月(ルナ)は笑う――幻想怪奇蒐集譚 第十話 女と人形
トゥールーズ人民共和国南部――
綺譚収集者《アンソロジスト》ルナ・ペルッツは生理中だった。
エルキュールから馬車で旅立ってすぐになったのだ。予想より少々早かった。
メイド兼従者兼馭者の吸血鬼《ヴルダラク》ズデンカは血の臭いにだけは敏感なので、すぐに察知し、いつも通り世話してやろうとしたが、
「いい。自分でする」
とルナは幌を被せた馬車の中に閉じ籠もってしまった。
ヘルキュールでショックなことがあり、もともとルナは不機嫌だったが、さらに一層ふさぎ込んでしまったらしい。
――そろそろ親離れか。
とズデンカは心の中で思いつつ、馬車を進めた。
もちろん旅の間に何があっても良いように生理用品は買い貯めてあるが、どの街でも充実している訳ではない。昔ながらのやり方で済ませている地域も多いのだ。
黒や濃紺色の服が好きなルナは、少しぐらい汚れても大丈夫とは言い張っているが。
「何も手を貸さないで良いのか?」
ズデンカは後ろに声かけた。
「昔は一人でやってたんだ。他の身の回りのことと同じく、君が手伝い出したから、仕方なく従ってただけで……」
ルナの不機嫌そうな声が幌から聞こえてきた。
「まあ、あたしも過保護過ぎかもな」
「過保護だよ……。ほんと、しんどい。こんなのなくなってくれたらって思うよ。子供なんて産まないのに」
「じゃあ、吸血鬼になればいいさ」
ズデンカは珍しく暢気に答えた。
人間なら伴うあれやこれやからはすべてズデンカは二百年以上前におさらばしていた。正直他人事だったが、ルナが辛いなら少しだけでも肩代わりしてやりたく思った。
「やーだよ。人間の方が面白いもん」
ルナは子供っぽく答えた。
「じゃあそのままでいな」
ズデンカは無慈悲に笑った。
二人はトゥールーズの南側を目指しているのだった。そこから東へ抜けてランドルフィ王国へ入る予定だ。
オルランドに一度戻ろうとは思うのだが、エルキュールにて取り寄せた新聞によれば、ヒルデガルトで起こった劇作家リヒャルト・フォン・リヒテンシュタットの失踪事件とルナの関係性が話題になっているのでズデンカは迂回を考えたのだ。
宿は取らず、一気に駆け抜けようと考えているのだが。
「いけるか?」
「うーん」
ルナはうなった。
「じゃあ、どっかで宿を取るかねえ」
ズデンカは周りを探した。
「なんか、この近くの家で招待状貰ってた気がするんだけど」
ルナは聞いた。
「探せよ」
「えーと、えーと」
幌の中でガサゴソと音がした。
ルナは怠そうに名刺入れを探っている様子だ。
「あったあった。ヴィルヌーヴ荘」
「貸せ」
ルナの手袋をした手だけが幌に掛かったカーテンから突き出された。
単体で見ると意外に細いなとズデンカは思った。
「オクターヴ・ロランか。変な名だな」
「トゥールーズでは珍しくもないよ。君は知らないだろうけど」
ルナは言った。軽口を叩ける程度には元気らしい。
「じゃあ、そこを頼るか」
ルナの返事はなかったが、ズデンカは同意と見なして馬を走らせた。
丘の急な勾配を越えると、広大な敷地と綺麗に手入れされた花園が姿を現した。
ヴィルヌーヴ荘だ。
ルナを乗せた馬車はゆっくりと玄関に続く歩道へ滑り込む。
執事が顔を見せて挨拶した。
「これはこれは、高名なルナ・ペルッツさまではないですか」
「顔で分かりましたか」
少し顔を歪めステッキを突きながらルナは馬車の昇降台を下った。
先に降りていたズデンカは心配そうに目をやる。
「新聞ではよくルナさまのお写真をお見かけしますからね」
執事は言った。
「以前どこかでご主人・ムッシュー・ロランから招待状を頂きまして。幸い近くを通ったので、ぜひ一夜の宿を乞いたく思い、参上させて頂きました」
ルナは出来る限り笑顔を浮かべて、来意を告げた。
「それは願ったり叶ったりです。ちょうどロランさまも身内だけを集めて今季のパーティを開かれていたところだったのですよ」
「ご相伴《しょうばん》に与りたく思います」
ルナはフラフラしながら執事の後に付いていった。
ズデンカはルナが倒れたりしないように後ろから観察して歩いた。
シャンデリアまで吊された大広間に通され、主人オクターヴ・ロランと対面する。
髭を伸ばし、偉そうにピンと上へ跳ね返らせていた。
「ヴィルヌーヴ荘によくいらっしゃいました、ペルッツさま。もう二年前でしょうか。エルキュールに滞在されていた時にご挨拶させて頂きました」
と言って幾つも宝石を嵌めた指輪で飾った手を差し出す。ルナは握り返した。
「覚えております。それにしてもご立派なお姿ですね。近頃流行りのダンディというやつですか」
ルナはお世辞を言った。もちろん、覚えていないのだろうと黙って傍に控えるズデンカは思った。
「頽廃の限りを尽くしておりますからな。この屋敷は私の『悦楽の園』とでもいったところで」
「よほどお楽しみなようですね。ぜひ拝見したいなあ!」
ルナは笑った。
「ペルッツさまにはぜひ気に入って頂けるかと思いますよ」
「もしや、何か綺譚《おはなし》をお持ちなのですか?」
濁っていたルナの瞳が突然輝き始めた。
「最近、私も作家の真似事を始めましてね。地下出版というかたちで本を出しているのです」
ロランはニヤリと笑った。
「それは面白い」
「実は今日はその朗読会を行いたいと考えているのです。好事家連中を集めてね」
「なるほど、それが執事さんの仰っていた『今季のパーティ』というやつですね」
「そうです。ぜひ参加して頂けませんか?」
「メイドも一緒で良いですか」
「もちろん。ですがメイドさんにはいささか刺激が強すぎるかも知れませんけどね」
好色そうな視線を向けられてズデンカは思わずにらみ返した。
「ずいぶんお気の強い娘さんのようだ」
ロランはまだニヤニヤ笑いを続けていた。
「うちのメイドも刺激の強いものに慣れていますので大丈夫ですよ」
ルナはあっさり答えた。
「なるほど。ではこちらへ」
ルナとズデンカは図書室へ案内された。
さまざまな言語で書かれた本が取り揃えられてある。もちろんルナの『綺譚集』も全巻並べられていた。
だが、ロランはそこには目もくれず、部屋の隅の方へと歩いていった。
やがて、一つの可動式の書棚を横へ退けた。
するとそこには棚はなく、地面に大きく矩形の穴が開いていて、地下へ繋がる階段が続いていた。
「よくある仕掛けですね」
ルナは微笑んだ。
「古い家ならどこでもありますよ」
ロランが応じた。
薄暗い。ルナはライターを、ロランは蝋燭を灯しながら進んだ。ズデンカもルナへの配慮から来る習慣でカンテラを灯すことはあるが、暗闇には慣れているので、なくてもそのまま歩ける。
意外と段数があった。転げ落ちたりしないよう一段一段確かめながら闇の奥へ進んでいく。
鎖が地面を引きずる音、あえぎ声のような声が聞こえて来た。
細い扉から光が見えている。
三人はそこを通り抜けた。
想像以上に広いホールだった。大理石で作られた古典風な座席に幾人もの先客が座り、中央にある舞台を凝視していた。
そこには鎖に繋がれた女がいた。年齢はルナより十歳は若いだろう。
半裸に近い格好をしている。化粧をして、卑猥な衣装を着崩し、胸を見せていた。
書見台がその前に置かれていて、新しく刷られたと思われる一冊の本が載っていた。
「あれが私の新作でしてね」
女には目もくれず、ロランは言った。
「ははあ、仰っていた地下出版ですね」
「意外に読まれているのですよ。もう何千部も刷っておりまして」
「どんな内容か気になりますね」
「いま朗読しているでしょう」
ルナは耳を傾けた。
「陳孝子は三青の××へ×を差し入れた。
それだけで女は甘い××を×らし、身体を××らせ始めた。
××が糸を引き、×り×ちる。
陳は三青を押し倒した。
『ずっと、ものにしたかった!』
耳元で囁くと、三青は×え、××まった叫びを上げるのだった。
陳は三青の××を眺めやった。薄桃色で×も一切×えていないそこは、すっかり××きっていた。
「本当に××な女なのだな、お前は」
「はい、妾《わたくし》は心よりあなたさまと×××ことを願っておりましたのです」
陳は物も言わず三青の上へ××かかった。その××は××して、×××××が×き×ていた。
まるで鍵を差すようにすんなりと××は三青の××へと×まった」
「ポルノグラフィですね。しかも少しばかり中華趣味《シノワズリ》な」
ルナは嫌そうな顔で言った。
「表では流通出来ない異端の文学なのですよ」
満足げにロランは笑った。
「まあ、確かに皆さん感動していらっしゃいますね」
ルナは呆れながらホールを見回した。
席に坐るのは男ばかりだった。皆興奮したように鼻息荒く、手をどこぞへと突っ込みながら見つめていた。
「そりゃそうでしょう。日頃より勝手気ままに振る舞う身の回りの女どもへ鬱憤を溜め込んでいる私たち男は、せめて創作の中でだけ女を人形にして弄んでやろうとするんですよ。まあ、この話には人品骨格卑しからん陳が女で堕落していく、という筋もあるのですけどな」
「なるほど、勝手気ままに思われているとは。これからわたしも態度を改めねばなりません」
そう言って、ルナは優雅に一揖した。
「ルナさまがそうだと言っている訳ではありませんよ。概してのお話です」
ロランは微笑んだ。
「読んでいらっしゃる女性はどなたですか?」
「死んだ後妻の連れ子でしてね。名前はメリザンドです。ああ言う格好で読ませれば少しは華になるでしょう?」
「ご本人は望まれているので?」
ルナは訊いた。
「もちろん心から望んでおりますよ。まだ幼い頃からずっとああやって私のポルノグラフィを読ませているのですから」
「ぜひ、お話を聞きたいな」
ルナはモノクルを光らせた。体調が少し良くなったのかとズデンカは思った。
「読み終わった後で呼びましょう」
「では、お願いします。わたしはちょっとお手洗いへ」
ルナはそう言って一人で階段へと向かった。
ズデンカはそれを心配そうに見つめ、付いていこうとしたがロランに呼び止められた。
「おい、君、この小説を読め」
と言って薄っぺらい冊子を手渡された。
また別の本らしい。
「ここの地下書庫にはね。世界各地から集めたポルノグラフィが大量に眠ってるんだよ。まあ私の自慢のコレクションと言ったやつさ」
ズデンカは何も言わずに受け取りページを開いた。
「たわわなまでの××を×みしだき、ダニエルは接吻《くちづけ》た。
『先生、止めてください、私……』アンは吐息した。だが、その言葉とは裏腹に、瞳は潤みを帯びてダニエルを見つめていた。
『何をして欲しいか、言いなさい』
いつもの授業のように、ダニエルはアンに問いかけた。
『先生の×××××を』
『それだけじゃ足りないよ』
『先生の×××××を私の……××、××××の中に入れてください』
『もっと言葉を費やして』
ダニエルは笑いながら言った。
『先生の×く××した×××××を私の×れ×れで××××××になった××な××××に突っ込んでください!』
『よし』
ダニエルはアンを押し倒し……」
とここまで読んだところで、ズデンカはロランが自分の胸へ手を伸ばしてくるのを目の端で捉えた。
ズデンカにとってはとてもゆっくりとした動きに見えたが、瞬時に起こったことなのだ。
ズデンカはその手をひょいと軽く掴んで、ロランの身体ごと背中に抱え、前へと投げ落とした。
「ぎゃあ! ……いでででっ!」
床でのたうち回りながらロランは呻いた。
「いきなり何しやがるんだ」
ズデンカは両手を打ち合わせてパンパンと払った。
「召使いの女はだいたいこうすれば何もしてこないものなのだが……恥じらう様子すら」
「あのな、それはお前が怖くて何も出来ないだけだろ。主人という立場を笠に着やがって。まさか興奮しているとでも思ってんのか?」
ズデンカは腰に手を当てて呆れながら言った。
「口答えしてくる女も良いものだな」
ロランはゆっくり立ち上がった。
「お待たせしました。もう朗読も終わりですかね?」
ルナが微笑みながらこちらに歩いてきた。
確かに、中央で鎖に縛られながら立っていたメリザンドはもう声を上げていなかった。
代わりにその周りには座席から歩いてきた男どもが群れをなしており、メリザンドの身体を触りまくっていた。
「あのままにしておいても良いんですか?」
「いいですよ。実際に裸の女に触れて頂いて、楽しんで貰おうって趣向です。実際ペンチやライターなども置いて何でもやってくださいとお願いしたこともありましたよ」
「そしたら、どうなったんです?」
ルナは興味深そうに訊いた。
「皆さん羽目を外し過ぎましてね。メリザンドが血だらけになりそうだったので止めさせました。流石に愛娘を失いたくないですからな。ハッハッハ!」
偉そうにロランは笑った。
「なるほど、まるで人形なんですね。しかし、その所業。創作の中だけに収まっていませんね」
ルナはロランを見つめた。
「創作を出来る限り現実に近づける方法なのですよ。実際、高額なカメラを買って、映画にしようとも考えております。将来的に映像の技術が進めば、安い値段で皆が手軽にポルノグラフィを楽しむことが出来るような社会になると考えています」
「そうなるともう地下出版で済む市場じゃなくなりますね」
「最終的にポルノは商業としてなり立つと思いますよ。私のような少人数だけで楽しみたい者からすれば内心忸怩たるものはありますけどね。でも、どんな凄い官能作品が作られるかと楽しみでなりません。異端を愛する者からすればね」
「まあ、その時代にはわたしもあなたも生きてないでしょうけど」
ルナは笑った。
「仕方ないですよ。次の時代を担う若者たちに任せましょう」
そういってロランはメリザンドへ歩いていき、鍵を外してルナとズデンカの元へ連れてきた。
「『綺譚集』を出されたペルッツさまだ。挨拶せよ」
「初めまして、メリザンド・ジョンキーユです。母の夫の姓を名乗らせて頂いています。よろしくお願いします。ペルッツさまのまとめられたものを朗読したことがありますよ」
メリザンドはにっこり笑って一礼した。
「へえ、そうなんですか。そんな綺譚《おはなし》まとめたかな? 艶笑譚風のものは幾つかありますけどね」
「なかなか好評でしたよ!」
「ありがたいですね! わたし自身は朗読会とかさっぱり行かないもので。人が読むのを聞いたこともないし、聞く気もない」
「お読みしましょうか」
メリザンドは微笑みを崩さず言った。
「いえ、遠慮しておきます。それより新しい綺譚《おはなし》が集めたくてうずうずしてるんです。最近書く機会がなくってね」
と言ってルナは懐から手帳を取り出した。
「ペルッツさまらしいですね。いえ、本からうかがい知るお姿のみですが」
メリザンドは微笑んだ。
「あなたも綺譚《おはなし》をお持ちなら、ぜひ教えて頂きたいです」
「あることはあるのですが……お話ししてもよろしいでしょうか、お父さま?」
メリザンドは少しぎこちなく、ロランの方へ顔を向けた。
「まあ、いいだろう。話しておあげ」
「ルナさまとお二人だけでお話ししたいのですが……」
「ふむ」
ロランの顔に一瞬嫌そうな表情が浮かんだが、
「よろしい。上の階に案内して差し上げなさい」
と応じた。
「ぜひ伺いたいですね。ただし、メイドも同伴です」
ルナは条件を付けた。
「えっ……」
メリザンドは不安そうにしたが、
「うちのメイドは口が硬いので」
とルナは念押しした。
「では……」
と言いながらメリザンドは先に立ってルナとズデンカを案内した。
慎重にあたりを見回しながら。
「探したんだろ?」
階段を上がり終えた後、ズデンカは小声になってルナの耳元に囁いた。
「うん。でも見つからなかった。絶対あると思うんだけどなあ、『鐘楼の悪魔』が。もちろんお手洗いも使ったけどね」
「嫌な予感がするぜ」
「同じ思いだ」
後は二人とも黙って歩いた。
一階に辿り着くと、図書室を抜け玄関まで移動して、また二階へ上がる。
吹き抜けになっており、手摺りから階段を見おろせば、一階の様子が手に取るごとく見えるようになっていた。
メリザンドは自室に案内した。ルナとズデンカが中に入るが早いかメリザンドは奇妙なことをした。
「こちらです」
本棚を凄い勢いで閉まった扉に置き、さらに被せるように衣装棚を持っていったのだ。
どちらも重いものに思われたが、メリザンドは顔を赤くして引きずっていった。
「いきなりどうしたんだ」
最初はビックリしていたズデンカも手を貸してやる。
「こうやれば少しは声が漏れなくなると思いまして。父や忙しい時は執事たちが訊き耳を立てているんです」
「知られたらまずいことなのか?」
「あまり、良いことではありませんね」
「面白そうですね。ぜひ話してください」
とルナは手帳を開き、鴉の羽ペンを手に取った。
「あくまで私の話、ということになりますが……」
「みんなそうですよ。あなたの物語が一番面白い」
ルナはにっこりと笑った。
「では最初に訊きますが、私の格好を見て、ルナさまはどう思われたでしょうか?」
「扇情的だなあ、と思いましたよ。そして、それはムッシュー・ロランに命じられたものではないか、とも」
ルナはペンを動かしていった。
「ご賢察の通りです。私は父――いえ、オクターヴ・ロランから、この格好をするように強制されています。でも表向きは喜んでいるようにみせないと怒られるのです」
「あの調子じゃなあ」
ズデンカはため息を吐いた。
「この家は異常です」
吐き捨てるようにメリザンドは言った。
「義父とは言え、娘にこんな服を着せる親はおかしいですね」
ルナは文字を書き進めながら言った。
「出ていきたいです。でも、私には生活する力がありません」
「あなた以外にもいらっしゃるのでしょう? この家に囚われている女性が」
「どうしてお分かりになったのですか?」
「鎖の音は複数聞こえて来ました」
「はい、ロランは身寄りのない娘たちを連れてきて地下に閉じ込めています。私は辛うじて部屋を与えられていますが、彼女たちはただ見世物として……すみません、私のことばかり。本来ならその娘たちを何とかしてくれと頼むべきですよね」
「まあまあ、わたしは綺譚《おはなし》を集めたいだけで人助けをしたい訳ではありませんからね。もっとも」
とルナはモノクルを光らせて、
「あなたが蒐集に値する話をしてくれるなら、願いを一つだけ叶えて差し上げますけど」
メリザンドは唾を飲み込み、ルナを見つめて、
「それではお話ししますね」
と語り始めた。
朗読する役目を負っていたのはもともと母でした。
私は幼い頃からその姿を見て育ちました。
物心ついたのが母とロランが結婚してからだったんですね。実の父親の顔も知りません。
ただ、黄水仙《ジョンキーユ》という姓だけが一族を偲ぶよすがです。
初めのうちは朗読会が性的なものだと理解するのに時間がかかりました。
でも、あの地下室で座っている男たち――いずれも良く知られた人で、新聞などで姿を目にする方ばかりでした――の様子から何となくそう思ったんです。
ご覧になったとおり、物凄い表情になって母を食い入るように見つめています。
私はあまり面白くなかったので、部屋の隅で遊んでいました。
するとロランが近付いてきて一枚の絵を見せました。
「これはな、東洋の『春画』というものだぞ」
絡み合う男女の姿が描かれていました。しかし、幼い私ではよく分かりませんでした。
「男と女はな、みなこんな姿態で結び、ほぐれ合うものだ……悦びを知るものだ。そうでない者は片輪だけだ」
力強い口調でロランは言いました。
でも、わたしは正直今でもその意味がよく分かっていません。
その『春画』とやらで描かれる行為が好ましいものだとは思えないのです。もちろん、頭では子供を作る行為だし、重要なものだとは分かっています。
でも、でも悦びは理解できませんでした。わたしは片輪なのでしょうか?
少し大人になった後、母に質問してみることもありました。
「母さんはなぜ、こんな家にいるの」
心なしか、違和感を覚え始めていたのでしょうね。
「仕方ないの。いれる場所を探していたらここになったってだけ」
返事はいつもこうでしたっけ。結局私も似たような運命でしたね。
今から考えると戦争が関係していたのかも知れません。母はスワスティカに占領されたエルキュールからここへ疎開してきて、仕事もなく路頭に迷っていたようですから。
先祖代々ヴィルヌーヴ荘を引き継ぐ地主のロランからの誘いはありがたかったでしょう。
殿方に気に入られるよう声を高めてよがり、あえぎ、母の演技は上手いものでした。
端から見て充実しているように見えたものです。
あの頃は毎日のように朗読会が開かれていましたね。知らない顔が入れ代わり立ち代わり訪れてきました。
その皆から母は拍手を受けるのです。
でも、私は退屈でした。庭の外に出て月を眺めている方が良かったんです。
庭にはサルスベリの木が生えていました。花が落ちてしまって、月は少し捩れた枝の間から覗いて、満月の時でも半ば欠けたかのように見えるんです。
今度覗いてみてください。この屋敷の庭にはたくさんの植物がありますが、一番鮮やかな花を咲かせます。
月《ルナ》は……ああ、そうでした。ペルッツさまのお名前と同じでしたね……今も昔も変わらず、私を見てくれています。
色んな角度から眺めましたよ。
欠けてまた満ちる。その繰り返し、でもいつかは元に戻るのですから、安心出来ますよね。
辛い時もいずれ過ぎ去る。
母もそういう風に安心できれば良かったのに。
はい、そうです。
母は自ら命を絶ちました。
あのサルスベリの枝に縄を掛けて首を吊っていたんです。
理由ははっきりわかりません。
その日も私は月の昇るのを見に、庭に出ていました。するとぶらぶらと黒い影が揺れているのです。
朗読会は終わっていました。もう私は参加することすらしていなかったのですけれど。
月光に照らされて一層白く見える足を見たのです。
「母さん」
私は母の膝にすがりついて泣きました。その頬はこけていました。
今では苦悩していたとわかります。でも、当時は幼くてそんなこと理解できませんでした。
私がそれを知るのは自分にその番が回ってきてからでした。
母が死ぬとロランは涙すら見せず、私に代わりをするように言いました。
「お前がやるのだ。母親と同じようによがり、あえぐのだ」
初めはなぜそんなことをやらないといけないのかがわかりませんでした。
「この家で女は俺の人形だ。言うことを聞かないと、どうなるかわかるな」
と脅されもしました。
ベッドに呼ばれて、ロランに抱かれました。身体のいろいろな場所を弄られますが、私は痛いだけで何が面白いのか分かりませんでした。
「一人前の女になったな」
汚れたシーツを指差してロランは笑いましたが、私は嫌な思いがしただけでした。
派手な格好をさせられて、ホールに立たされる生活が始まりました。
何度もつっかえて文字を間違えながら、本を読み進めます。
「母親とは全然違う」
「無理もない。子供だもの」
「いや、子供の方がそそるぞ」
そう言ってお客たちは読んでいる私の肌を撫で擦るのです。
幼過ぎたのですね。何をされているのかよく分かりませんでした。
ロランもそれを許していましたし、正しいことなんだなと思った。
でも、何の感情もわき上がってこないのです。
変な喩えですが、果てのない砂漠の中を一人で歩いて行くような感じで、いくら言葉を尽くした小説を読んでも、極彩色の秘図を眺めても一向に気持ちが昂ぶりません。
でもお客さまを喜ばすため、表向きだけは母のようにあえぎ、悶えることを覚えました。そういう演技は幾らでも出来ますから。
慣れって怖いです。外の世界を知らない私は、他の家でもそれが当たり前なんだと考えていました。
おかしいなと気付けたのは図らずも本を読んだからです。ロランは朗読のためにたくさんのポルノグラフィを読ませましたし、私もうまくなるよう色々な本で練習しました。
中には、普通の生活について書かれた本もあったんです。
ロランは読みもしないようでした。彼は人と掛け離れた突飛な妄想を好み、過激な作品を愛好していました。その中で描かれていることが、当たり前であるかのように信じて暮らしていたのです。
お客たちに犯され、嬲られるのは普通のことになっていきましたね。
裸のまま、テーブルの上に横たわって、いろんな角度から眺められたこともあります。
辛い時もいつか過ぎ去るのだと、私は念じ続けました。
いろいろなところから女の子を引き取ってきて、わたしに同じようなことをさせていました。
でもその子たちと話すことによって、私はもっと具体的に外の世界を知ることができました。
「街に色んな人が住んでるんだよ。好きな時に好きなところに行けたし、こことは大違い」
はっきり教えてくれる娘もいました。ペルッツさまにとったら、なんだそんなことかと思われるかも知れませんが、私は街を歩いたことがないんです。
「いつか一緒にいこう」
私は手を握り合いました。
話す相手が出来ると、想像はもっと広がっていくものです。
私が他の娘と話す様子を見たのか、ロランは彼女たちを引き離すようにしました。
ここ一月ほどは、部屋のどこかから鎖が引きずられる音しか聞こえてきません。
どうしたのでしょうか。
ロランは女を個としてみないのです。類として語り、皆同じであるかのように扱います。
「女が男を人形として支配するか、男が女を人形として所有するか、その二つしかこの世にはありえないのだ」
正しいことなのか、間違っているのか、私ではちゃんと答えを出せません。
ですが、一つだけ、直感で言わせて頂けばただただおぞましいというしかないのです。 私は他の子たちに教えて貰った外の世界に焦がれるだけです。
叶わぬことだと知っていても。
いつかは出たい。
外の景色を見たい。そればっかり願っていましたね。
「見せてあげてもいいですよ。あなたがこの綺譚《おはなし》を語り終えるなら」
ルナは手帳を閉じて外套の内ポケットに入れた。
手袋をした指先を組み合わせて、その上に顎を置く。
「語り終えるとは?」
びっくりしてメリザンドはルナを見つめた。
「決着を付ける、ということですよ。あなたと、あなたの母親と、ロランの、ね」
「私には何もできません」
メリザンドは困惑していた。
「できないやつはずっとそのままだ、仕方ねえな」
ズデンカは冷たく言った。
「ちょっと待って。ズデンカ。今までずっと閉じ込められてきた人がいきなり何か出来ると思うかい?」
ルナはイタズラっぽく微笑んだ。
「どう言う意味だ」
ズデンカは睨んだ。
「反抗したり、声をあげたりするのにも助走がいるってことさ。まだそうではない段階に留まってる人に対して自立しろ、できないならそのままでいろって言うことは残酷だろう」
「何問いかけてるんだよ、あたしは知らねえ」
ズデンカはそっぽを向いた。
「ふふ。まあとりあえず、メリザンドさん一緒に下に降りましょう。あ、そうだ。その前に独りで寄りたいところがあるんで」
ルナは立ち上がった。
「また便所かよ」
ズデンカは嘲りと心配が入り混じった複雑な表情で言った。
「今度はそうじゃないさ」
ルナはウインクした。
三人が地下に再び降りた時、ロランは一人坐って紙巻き煙草を吹かしていた。
他の客たちは官能的な画集などを開きクスクスと笑い合っていた。
ズデンカは二人から離れ、闇の中へ姿を隠した。
「メリザンドから、面白いお話は訊けましたか?」
ロランは訊いた。
「ええ、訊けそうです」
ルナは笑った。
「おや、訊けそうとはどういうことです。既に二階でお話されたのではないですか? その言い方だと、これから先があるかのようだ」
やはり、執事に監視させていたらしい。
「あるのですよ」
「なら、どんな風に終わるのですかな。いえ、私も物書きの端くれ、ぜひ伺ってみたく思いまして」
「それは、メリザンドさんご自身が決めることですよね」
ルナは横に立っているメリザンドを見た。
「えっ……」
しばらくは戸惑っていたメリザンドだったが、やがて怖ず怖ずと、
「私……外の世界が見たい……」
呟いた。
「ならん!」
いきなり激昂してロランは叫んだ。
「お前が独りでやっていけると思うのか? 何も知らん女が。そんなこと出来る訳がなかろう?」
「異端の作家がずいぶん古風なことを仰られるのですね。メリザンドさんの人生はメリザンドさん自身がお望みのように決めさせてあげたらいいではありませんか」
ルナはパイプを取り出して煙草を詰めた。
「ペルッツさま。変なことを吹き込まれては困ります。娘にはこの屋敷にいて貰わないとだめなのです」
「ここには他にも女性がたくさんいらっしゃるじゃありませんか。その方たちはどうなされました」
ロランは眼を泳がせた。
「ルナ」
ズデンカが部屋の向こうからやってきた。しかし、その顔は強張ったように硬くなっていた。
「こっちへこい」
じゃらじゃらとたくさんの鎖の音がズデンカがやってきた方から響いてくる。
部屋の奥の、誰も人がいない場所からだ。
ルナはパイプを吹かしながらついていった。
「なるほど、人形とはよく言ったものですね」
煙が大きく吐き出される。
そこには壁から吊された大きなひとがたが幾つも並んでいた。
しかし、それは木で作られたひとがたではなかった。もちろん、石や粘土などでもない。
材料は人の肉だった。頭に腕、足や胴体をバラバラにして、他人の肉体の一部と繋ぎ合わせたものだった。肌の色が違うことからよく分かった。
血抜きされているようで、死後何日かは経っているものと思われた。
首輪に腕輪に脚輪がはめられ、そこから伸びる鎖で壁に繋ぎ止められているようだった。
いずれも腹の部分が大きくくり抜かれ、糸で新しく皮を張り直された箇所があった。
「これはどういうことでしょうか?」
ルナはしゃがんでその部分を指でなぞりながら言った。
「女の器官をくり抜いたのですよ。冷凍室の中に入れてあります。大切に保存して置くためにね」
ロランは煙草を吹かした。
「なぜそんなものを? 女から――いえ、わたしからしたら持ち重りするもの、でしかないですよ」
ルナは嘲るように唇を歪めた。
「所有しておくことで、優越感に浸れるからです。完全に女を手に入れたという感じがするのですよ。そうなると完全に人形になるでしょう」
「ゲスが」
ズデンカは言った。
遠くからメリザンドは震えていた。親しかった者たちがこのような姿に変えられていることに耐えられなかったのだろう。顔を覆った。
いつの間にか執事たちが現れ、無言で壁から鎖を外していった。
肉で作られた人形たちは、がたりと壁を背にして床に崩れ落ちる。
「まあ見ていてください」
ロランが目を輝かせて言った。
また鎖の音の鳴る音が一斉に聞こえた。
人形たちが立ち上がり、うつろな目でルナとズデンカをみたのだ。
「危ない!」
突然ズデンカが叫び、ルナに覆い被さるように床に伏せた。
物凄い勢いで鎖が引っ張られ、談笑していた客の頭蓋骨を貫き通した。
幾つもの鎖が武器となって、客たちへと襲いかかった。
「ひええっ!」
ある者は鎖で足の骨を砕かれ、地面に転がって呻いた。
ある者は首を絞められ、ジタバタと藻掻いていた。
助かったものは皆魂切る叫びを上げながら地上へ登る階段へ詰め寄せ、押し合いへし合いしている。
ロザリンドは遠く離れていたため、鎖の打撃をまぬがれたようだ。
ズデンカは立ち上がってルナを脇に寄せると、張り巡らされた鎖を避けて歩いた。
人形たちは続々と立ち上がった。両脚を震わせながら。
うつろな目でズデンカを見つめ、驚くべき早さで手を伸ばしてきた。
ズデンカは払いのける。
「適材適所というやつだよ。脚の速い女の脚は頭の良い女の胴体に結び付けるという具合にね」
ロランはうそぶいた。
ズデンカは鎖を掴んで、人形を近くに引き寄せ、頭を押さえつけた。
「糞が。女は人形じゃねえ」
強い力で頭を叩きつぶした。
「女は人間だ」
ズデンカに睨み付けられてロランは少し狼狽えたが、苛立たしく煙草を吸った。
「人形たち、やってしまえ!」
頭を潰したはずの人形がなお、ズデンカに縋り付いてくる。
鎖がまた幾つも飛んできて、ズデンカの両腕と両脚に巻き付いた、
「ちっ!」
ズデンカは舌打ちした。
「ペルッツさま、あなたも知ってしまった以上、ただでヴィルヌーヴ荘を出られると思われては困りますよ」
ロランは煙草を床に放り、脚ですり潰した。
「どこかに『鐘楼の悪魔』が隠れているはずですね」
ルナは人形の腹を指差しながら、ニヤリと微笑んでいた。
「だからどうだというのです? あなたのメイドは両脚の動きを封じられているのですよ?」
そう焦りを押し隠すような様子で居丈だけに言うロラン。
バリバリと骨の砕ける音がした。
ズデンカは身体を雑巾のように螺旋状に引き絞って、両腕と両脚を自ら砕き、皮膚を引きちぎったのだ。
「馬鹿なぁ!」
思わずロランは叫んでいた。
皮ばかりになった腕と脚から、しゃなりと滑り落ちる鎖。
砕けた身体は瞬時に元の形へ戻っていく。
ズデンカは一息に跳躍して、人形の腹へ腕を突っ込んだ。
「ねえな」
もう一体へも腕を突っ込んだ。
「あった!」
血まみれになりながら、ズデンカは金色の文字が輝く『鐘楼の悪魔』を引きずり出した。
人形たちは突然動きを止めた。
「止めろっ! その本はぁ!」
息せき切って走ってくるロランの喉元にズデンカは噛みついた。
血を瞬く間に吸い尽くされ、ロランの頬は窪み眼窩から目玉が飛び出した。
皮が張り付いた骨のみとなった手がだらんと垂れ、ロランだったものは床に崩れ落ちた。
「不味い血だ」
ズデンカは口を拭った。
「しけた幻想に報いあれって、ことですよ。ムッシュー・ロラン」
ルナは静かに言った。
執事たちがズデンカを囲もうとしたが、
「お前らもこうなりたいか?」
とズデンカに一喝されると、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
残りの客たちは逃げ去ったようでホールの中はがらんとしていた。屍体が幾つか残されただけだった。
「メリザンドさん。これからあなたは自由の身だ」
ルナは煙を吐きだした。
「手始めに何をします?」
目の前で起こったことをぼんやりと見つめていたメリザンドは、ルナの声でハッと気がついて歩き出した。
ホールに設置された本棚から、沢山の官能小説や春画などを座席の上に積み上げていく。
ルナは何も言わずライターを差し出した。
メリザンドは火を点けた。
瞬く間に炎が広がる。
あられもない格好の女たちの屍体を描いた絵が黒く焦げてめくれ上がっていく。
「やはり、それを望むのですね。この中には稀覯本なども多く含まれているようでしたが」
ルナは静かに言った。
「飽き飽きしましたので」
メリザンドはせいせいしたかのように言った。
ズデンカは『鐘楼の悪魔』を燃えさかる火の中に投じた。
「さあ、出ましょう。火は広がりますよ」
ルナは先に歩きだした。
ズデンカはすかさずその傍に寄り添った。
玄関についた時にはもう図書室が凄い勢いで燃えていた。
書棚から吹き出す炎の尾が頬を掠めすぎるほどだ。
黒い煙も流れ出していた。
「また、本が焼けている」
口を塞いで、急ぎながらもルナは振り返り、うっとりとそれを眺めた。
「悪趣味だぞ。あの中にはお前の本もあるのに」
口を隠す必要もないズデンカはルナの額を小突いた。
「手塩に掛けた作品が燃えるのもまたいいものさ」
「理解できん心境だな」
ズデンカはやれやれと呆れるポーズをした。
「風流さの欠片もないんだね」
軽口を叩き合いながら二人はメリザンドを屋敷の外へ逃がした。
だが、その足どりは重かった。
「みんないなくなってしまった……」
少し離れて小高い丘のところまで来た時、ぽつんとメリザンドは呟いた。
「これやら、どうやって生きていけばいいか」
「おかしなことを仰いますね。あなたは、ここから出たいと願った。今、叶ったのに。なのに不安なんですか?」
ルナはきょとんとして、訊いた。
「確かに願いました。でも、そうなってみると何をすればいいか」
「わたしには分かりませんが、何もないからこそ、かえってせいせいするってこともありますよ。それにあなたはロランの財産の唯一の相続者なのだから。それに、保険も利きそうだ」
そう言ってルナは後ろを振り返って指差した。
天へ逆巻く劫火にくるまれて、ヴィルヌーヴ荘は燃え続けている。炎は開いた窓から屋根の上にも這い上っていく。
「実に爽快じゃないですか」
ルナは笑った。
「そうですね、ふふふ」
ルナにつられてメリザンドも笑った。
「見て。サルスベリの枝が輝いていますよ」
満月だった。その光を受けて、サルスベリの葉が落ちた枝は薄く白い輪郭を得て輝いていた。
月と同じぐらい丸顔なルナはそれを指差して言った。
ズデンカは近くの繁華な街まで送り届けた。ルナはなぜか、メリザンドの個人を証明するものやロランの資産関係にまつわる書類を事前にくすねていたらしい。
いきなり封筒から出してポンと手渡したのでズデンカもメリザンドも驚いていた。
「執事たちがみんな地下に降りていたからね。メリザンドさんの防音対策のお陰だ」
「世間知らずのお前らしくもない」
「最近、ちゃんとしなきゃなってつくづく思い知らされる出来事があったからだよ。これがあれば、当座は凌《しの》げるでしょう」
と言って気前よく札束を手渡した。
ズデンカは渋い顔をする。ルナがこう言うことをやるのは今回が初めてでないと知っていたからだ。
「こんなに! 受け取れません!」
メリザンドは首を振るが、ルナは強く札束を押し付けた。
「これも含めてお願いを叶えたってことで!」
ルナはそう言ってマントを翻し、すたすたと歩み去った。
ズデンカはしっかりついていく。
「これで何人目だ? お前が人生を変えたのは」
「さあね。よっこいしょっと!」
ルナは馬車へよじ登った。幌はもう上げられている。
「口先じゃ構わないでいてあげる優しさとかかっこつけやがって」
と言いつつ馭者台に上がるズデンカ。
「メリザンドさんは教育もちゃんと受けている。何の心配もないさ」
「頭で考えるの実際にやるのは違うだろう」
「また気難しいこと言っちゃって。それより……ぷぷぷ。君が女は人間なんて言い出したのには後から思い出しても笑えてくるよ」
「何がおかしいんだ」
ズデンカは無表情のまま手綱を握った。
馬車は走り出す。
「お元気で!」
メリザンドは大きく手を振って二人を送った。
ルナは片手を軽く上げてにこやかに微笑むだけだった。
冬枯れの季候とは言え、道脇の針葉樹は立派な葉並を見せていた。雪の訪れがないせいだろう。
「自然に浮かんできたんでな」
弁解するようにズデンカは付け加えた。
「人間じゃなく、吸血鬼の君がか?」
ルナは追撃した。
「じゃなくても共感することはある」
ズデンカはどことなく恥ずかしそうに言った。
「まあ、わかるけどね」
しばらく間を置いてからルナは静かに言った。
「お前にわかってもらおうとは思っていない」
「分からなければこうやって一緒に旅はしてないよ。ぶっちゃけた話、人は自分と違う意見を持つ相手とは共存していけないものなんだ。対話を重ねてわかり合おうなんて幻想だね」
ルナは立て板に水のように元気よく話した。体調は戻りつつあるらしい。
「世間で正しいといわれていることの逆ばかり言うなお前は」
「だいたい、この世の中にいったいどれぐらい人がいると思っているのさ。知り合える量なんて限られてるし、親しくなれるとも限らない、むしろ関わらないほうがいいやつばっかりだよ」
「ひねくれた見解だな。だからお前は友達がいないんだ」
ちょっとグサッときたのかルナは身を乗り出して、
「でも、関わらない方がいい奴もいるってことは君も同意するだろ?」
と勢い込んで訊いた。
「まあ、それは分かる」
ズデンカは頷いてやった。
「だろ? 君とわたしはまあ何となく話は通じる。でも、通じ合えない者どうしなら会話するのは苦痛だ。わざわざ関わりを持つ必要はない」
「そこまで人間関係にこだわるお前があたしにはわからん。自然と続いて行くやつは続いて行くし、それっきりのやつはそれっきりでいいだろうがよ」
「君と同じことをわたしは言葉を変えて言っているのさ」
ルナは鼻息荒く腰に手をやった。
「そう言うことにしといてやるよ」
会話はしばらく途切れた。
「幌を外したのは間違いだったな。寒すぎる」
ルナは毛布を引きずり出した。
「じゃあ戻してやるよ」
馬車が止まった。
ズデンカはわざとゆっくりと幌をつけてやり、寒さに縮こまるルナの顔を見つめていた。
