月(ルナ)は笑う――幻想怪奇蒐集譚 第四話 一人舞台
ヒルデガルト共和国中部ホフマンスタール――
「どいつもこいつも、芸ばっかしてやがるな。噂通りの芸術の都だぜ」
路傍で大道芸人がジャグリングしたり、二人で掛け合いの漫才を繰り広げたり、人形芝居で妻が夫を棒で殴りまくるのを見ながら、メイド兼従者兼馭者のズデンカは言った。
「好きなことをして暮らしていける環境なら、みんなやりたがるさ」
ズデンカの主人、綺譚蒐集者《アンソロジスト》ルナ・ペルッツはまったりと答えた。
ここ、ホフマンスタールはヒルデガルト共和国でも一、二を争う芸術の都だ。スワスティカ時代に国道が敷設され、オルランド公国との往来も盛んとなっている。
「だが、食えるか食えないかは話が別だろうさ」
「それなりに儲かってるみたいだよ」
ルナが指差すと、大道芸人が地面に置いたよれた帽子にごっそりと金貨が貯まっていた。
ルナは金貨を一枚、指で弾いてその中へ入れる。
「無駄遣いするんじゃねえ」
「君はわたしのお母さんか」
ズデンカは少し顔を伏せた。恥ずかしくなったのだ。
「さあ、急ごう。劇作家にして演出家リヒャルト・フォン・リヒテンシュタットの新作公演をお目にかからなくちゃね」
ズデンカとルナは劇場を目指して歩いているのだった。
「誰だよ、それ。いつそんな予定組んだ?」
ルナは秘密主義者だ。目的地こそズデンカには告げたが、理由は教えていなかったのだ。
「最初からだよ」
「聞いたこともないやつだな」
「そりゃかなりの物知らずだよ。リヒテンシュタットは世界的に名高い作家だ。彼の演劇は人間生活の懊悩の深遠な洞察に達しているとの評判だ」
「なんだよ、その雑誌に書いてそうなありきたりな紹介は」
「早い話、わたしも彼の芝居を観たことがないのさ」
「お前……」
ズデンカは睨んだ。
「こんな素晴らしい環境なら、誰もが俳優になりたがるだろうね」
ルナは話を逸らし、周りを見回した。華やかに着飾った男女がたくさん歩いている。普通の街では見かけない格好の者がいる。おそらく俳優かその卵なのだろう。
「なれない奴もいるだろ」
すっかり話をそらされることに慣れたズデンカが言った。
「相変わらず君は現実的だね」
「お前が非現実的なだけだ。好きなことで食っていけるやつは少ない」
ズデンカは言い張った。
「少ないからこそ、皆少ない可能性に賭けるんじゃないのか」
「皆が皆何者かになれるわけじゃない。才能は誰もが持ってないからな。平凡だろうが手堅い人生を生きて何が悪い」
「吸血鬼が言ってもねえ」
「だからなんなんだよ」
ズデンカは頭を掻いた。かゆみは感じないのでポーズだけだ。
「さて、そろそろ劇場だ」
円柱に梁が渡された古風な建物で、入り口には階段まで設けられていた。
「あたしには居心地が悪そうなとこだ。外で待っててもいいか?」
「まあそう言わず」
近くの紳士淑女は二人を奇異な目で見た。常識的に考えて、メイドと並んで歩く主人はいない。
召使いは高級な劇場に立ち入らないし、まれに立ち入るとしても一歩退いて歩くのが普通なのだ。
しかも、主人が男装した女なので多くの者にとって奇異に映るのだろう。
「あれは、ルナ・ペルッツじゃないか?」
「よくない評判もあるよな」
「近寄らないで置きましょう」
気にもせずルナは歩いていくが、ズデンカは怒りを抑えていた。
「ろくでもねえ」
と拳を固める。
「まあまあ、ここで騒ぎを起こしてもね」
ルナはなだめた。
「それ、普段ならあたしが吐くセリフだぞ」
ズデンカが渋り顔をするのを承知で高額な入場料を払ってルナは先へ進んだ。
天井はとても広く、かなり数多く設けられた席をふらふら迷うルナの手を引いてズデンカは連れていった。坐ると芝居はじきに始まった。
「とーざーいとーざい。これより、リヒャルト・フォン・リヒテンシュタット作・演出による悲劇『犠牲』の公演を取り行いまする。紳士淑女の皆々さま方、なにとぞ最後までお見とどけくださりまするよう」
興行主が謳うように口上を述べる。
幕が開き、芝居が始まった。
ポールは激怒した。
ミシェルが殺害されたのだ。二人は永遠の愛を誓った恋人同士だった。
殺害の方法はいとも凄惨なものだった。崖の上に縄で緊縛されて吊され、臓物をかっさばかれての死だった。
縄は血で真っ赤に染まり、内臓は舞い降りた鷲に啄《ついば》まれ続けていた。
「許せん、俺のミシェルを奪ったのは誰だ?」
ポールは殺した者を探そうと決意する。
犯人はすぐに見つかる。
ポールには飲んだくれ女のフェリシアという愛人がいた。
フェリシアはやくざ者ロップスとも肉体関係を結んでいる宿命の女だった。
「ポールは私だけのものよ!」
心深く愛するポールを独り占めせんがため、ロップスをそそのかしてミシェルを殺害させたのだ。
復讐を誓ったポールはロップスと決闘するが、右目を傷付けられ、あえなく敗れ川に流されてしまう。
下流の村に漂着したポールは純真な村娘ドニーズに手厚く看病され息を吹き返すが記憶を失っていた。
二人はすぐさま恋に落ちる。
六年近くが経ち二人の間には可愛らしい娘が生まれていた。
そこに現れたのがやくざの親分に成り上がっていたロップスとフェリシアだ。
村でポールと思われる男が別の女と暮らしていることを聞きつけたフェリシアは憎らしくてたまらなくなり、またもロップスを唆して妻子を殺させようしたのだ。
ポールが家を出た隙をうかがいロップスはドニーズとポールの娘を陵辱する。
このシーンがまた凄まじいものだった。鳴き叫ぶドニーズをロップスが何度も殴る。真に迫った俳優の悲鳴の演技に、劇場の多くの観客が身を震わせていた。
「くだらねえ」
ズデンカは一言の元に吐き捨てた。
「男を行動させるために女が殺されたり犯されたり、そればっかりじゃねえか」
「世間さまでは流行りなんだよ。割れんばかりの拍手だろ?」
ルナの言う通りだった。二人を除く劇場内の観客はみな手を叩いているのだった。
「信じられん。作り話なんて見なくても女は殺されてるし……犯されている」
ズデンカは目をつぶった。今まで見てきたものを思い返すかのように。
「人間生活の懊悩の深遠な洞察をもって描き出された素晴らしい作品だよ。作者の顔が見てみたい!」
ルナは絶賛した。ズデンカはすぐ皮肉だと分かった。お望みの綺譚《おはなし》はリヒテンシュタットの舞台にはなかったらしい。
俳優が出て来て挨拶する場面すら見ずに席を立つ二人。
館内の喫茶室でクリーム・チーズをたっぷり塗ったベーグルを何個も味わうルナの横に立ったまま身動ぎせずにいるズデンカ。
「ふぁべないの?」
ベーグルを頬張ったまま聞くルナ。
「お前それ嫌がらせで言ってるだろ。食えないんだよ」
「もぐもぐ……うっぷ」
そうやって喉を詰まらせたルナの背を軽くポンポンしてやるズデンカ。
「おいしかった」
「よかったな」
二人が喫茶室を出ると、大勢の観客たちが押し寄せてきた。
「挨拶が終わったんだね」
「めんどくさい潮時に居合わせちまったな。すぐ帰りゃよかったんだ」
「あの、ペルッツさま……ルナ・ペルッツさまですよね」
馬の尻尾のように黒髪を後ろでくくった少女が瞳を輝かせながら近付いてきた。
「やあ初めまして。どなたでしょうか?」
ルナは帽子を脱いで挨拶した。
「わたしはヴィルヘルミーネと申します」
「何か面白い綺譚《おはなし》でもお持ちかな?」
「おい、いつもそればっかだな」
ズデンカは止めようとした。
「いえ、そうじゃないです。でも物語に心惹かれていてあなたの名前を知らない人はいませんから」
「そんな大層な者じゃないですよ」
ルナは謙遜した。
「わたし役者の卵なんです! 小さい頃からペルッツさまのまとめられた綺譚集《アンソロジー》を何度も何度も読み返して、作中の人の気持ちになりきって演じてみていたんです。それが今の道に通じました!」
「にやけてるぜ。よっぽど嬉しいんだろ」
ズデンカはルナの脇を小突いた。勘付かれていたのだ。
「あなたがズデンカさまですね」
ヴィルヘルミーネはぺこりとお辞儀をした。
「なんであたしなんかのこと知ってんだよ!」
ズデンカはびっくりしていた。
「最近出た綺譚集《アンソロジー》の献辞にズデンカさまのお名前が乗っていましたので」
「へえ、そんなもんあったっけなあ?」
もちろんズデンカもルナの本は隅から隅まで読んでいるのだが、献辞は読み飛ばしたらしい。
「君にしたら珍しいおっちょこちょいだな」
ルナは笑った。
「あたしなんかを知ってるやつがいるってのが驚きだっただけだ」
「『なんか』を繰り返してるよ。動揺してるな」
ルナはからかった。
「うっせえよ」
「お二人は仲がよろしいですね」
ヴィルヘルミーネは笑った。
「これからご予定はあるんですか?」
ルナは聞いた。
「実はわたし、明日リヒテンシュタット先生の演劇講座に参加しようと思っているのです!」
「それは素晴らしい」
ルナは手を叩いた。
「演劇講座ぁ? なんかうさんくせえな」
ズデンカは疑ってかかっているようだった。
「役者の卵がお金を払って、先生から直接ご指導受ける機会が得られるんです。しかも! 伸び代があると判断されたら、みごと俳優として出演させてくださるかもしれないんですって!」
「そんなの一握りだけだろ?」
ズデンカは皮肉っぽく言った。
「一握りだけだからこそ目指したいんです! 実力を評価されたいんです。リヒテンシュタット先生のお芝居はわたし、欠かさず通って見てるんですよ!」
その手を握りしめて目をきらきらと輝かせながらヴィルヘルミーネは語った。
「そっ……そうかよ」
ズデンカは思わずたじたじとなった。
「すっかり毒気を抜かれちゃって。どうです? 明日からってことは今日はお暇でしょう。今夜一緒にご夕食しませんか? もちろんお代はこちらが持ちますよ」
「えっ、いいんですか?」
「大切な読者ですからね。厚くもてなさないと」
と、躊躇いがちな顔でこちらを見つめてくるズデンカと眼を合わせながらルナは言った。
食卓に並べられた七面鳥の丸焼きを几帳面に切り分けてヴィルヘルミーネは慎重に辺りを見回しながら口に運んだ。
「うっ、うまー!」
と叫んで顔を赤らめ、口元を押さえる。
「す、すみません。こんな美味しいもの、近頃食べたことなくて!」
「お口に合ったならよかったです」
ルナは微笑んだ。
「ここのホテルの飯は高いんだぜ」
耳元で囁くズデンカ。
「お金のことばかり気にしてるね君は」
「お前が気にしなさ過ぎなんだよ」
「村を出てホフマンスタールで一人暮らしを始めてからずっと倹約生活でした。お仕事が忙しくて!」
「何をやってるんだ?」
ズデンカは聞いた。
「お店の売り子とかです。お客さんからきついこと言われちゃうけど毎日頑張ってます!」
「客には横柄なやつも多いからな」
「少しぐらいのことでめげてちゃいけませんから!」
ヴィルヘルミーネは胸を張った。
「そこまでして舞台に出たいんですね」
ルナがそら豆にフォークを刺しながら言った。
「はい! お芝居の力って、すごいんですよ」
「どう凄いんですか?」
「バラバラになったみんなの心を繋ぎ止めるんです。故郷の学校は結構荒れてて、クラスの雰囲気は最悪でした。そんな時、わたしが思いきって発表会でお芝居をやらないかって提案したんです」
「なかなか大変だったでしょう?」
「はい! 色んなことありましたよ。怒ったり泣いたり。でも、わたしが脚本も演出もやって、たくさんの人たちに拍手を貰えて。クラスの皆も結束力が強まりました」
「へえ、青春ですね。共感力の低いわたしではなかなか出来そうもないことです」
ルナは素直に感心していた。
「いえいえ、ペルッツさまに比べたらわたしなんか……」
「では、一つヴィルヘルミーネさんに伺います。ずばり、舞台の魅力って何でしょうか?」
ルナのモノクルがぴかりと光った。
「うーん、そうですね。お芝居って一人だけじゃだめなんです。みんなで力を合わせて初めて完成されるものなんです。わたしの作ったお芝居もみんながいてこそですから。今度はプロの方々とも作っていけるようになれたらなって」
「それは凄い。わたしはぜひあなたの演技を見てみたいな。やって見せてください」
ルナは興味津々な様子でせかした。
「えっ! えっ! はっ、恥ずかしいです」
「役者の卵が恥ずかしがってちゃだめですよ。さあさあ」
息を飲んでヴィルヘルミーネは立ち上がり、
「あの虹の向こうに、輝く未来があるんだよ、さあ行こう!」
そう言った顔は少年の凜々しいものになっていた。
「いや、凄いですよ。ほんとに、別人になってる。ぜひ舞台の上で見てみたいな」
ルナは拍手した。
「ほんと、恥ずかしい。ペルッツ……ルナさまの真似をちょっとさせてもらったんです! こんなカッコイイ人、今まで初めて見るんですもん!」
「ぷ。カッコイイだってよ」
ズデンカが珍しく吹き出した。
ルナは微笑みながらもぐもぐとそら豆を咀嚼していた。
「ほんとですってば! ルナさまみたいな方、他には見たことないですよ。こんなに賢くて世界各地を見て回っている人なんて」
「それじゃあ、ヴィルヘルミーネさんの成功を祈って!」
照れ隠しのつもりか、ビールがなみなみと注がれたジョッキを高々と掲げるルナ。
「ルナの酒癖は悪りぃぞぉ!」
ズデンカはヴィルヘルミーネに忠告した。
「うふふふふふ」
ヴィルヘルミーネは朗らかに笑った。
それから五日ほど経ってもホフマンスタールに留まり続け、書き物机に坐ったままのルナの背中にズデンカは、
「そろそろ出ねえのかよ」
と催促した。
「最近急な出発に苛ついていた君らしくもない」
「あのヴィルヘルミーネってガキとまた会えないかな、とか思ってるんだろ」
ズデンカは少し意地悪に聞いた。
ルナは黙って鴉の羽ペンを走らせていった。
「なかなか良い奴だったよな。だからと言って舞台に出られるかは分からないがな」
「彼女のことだ、きっと上手くやってのけるさ。よし、終わりっと。さあ散歩にいこうか」
ルナは立ち上がった。帽子とマントを探しにいく。
「はいはい」
ズデンカはいつも通り着換えるのを手伝った。
二人は往来の激しい道を選び、ぶらぶらと歩いた。骨董市など、ルナは欲しいものを見付けるとすぐに走り寄って買ってしまう。ズデンカが止める暇もないのだった。
「馬車に積むのが大変だぞ」
戻ってきたルナをズデンカは腕組みして待っていた。
「小さいやつばかりだからいいだろ。重いと思ったら『仮の屋』に送っておくし」
『仮の屋』とはルナがオルランド公国首都ミュノーナに設けた邸宅だ。かさばる品物を手に入れるとルナは高い輸送費を払ってそこへぽんぽんと送りまくるのだった。
「あのな、あたしがどんだけ……」
旅を伴にしたここ一年ちょっとはズデンカが出来る限り安く引き受けてくれる業者を選んで工面してやっていたのだが、そんな苦労もルナは素知らぬ顔だった。
「ちょっと、あれはヴィルヘルミーネさんじゃない?」
ルナは歩道の向かい側を指差した。確かにヴィルヘルミーネが歩いていた。
しかし、その顔は蒼白く、服も着の身着のままのようで乱れていた。手足はアブサンや阿片に中毒した者のようにブルブルと震え、足どりは覚束なかった。
「演劇の練習でもやってんのか?」
「いや、そうじゃないみたいだよ。渡ろう」
ルナの顔から笑みが消えていた。
ヴィルヘルミーネは近づいてくるルナとズデンカを大きく瞳を見開いて見つめた。頬には大きく滲んだあざが出来ていた。
「やあ、演劇講座はどうでした?」
そこに輝きはもうなくなっていた。
手を伸ばしたルナに向かって絹を裂くような悲鳴を上げ、ヴィルヘルミーネは異様な走り方で逃げていった。
ルナはショックを受けたかのようにポツンと取り残された。
「どうしよう」
「どうしよう、じゃねえだろ。やつに何かが起こったんだよ!」
「でも、本人があれじゃ……」
「あの夜、仕事先の店を聞いておいたぜ」
「でかした! 早速行こう」
二人はヴィルヘルミーネの勤め先の一つであるパン屋へ向かった。それほど離れた場所ではなかった。
「これはこれはペルッツさま! ヴィルヘルミーネちゃんとお知り合いだったとは」
パン屋の女主人は困った顔で告げた。
「ヴィルヘルミーネさんの様子、最近変わったところはありませんでしたか」
「それがね。リヒテンシュタット先生の演劇講座に行くって話してた日から一度も出勤してないのよ」
「ええっ!」
ルナは驚いたようだった。
「ほんと頑張り屋さんな娘ですよ。俳優になるにはお金が掛かるからって幾つか仕事を掛け持ちして、毎晩遅くまで働いて。わたしもあの子と同じ村から出稼ぎに来てるから、ご両親から頼まれてるのよ。心配だわ」
「ヴィルヘルミーネの下宿は分かるか?」
世間知のあるズデンカはとっさに聞いた。
「ああ、それなら……」
女主人から教えて貰ったヴィルヘルミーネの下宿を目指す二人。
本人らしき影が扉に消えていくのが目に入った。
「急ごう。嫌な予感がする」
そう言うルナを横抱きにして物凄い速度で駆け抜けるズデンカ。
周りの人々はビックリした顔で見つめていた。
扉を蹴立てて開け、ルナを降ろして二階へ先に上がるズデンカ。
「おい待てよ! ヴィルヘルミーネだろ?」
ヴィルヘルミーネは綺麗に整頓された部屋の窓辺に置かれた机にぐたりとなって上半身を預けていた。
ルナも急いで部屋へ入ってきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。逃げるつもりはなかったんです。お二人を避けたくなかったんです。なのにっ!」
ガタガタと震えながら泣き叫ぶような大声を上げていた。
「どうかしたの?」
ルナはその肩に手を掛けようとした。
「近づかれるのが怖くって!」
呻いてそれを避けるヴィルヘルミーネ。顔を見られたくなさそうに両腕の中に押し隠した。
「リヒテンシュタットに何かされたんだろ?」
「講座で起こったこと、言っちゃダメなんです。言ったらルナさまにも迷惑掛かるし、わたしも……」
「言わないと分からないだろうがよ!」
ズデンカは勢い込んで言った。
「怖いんです。ずっと頭の中で繰り返されて、止まらなくて。言葉に出来なくなって、それをやろうとするとまた甦ってきちゃう。だからもう嫌! 本当は家の中にずっといたくないんです。考え込んでしまって。ずっと、触られているような気がしてしまって」
ヴィルヘルミーネは両手で顔を覆った。
「考えちゃいけない! 何も考えないで」
ルナも思わず叫んでいた。
「考えちゃいけない……いけない、いけない。そうだ……」
ズデンカも止められないほどの早さで、机の上に登ったヴィルヘルミーネは、窓から外へ飛び下りた。
ズデンカは何も言わずすぐに階段を駆け下り、ヴィルヘルミーネを追った。
膝を開き、両手を押し広げるかたちでヴィルヘルミーネは石畳の上に倒れていた。幸い二階からだったのでさほど傷はなかったが、流れる血痕は泥と混じって点々と広がっていた。
通行たちは驚いてあたふたしている。
「医者を呼べ!」
ズデンカは怒鳴った。パン屋の女主人が走ってきた。
「何が起こったんですか?」
「ヴィルヘルミーネが飛び降りた!」
「ええっ!」
急いで医者がやってきた。ヴィルヘルミーネは担ぎ上げられて一階の大家の部屋に寝かされた。
気を失ったその顔は死人のように生気がなかった。
ルナは起こっていることをただ見つめているばかりだった。
静かに俯き、表情も変えずに。
ズデンカはその肩を叩いた。
「行くぞ」
「うん」
わざわざ言葉を交わさずとも、二人に行き先は分かっていた。
――リヒテンシュタットの元へだ。
ヴィルヘルミーネが何をされたのかも二人には分かっていた。
リヒテンシュタットの邸宅は稽古場にも改装されていて、いつも多くの演劇人が出入りしていることで有名だった。
ただ、二人が選んだのは深夜だったので、周りは静かだった。
綺麗に刈り込まれた生垣の上で窓の明かりが煌々と灯っている。人影が幾つか過ぎっていった。
門番もおらず玄関の鍵も掛かっていなかったため、二人は簡単に中へ侵入できた。
騒ぎ回る男たちの声が廊下まで聞こえてきた。
女たちの声も聞こえたが、それは苦しそうで誰かに助けを求めているかのようだった。
部屋に近付き、壁の前にズデンカは立った。
「やめて! やめてください!」
「やめろっ言葉の意味はもっとやって欲しいってことだよ、俺はね、分かってる」
男の声はふざけていた。
「良かったぜ」
ズデンカは言った。
「部屋の中にいるやつらがド屑で」
壁へ拳を叩き付けて突き破った。漆喰がひび割れ、腕が中へ吸い込まれた。
数秒後に再び引き出されたとき、拳はどす黒く染まっていた。
ズデンカは舐めた。
「その方が殺しがいがある」
驚いて部屋の外へ飛び出してきた男の喉にズデンカは噛み付き、血を飲み干した。
男が床へ崩れ落ちると、二人はするりと室内に入った。
何名かの俳優が酒を飲みながら、傍に坐る女に無理に勧めるかたちで無理に飲ませている最中のようだった。
ズデンカが壁を突き破った拳は正確に心臓を貫いていたらしい。血を吹き出して倒れる男を放り出して、既に半裸に近い格好になっていた一人の女が部屋を飛び出した。
他の女たちも次々と逃げていくがべろべろに泥酔して出られない者もいた。
「貴様ら、何者だっ!」
例の舞台でポール役をやっていた俳優が近付いて来た。手には火掻き棒が握られている。
前まで迫ったかと思うと凄い勢いでズデンカの顔に打ちこむ。
とたんにポールの首は胴体から離されていた。
「お前らのやってることは犯罪だぞ!」
ロップス役の俳優がいきり立った。そう言いながらも嫌がる女の身体を触っていた。
ズデンカは有無を言わさず爪でその顔を抉った。目玉が床へ飛び出す。
続いてズデンカはロップスの頭を壁に叩き付けて潰した。そのまま亡骸に組み付いて勢いよく血を啜り始めた。
「おやおや、大層なご客人なことで」
冷や汗を掻きながら、泥酔させた女二人を傍に置いて髭面の鋭い目をした男が言った。
「リヒテンシュタットさま、はじめまして。わたしはルナ・ペルッツと申します」
「これはこれは。高名なペルッツさまではないですか。しかし、このなさりよう。ご挨拶としてはいささか手荒じゃありませんかね?」
飽くまで微笑みを形作りながらリヒテンシュタットは言った。
「実はわたしの友人であるヴィルヘルミーネさんが、あなたの開いた演劇講座に行って以来様子が変なのです。先ほどは自殺未遂を行いまして」
ルナは無表情のまま続けた。
「それがどうか致しましたか。講座にくる若者などたくさんおりましてね。わざわざ覚えておりはしません」
リヒテンシュタットは呆れ果てたような顔になった。
「黒髪を後ろで括った方でした」
「そういう人もいたかも知れませんね。そりゃ確かに講座からプロになった者もいますが、講座に出たからと言って有名になれるわけじゃないんですよ。厳しい世界なんです。ペルッツさまは演劇畑ではないのでご理解頂けないでしょうが」
「ヴィルヘルミーネさんは、頑張って一生懸命俳優になろうとしていました。店に出て働いて、自分でお金を稼いで。わたしならとても出来そうにない」
ルナは言った。リヒテンシュタットに近付いていく。
「だからどうだと言うんです。繰り返しますが、プロになれるのはほんの一握りなんです。思い出しましたよ。その娘さんとは今あなたの連れ合いが殺した者たちとお酒を飲みました。それだけですよ。今日みたいに大勢で集まっていたんでね」
ワインを一息に飲み干してリヒテンシュタットは言った。
「ほんとうにそれだけですか」
「そりゃね、ちょっとやそっとばかり身体の接触はしましたよ。泣いていましたっけね。もっと飲ませてからの方がよかったかな。遊んでやりましたからね。手荒でしたか。でも、枕営業ぐらい、俳優を目指している女は当たり前にしますよ。代わりなんて幾らでもいるんです。後で金をせびってきたりね、死んだみたいな話一杯ありまして。脱いでなんぼのもんじゃい、のしあがったるわみたいな図太い女の方が、私らの業界では生き残るんですよ。それが芸術ってもんです」
リヒテンシュタットは下品に言った。
「そうですか。じゃあ、あなたにとって芸術とは――舞台とは、お芝居とは一体何なんですか」
リヒテンシュタットは面食らったようで顎髭を弄り始めた。
「難しいことを質問されますね。芸術ってものは――そもそも女には理解できんのですよ。子供を産める女にはね。男は産めないからこそ、頑張って芸術を残そうとする。そんなもんですよ。おっと失礼、ペルッツさまも女性でしたね。早い話、ある種の独占的な狂気、妄執の持ち主しかいい作品を作れないんですよ。私は私だけのためを考えてお芝居を、舞台を作っています。俳優も、美術も、結局私という芸術家の手駒に過ぎないんです。稀にいい材料だと思った女だけひょいっと摘まんで舞台に出してあげる、みたいな感じですかね。そういう芸術家の意志を反映させるかたちでこそ素晴らしい作品は生まれないんじゃないでしょうか」
ルナは部屋に入って初めて微笑んだ。だがそれは冷たい笑いだった。
「なるほど、よく分かりました。あなたは舞台をご自分お一人の者だと考えていらっしゃる。他と協力することなく、自分独りだけで、独占するものと。もちろん、そういうお考えがあってもよろしいと思います」
「ご理解頂けたようでありがたいです」
リヒテンシュタットはまた酒を飲んだ。
ルナはライターを取り出し、パイプに火を点けた。
「では、これからやることはわたしの個人的で独り善がりな私怨からの復讐です。友人の――ヴィルヘルミーネさんの瞳の輝きを殺したことに対する、ね」
「なっ、何をなさる……おつもりですか」
そう言ったリヒテンシュタットは怖じ気づきながら立ち上がり、本棚の方へ逃れていった。
「しけた幻想に報いあれ」
煙がその顔に吹き付けられた。
はたと気付けばリヒテンシュタットは太陽の照り付ける崖の上に縛り付けられていた。
激痛に襲われた。己の内臓はかっさばかれて淋漓《りんり》と血を流している。結ばれた縄は赤く染まっていた。
「いでえ、いでえ、だずけてくれええ」
リヒテンシュタットはすぐに泣き叫び出した。
しかし、誰も助けはやってこない。
頭上で弧を描いていた鷲が何羽も舞い降りてきて、リヒテンシュタットの内臓を啄んだ。
「ごれは……おれのぉ」
これは自分が戯曲『犠牲』に書き付けたものと同じだ。
リヒテンシュタットは叫び続けた。
「いでえ、いでええええいでえええっ」
数百度啄まれただろうか。内臓はぼろぼろになり、血は流れきった。しかし、リヒテンシュタットは死ねないのだ。
「じなせてぐれぇ、じなせてぐれぇ!」
そう喚き叫んだところで、己の部屋の中に戻っていることに気付いた。
「あなたがご自身でお書きになったことですよ」
ルナが見おろしていた。
「書いたからといって、それを体験したいわけではない!」
リヒテンシュタットは顔を真っ赤にして怒った。
「まだまだたくさん残ってますよ。えーとお芝居の筋書きじゃあどうだったかな? 犯され殺されたドニーズと娘さんの分はあるな、決闘で右目を負傷すらあたりかな? 公演回数分だけ繰り返して貰いましょう」
「いやだあっ、いやだぁ!」
そう叫びながら背後を手探りし、リヒテンシュタットは一冊の本を書棚から抜いた。
「あの芝居はこれが原作だ! だいぶ改変したが内容は同じだぁ! 俺のオリジナルじゃねえ!」
その手には禍々しい金文字で『鐘楼の悪魔』と書かれていた。
リヒテンシュタットは本を高々と掲げた。
すぐさま、黒い色の炎のようなものがその身体へ広がっていき、全身を覆い尽くした。
声にならない呻きのようなものを上げ、リヒテンシュタットの身体は大きく変容していった。爪は長く伸び、角が生え、大きな翼が広がった。
全身を黒い毛で覆われた、丈の高い獣。
「ルナ、危ない!」
ズデンカがルナの身体を押さえて遠く引き離した。
リヒテンシュタットだったものが咆吼し、爪の一撃を繰り出したのだ。同時に羽ばたきが始まった。
「あれは、悪魔だ」
ルナは静かに言った。
「何をやればいい?」
ズデンカは訊いた。
「やつの懐に飛び込んで!」
ルナは叫んだ。
「やれやれ、分かったよ」
ズデンカは言われた通り悪魔の胴体に組み付いた。
轟く音が響き、天井が裂け、巨大な穴が開く。羽ばたく悪魔とズデンカは屋根を突き破って外へと飛び出した。
物凄い勢いで両者は夜空の星の中をきりもみ旋回を続け上昇する。
揉み合い、爪で身体を切りつけ合いながら、互いに争っている。ズデンカはいくら斬られても涼しい風で、傷はたちまちのうちに塞がっていった。
やがてズデンカの爪は悪魔の翼に大きな穴を開ける。
悪魔は絶叫した。
「あたしと墜ちるんだよ、あんたはな」
ズデンカは翼に張られた皮膚をことごとく指で引き剥がし裂いた。
羽ばたきを失った悪魔とズデンカは真っ逆さまに落ちていく。
リヒテンシュタットだった悪魔は藻掻いて、苦しそうに両手を動かした。
ズデンカはその喉を抉り、頭蓋まで腕を刺し貫いた。
それと大地への衝突がほぼ同時だった。
両名の四肢は粉々に砕かれ、見分けが付かないほどになった。
だが、ズデンカの破片は即座に元の形へ集まり、姿を取り戻した。
「へい、いっちょあがりだぜ!」
ルナが館から歩いてきた。
「やつの破片があたしの身体に混ざり込んだりしてねえだろうな。うえっ、気持ち悪りぃ」
メイド服が砕け、裸になったズデンカは血糊を払った。
「屍体の後始末が残ってるよ」
ルナは抱えた毛布をズデンカに被せた。
「またあたしにやらせんのか」
「生憎わたしは力仕事がからきしでね」
「はいはい」
ルナは静かに笑っていた。
「また『鐘楼の悪魔』が現れたな」
ズデンカは不安げに言った。
「わたしが読んだものとあのお芝居はまったく内容が違う。おそらく、読んだ人間の心の中にある邪悪さを例の本は倍増させるのだろう。世の中にあっちゃ危険だ」
ルナは手が汚れるのも構わずぐちゃぐちゃになった悪魔の残骸の中から本を引き出して、ライターで火を点けた。
「残らず燃やさなきゃ」
「その前にあたしの代えのメイド服を何とかしてくれよ」
「このままの方が良いんじゃないのかい? 風通しもよくってさ」
「やーだよ。誰がこんな格好で歩けるかってんだ」
二人は代えの衣装が置いてある馬車に向かって歩き出した。
自分と並んで歩くどこか憂いを帯びたルナの横顔に、もう二度とこの都市には戻ることはないだろうなとズデンカは思った。
ヒルデガルト共和国ホフマンスタール近郊――
明け方には二人の乗る馬車の他は何も走っていない。
道脇に生い茂る草木はまだ眠ったように身動きしなかった。
「挨拶しないで良かったのか」
馭者台に坐ったズデンカは後ろを見ずに聞いた。
どちらにしても馬車には幌が被せられているのでルナの表情は見えないのだが。
「恐がるだけだろう」
「ヴィルヘルミーネとは、あんなに盛り上がった仲じゃねえか。友達にだってなっただろ?」
「いいんだ。わたしは人とはずっと仲良く出来ない性質《たち》だから」
その声は明らかに沈んでいた。
「孤独癖かよ。その割にあたしとは長く続いているじゃないか」
「君は人ではないだろ」
「まあ……そうだな」
「辛い目に遭った人に掛けられる言葉がない」
ズデンカはどう答えるか迷った。ルナもまた過去に辛い目に遭っただろう。なのにヴィルヘルミーネには寄り添えないのだ。
「そんなものか」
「うん」
言葉なく時間が過ぎた。
「……忘れさせてあげればよかった」
ルナはぽつんと言った。
「だが、それは」
「無理にでもヴィルヘルミーネさんの綺譚《おはなし》を手帳に書いておけばよかった。したら、リーザさんみたいに嫌な記憶を忘れさせてあげられた」
その声は震え、涙が滲んでいるようにも思えた。
「あいつはお前の蒐集に値する話を持ってなかったし、そんなつもりもなかったじゃねえか!」
ズデンカはルナと言う人間が分からない。
血の雨が降る処刑場でもへらへら笑って見ていることが出来るかと思えば、こうして些細なことで――ズデンカにとったら些細なことで、気分を落とすのだから。
「でも、わたしはやれなかった」
「できねえんだよ、願いには対価がいるって決まりだろ」
どう言う理屈かは知らないが、ルナは綺譚《おはなし》を聞かせてくれた相手の願いを叶えることしかできない決まりがある。しかも、何でも出来る訳ではない。
「でも」
「あいつだって記憶を消してくれることを望んだかどうかも分からない」
「望んださ。これから昼日中、夜寝ていても繰り返し繰り返しその時のことが甦ってくるんだ。地獄だよ。消せるなら消したい記憶はわたしだってある」
ルナはきっぱりと言った。
「あいつは死ぬことを望んだかも知れないぜ」
答えはなかった。
「苦しい思いが繰り返し湧いてくるなら命を絶つことを望むかも知れない。お前は叶えてやれたか」
「やれた」
怒られた子供が答えるような言い方だった。
「どっちにしてもあたしらは人殺しだ。すでに何度も手は汚しているけどな」
「ヴィルヘルミーネさんの耳には入れたくない」
「有名な劇作家の失踪はすぐ広がるだろう。元の姿を留めちゃいないからな、あれは」
ズデンカは皮肉っぽく笑った。
「もし聞いたりしたら」
「気にすんな。パン屋のおばさんが親元に連絡しようって大家に話してるところを小耳にはさんだ。生まれた村に帰るだろうさ」
「なにかで知るかも」
「そこまでいったらあたしらの関わるとこじゃない。もう二度と会う相手じゃねえんだ。お前もそのつもりで旅立ったんだろ?」
「そうだね」
「ヴィルヘルミーネも一人の芸術家だ。己の身の振り方ぐらいは任せようぜ」
ルナは納得したらしい。
「寒い」
歯の根が鳴る音がして、ルナが震えていると分かった。
「あたしの使った毛布を使え。リヒテンシュタットの持ち物が嫌じゃなければな」
似たようなやりとりをするのは何度目だろう。元来、季候の変化に鈍感なズデンカは、寒がりなルナと旅することで気遣いを覚えたのだった。
ガサゴソと動いて毛布に丸まる様子のルナを想像してほくそ笑みながらズデンカは馬を進めた。
