のような輩にとったらおかしいかもしれない。だが、子供の頃からの知り合いで結婚したとか、そんな話はしょっちゅう聞くぞ。美談のように語られることもあったな」
「問題はそこさ」

 ルナのモノクルが光った。

「男があえて女を幼い頃から飼い慣らしてるのかも知れない。すごく言い方は悪いけどね」

 フランツはルナの弟子ではないし、そう呼ばれたくもない。だが、時折ルナの頭の中に言葉が甦ってくることがあるのだ。

 今目の前にいる自分より若いケートヒェンの六年前と言えば少女だろう。

 そう考えるとあまり良い思いはしなかった。

 グルムバッハとは三十歳近くの開きがある。

「ケッセル先生と結婚されたのはなぜでしょう」

 するとケートヒェンは顔を赤らめて、

「自然と、教えて頂いているうちに……」

 字も読めない少女を先生が救い出して読み書きを教え、その後に結婚した。

 確かに傍目から見れば美談だろう。しかし、その先生は虐殺者なのだ。

 フランツの心の中にまた怒りが湧き上がった。

「先生は村では評判なんですか。当時は私もあまりに幼かったので、どう評価されていたまでは覚えていなくて」

 フランツは鎌を掛けた。

「ラファエルはこの村で一番偉い人です。私が言えば変ですけど! でも、一人が好きな人でもあってたまに家を空けることがありますね」

 子供たちの評判に誤りはないらしい。誰からも愛される人間――それがグルムバッハのヴェルハーレンでの評価だ。

「いえいえ、先生は大したお方ですよ」

 飽くまで柔《にこ》やかな態度を崩さないよう努めた。

――家を空けるとは、また何か良からぬことを企てているのだろうか。

 フランツは不審に思った。

 結局、ケートヒェンに昼食まで作って貰い、そのまま長居した。

 ケートヒェンと話を続けながらも、時間を確認した。

 既に十六時近くなっている。

 ドアがノックされる音が聞こえてきた。

「夫です」

 他の者は誰も訪れてこないかのような口振りでケートヒェンは立ち上がり、ドアの鍵を開けに行った。

 ラファエル・ケッセル――グルムバッハは静かに入ってきた。ドアが大きかったのはこの身長のためだろう。

 フランツも高い方だと自負していたが、その頭を遙かに見下ろせるほどだった。

 今は五十代のはずだ。写真より白髪が交じり、皺もよってきているが、腕の筋骨は隆起しており、まだ鍛え続けている様子が窺われた。本人で間違いないとフランツは思った。

「ケッセル先生、お久しぶりです。エルンスト・ヴァルドマールです。覚えておいででしょうか」

 冷ややかな笑いを浮かべて、フランツは手を差し出した。

 グルムバッハの顔は一瞬の曇りも見せず、微笑んで手を握り返した。

「エルンストくん。本当にお久しぶりだね」

「覚えておいでですか。それはよかった」 
「積もる話もあることだ。少し散歩しませんか」

「えっ?」

 ビックリしてケートヒェンは二人を見比べた。

「男同士、語り合いたいこともあるのだよ」

 そう穏やかにケートヒェンを説き聞かせて、グルムバッハは歩み始めた。

 フランツもそれについていく。

 二人は屋敷の外へ出た。

 向こうがすぐ攻撃してくるなら、すぐ応戦出来るだけの準備をフランツはしていた。

 だがグルムバッハは肩幅の広い背をフランツに見せながらも、殺意を毛ほども覗かせなかった。

 行き先も話し合っていないのに、自ずと二人は村から離れた先ほどの林に向かって歩いていく。
 もう子供たちも家に帰った後だ。

 半熟卵のような赤光が木々の間を透かして溢れている。

「もういいだろ。ゴットフリート・フォン・グルムバッハ。俺が誰だか分かるな?」

 フランツが静かに言うと、グルムバッハは歩みを止めて振り返った。

「スワスティカ猟人《ハンター》」

 グルムバッハは穏やかに言った。

「そうだ。お前は俺たちシエラフィータ族を問答無用で虐殺した。報いを受けなければならない。素直に縛に付くか、それとも……」

 前者は期待していなかった。フランツが望んでいるのは――。

「私にはここの生活がある。突然出て行っては村のみんなが困るのでね」

 思いを汲んだようにグルムバッハは静かに言った。

「お前がここで集めた尊敬は偽りのものだ。お前の過去はどこまでも血に汚れている。それを自ら拭い去ることもせず、のうのうと生き延びている!」

 フランツはグルムバッハを睨み付けた。

「そうだな。私はとっくに過去を拭い去ったつもりでいた」

 グルムバッハは動じることがなかった。

「偽善者め! お前らのような醜いやつが!」

 フランツは収容所で、各地で死んでいったシエラフィータ族の姿を自然と心に思い浮かべた。

 自分で見た光景、後から写真で捉え直した風景。

 焼却炉で人体が燃やされた灰。

 収容所の外では、屍体が山のように積み重なっていた。

 ベーハイムの高笑いが耳鳴りのように何度も繰り返される。

 暴力の痕跡をひたすらに凝視した。

 涙は不思議と滲まない。涙を流せる程度の悲しみは深くない。そう思えてしまうほど鈍い痛みを感じた。

 目の前の男は、その加担者だ。

「出来る限り、穏便に納められないかね。君がどうしてもと言うなら、私も相手をせざるえなくなるがね」

 グルムバッハは静かに言った。

「お前に多くを語らせるつもりはない」

 フランツは鞘から剣をゆっくり引き抜いた。 と、言ってもそこに刀身はない。糸が伸びていくだけだ。

「やれやれ、仕方ない。幻想展開《ファンタジー・エシャイン》『鉛の夜』」

 グルムバッハは地面を殴りつけた。大きな穴が開き、大地がひび割れた。

 自分の立っているところまで割れそうになったので、思わずフランツは身を引いた。

「なんだ、その程度か」

 フランツは嘲笑った。

「小細工を弄する必要が私にはなかったのだ。この身の力を、最大限まで高められればそれでいい」

 グルムバッハはそう言いながらフランツに殴り掛かった。

 フランツは軽やかに躱《かわ》した。

――間合いを詰められてはいけない。

 端から見れば不思議な光景だった。空の刀身を握った青年が、初老の男の打撃を避けながら、夕暮れ迫る林の中を走り回っているのだから。

 フランツの耳元で風が大きく唸った。

 グルムバッハの拳を避けた時、背広とシャツが大きく破れたのだ。

 肌が覗いて見えていた。

「興味深い」

 それを見て、グルムバッハは微笑んだ。

「ちょうどいい。いい加減暑いと思っていたところだ」

 フランツはやはりまだ大きく間合いを取りながら、背広を片手で引き裂いた。

 半裸の姿が現れる。

 酷く痩せてはいたが鍛錬の甲斐あってか筋肉がついていた。

 だが、不思議なのはその背中に肌理細かく描かれた人魚《セイレン》の刺青だ。

 物語の中も人魚は歌を唄うものだが、描かれた人魚は歌を唄わず、口を閉ざしていた。

「唄わない人魚がいるとはね」

 グルムバッハは笑った。

「唄わない人魚は俺だ。俺は言葉を残さない。俺は歴史を語らない」
「じゃあ、一体何を?」

 グルムバッハは物凄い勢いで間合いを詰め、フランツを押し潰そうとした。
 しかし。

 その身体を無数の糸がからめとっていた。

「俺は何も残さない。ただ、消していくだけだ。この『沈黙』という武器で、お前らスワスティカの痕跡を」

 フランツは空の刀身を縛られて動けなくなったグルムバッハへ向けた。

「オドラデク!」
「はいはい、わかりましたよ」

 すぽんとオドラデクはその星形の尖端を柄の先から突き出した。やがて複数の絡まり合う糸がそこに集まっていき、鋭い刃のかたちになった。

「剣……」

 そう言ったグルムバッハの胸が変型したオドラデクに貫かれていた。

「がはっ」

 口から血を流し、しかし穏やかにフランツを見つめるグルムバッハ。

「良かった……ようやく……」
「恥じて、死ね」

 フランツは相手の膝に足を掛けよじ登りながら、力強くオドラデクを深く差し入れた。

 グルムバッハは絶息した。

「意外とあっけなかったですね」

 オドラデクはまた例の笑い声を上げた。

 フランツは黙っていた。

「これからどうするんです?」

 それには答えずフランツは書類入れを鞄から出し、中の紙を取り出してマッチで火を付けた。

 フランツは大の嫌煙家でルナのパイプを渋い顔で見つめることが多かったが、火を付けてやる機会も多く、自然と携帯するようになったのだ。

 結果として喫煙者のお偉いさんとの会談の時には使える道具になったが。

 黒焦げになった書類に残る火を足で押さえつけて鎮める。

「もったいない。面白い情報がたくさん載っていたのに」

 少しもそう思っていなそうな声でオドラデクは言った。

 フランツは飽くまで沈黙を守った。

 と、いきなりオドラデクが動いた。剣の先に集まっていた糸が一本、ピンと広がったのだ。

 フランツを狙って放たれた弾丸を真っ二つにしてはじき飛ばしていた。

 ケートヒェンだった。煙を上げる猟銃を手に震える顔で立っていた。

 何か予感を覚えたのか夫が心配になって付けてきたのだろう。中は近くの小屋に放置されているものを急いで持ってきたのか、いささか錆びているようだった。

「なかなかしっかりした撃ち方ですね。さすが、野山を駆けまわっていたのは伊達じゃない」

 オドラデクは笑った。そう言いながら、ケートヒェンの手から猟銃を糸で絡め奪い取った。

「何で夫を! 罪のないあの人を!」

 フランツは黙ったままだ。

「罪がないってね、奥さん。あの人は本名ゴットフリート・フォン・グルムバッハって言ってケッセルなんて名前は偽りなんですよ。経歴だって全部嘘で塗り固めたもの。旧スワスティカ親衛部特殊部隊『火葬人』の一人と言やあ少しはお分かりでしょう。あなたも子供の時に戦争を経験しているはずですからね」

 オドラデクはかえって饒舌に喋り立てた。

 ケートヒェンは何か思い当たる節があったのか呆然とした顔をしていたが、じきに、

「それが……本当だったとしてもこの村に、来てからはとても偉い人でした! いえ、私にとって大事な人だったんです!」

 フランツは何か言おうと口を開き掛けた、しかし、それを遮るように、

「あなた、グルムバッハとはだいぶ歳が離れているでしょ? 単に子供の頃好きだったおじさんへの延長線上で結婚したんじゃあないですかね? それとも向こうから色々されちゃったんですかね」

 オドラデクは馬鹿にしたように言った。

 ケートヒェンの青ざめた顔に急激に血の気が昇った。

「私はあの人を好きだったんだ! 他人からどうこう言われる筋合いはない!」

 フランツの顔にふいに物憂い影が走った。そのままケートヒェンの懐に飛び込み、頭を強く殴った。

 たちまち気絶してどさりと崩れ落ちるケートヒェン。

「結局最後まで会話せずに済ましましたね。なるほど、大した『沈黙』だ」

「お前は喋りすぎだ」

 鞄から出した捕縛用の縄でケートヒェンを木の幹に縛り付けながらフランツは言った。

「いいでしょう? さっきまでずっと黙らされていたんですから喋りたくもなりますよ」

 まだ目覚める様子のないケートヒェンを眺めながらフランツは歩き出した。

「殺さなくていいんですか。目撃者ですよ」

 糸を鞘の中にスルスルと治めながらオドラデクが言った。

「無駄な殺しはしない。俺が殺すのはスワスティカだけだ。名前も変えてるしな」

 やっと長めに話すフランツ。

「顔を覚えられているでしょう」

「もうこんな村来ることはない。俺は西へ行く」

「エルキュールの警察庁に届けられるかも知れませんよ」

「この国にそこまでの警察力はない。出発直前に起こった某大学の襲撃事件も結局うやむやのままだからな」

 フランツはそれだけ言いきると後は喋りかけてくるオドラデクを無視して歩き続けた。

 またも夜汽車だった。

 フランツは何も言わず乗っていた。

 やはり、枕木に車輪が軋む音しかしない。車窓には街の灯りすらほとんどみられない。しばらくずっとこんな眺めだろう。

 だが、何時間もそうしているうちに、

「俺が言いたいことは」

 自然と言葉が口から漏れる。

「ケートヒェンさんについて、ですよね」

 鞘の中に収まったオドラデクはフランツの言いたいことを理解しているらしい。

「ルナ・ペルッツは昔言った。かなり年の離れた妻を娶る男は、女を飼い慣らしているのだと」

「ルナ、ルナって彼女はあなたの先生かなんかですか? 言ったことが外れる場合だってあるでしょう」

「少なくともケートヒェンは自分はグルムバッハのことが好きで、他人から指図されたくないと言った」

 フランツは膝上で両の指を合わせた。

「一理あるでしょうね。本人が言っているんだから、正しいと考えた方がいい」
「だから、俺は悩む」

「悩まなくて良いでしょう。どうせグルムバッハは罪人なので。本人も死を望んでいたようですよ」

「ケートヒェンは罪人ではない」

「かもしれません。でも、彼女の意志ではなく、グルムバッハにそう思わされていただけ、と言う可能性だってあるでしょう。とにかく、彼女は広い世界を見ていない。われわれと違ってね」

 フランツは黙った。

「ちょっと、鞘抜いてくれません?」

 フランツは言葉を返さずに従った。

 フランツの周りをくるくると周りながらオドラデクは宙を浮いた。

 それが勢いよく糸をフランツの前の席へ集めて、人のかたちになった。

 青い瞳の青年がフランツを見ていた。髪の色はオドラデクを織りなす様々な糸と同じだった。

「わざわざその姿にならなくて良いぞ」

 さんざん見飽きているフランツは目を閉じた。オドラデクは女にも少年にも何でも望むものに姿を変えることが出来る。

――こいつだけでグルムバッハを始末させてもよかったかもな。

 そんなことをフランツは考えた。

「寂しそうなんで相乗りの相手になってあげようと思ったんですよ」

「いらん」

 フランツは短く言った。

「あなたもずいぶん素直じゃない人ですからね」

「寂しいとしてお前に埋め合わせが出来るとは思わん」

「あ、やっぱり寂しいんですね。分かってますよ。もう長い付き合いですから」

 ニヤニヤと笑いながらフランツの肩を叩くオドラデク。

「……」

 相変わらず黙りこくるフランツ。

「こうやって人間の姿で汽車に乗るのもいいなぁ。車掌さんが入って来ちゃったらどうしましょう。ぼく切符持ってないんですけど。殺します?」

「騒ぎを起こすな。さっきも言ったぞ」

 フランツは少し厳しく言った。

「冗談ですってば。それに車掌さんもう行っちゃいましたよ。覚えてないんですか」

 フランツは答えなかった。

「話が一方通行ですよ。ほんとーに頑固な人ですね」

 オドラデクはフランツの傍に坐って肩を回した。フランツは嫌そうにそれをはねのけた。

「だから友達少ないんですよ、フランツさんは!」

 オドラデクはカラカラと笑った。糸巻きのような姿をしている時と全く変わらない笑い方だった。

「だいたい人ですらないだろお前は」

 フランツはうるさそうだった。

「友達は人間である必要ってないじゃないですか。犬や猫だけ仲が良い人もいる」

「人間の友達とは別だ」
「なるほどね。じゃあこれならどうです?」

 とオドラデクは両手を顔を隠し、またさっと手を退けた。

 女に変わっていた。

「やめとけ」

 フランツは口に少し苦笑いが浮かんでいた。

「異性の友達が多い方ですね。フランツさんには」

「そんな話したか?」

「しましたよ。ルナさんとかね」

「何が知りたいんだ?」

 フランツはため息を吐いた。

「男と女の間で友情は成り立つのか、的な凡庸な問いですよ」

 ニヤリと満面の笑みを浮かべてオドラデクは言った。

「いい加減にしろ」

 フランツは空の刀身を向けて中に入るよう促した。

「まだ戻りません」

 オドラデクは真っ暗な車窓を見つめていた。


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