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月(ルナ)は笑う――幻想怪奇蒐集譚 第六話 童貞

――ジャックの声明文より

 初めに言っておく。

 俺は今まで女の味方だった。親からは何があっても女に優しくと育てられてきたし、誰よりも親切にしてきた自信がある。

 こんな優しい男など、この世界に他に居はしない。

 心の底から断言出来る。

 にもかかわらず、だ。

 女どもは俺を選ばない。

「あなたは優しいけど、男性としては見れない」

 こればっかりだ。

 で、そんな女が選ぶ男に限って暴力を振るったりするろくでもないやくざ者で、いともたやすく乳繰り合っているだろう?

 暴力的な男こそ、女の好みであるかのように。

 普通の人間が与えられて当然の恋人というものが俺にはおらず、ずっと童貞のままなのだ。

 クソックソックソッ。書いているだけではらわたが煮えくりかえってくる。

 俺のような女の味方が、女の権利の擁護者が、なぜ女への尽きせぬ憎悪、破壊衝動に取り憑かれるようになったのか?

 それには、もちろん理由がある。

 あの夜、俺は部屋の隅で鏡を見ていた。

 毎度見るのも嫌になる。俺の顔は不細工なのだ。

 美男が言えば正しいことも、この顔が言えば犯罪になる。

 そしたら、突然、俺を呼ぶ声がしたんだ。
 

 安穏とあの善き夜に身を任せてはいけない
 老いぼれは日の暮れにこそ 燃え 喚け
 怒れ 去りつつある光に 怒れ

 死にゆく賢者は闇にこそ正しさがあると知る
 ゆえにその言葉はジグザグの光を放ちはせず
 あの善き夜に安穏と身を任せたりしない

 アブの囀りのように、耳元で、低く言葉が囁かれた。

 言い知れぬ怒りが身のうちに巻き起こっていた。

 俺は振り返った。

 すると、いつも使っている書き物机の上に一冊の本が乗っていた。

 背には大きな金文字で『鐘楼の悪魔』と書かれている。

 俺は手に取った。

 読んだ。読み耽った。ページの最後まで息も吐かさず。 

 そこには、この世の真理が記されていた。

 俺は気付いた。これまで自分が騙されていたことを。全ての女に復讐をせねばならぬことを。

トゥールーズ人民共和国中部首都エルキュール――
  

 「ちーん!」

 綺譚蒐集者《アンソロジスト》ルナ・ペルッツは鼻をかんだ。

 エルキュールに着いてから鼻風邪を引いたのだった。

 ちり紙をくちゃくちゃと丸めて、ゴミ籠に放り投げる。

 外れた。

 一つだけではない。籠の周りには投げ損ねたちり紙が輪っかのように広がっている。

「汚ねえな」

 メイド兼従者兼馭者の吸血鬼《ヴルダラク》ズデンカはそう言いながら拾いに向かった。

「なんでちゃんと中に入れられないんだ」
「わからない。自然とそうなっちゃうんだ。ちーん!」

 ルナはとぼけた顔で言ってまた鼻をかむ。

「そんなんで今までよく暮らしていけたな」
「前にお手伝いさんは雇ってたよ。何人も来て貰ったけどすぐ出ていっちゃう」

 ちり紙を摘まみ上げながらズデンカは複雑そうな顔をした。

 ルナは狙いさえすれば金貨を見事に目標に当てられるのだが、なぜかゴミだけは籠に入れられないのだった。

「あたりまえだ。お前みたいなやつの面倒を見切れる輩なんて他にいない」
「我こそは見切れる、みたいな言いようだね。ちーん!」

 ルナはまた鼻をかんだ。

 図星を突かれたズデンカは黙ってちり紙を片づけ続けた。

「今日は出かけるつもりだよ」
「風邪が悪化するぞ」

 ズデンカは心配だった。

「仕方ない。わたしが出たいんだから」

 ルナは立ち上がって帽子を探した。

「まあまて、髪が解れてる」

 片付けを終えたズデンカは手を拭き、ルナの後ろに立って、飛び出た髪を丁寧にブラシした。

 さすがに美容師は兼任できないとしても、多少真似できるぐらいの自信がズデンカにはあった。

「くすぐったい! いらないよー!」
「まあそう言うな」

 手入れしてやりながら、ズデンカはホテルの本棚に収まったルナの著作を眺めた。

 ルナ・ペルッツの『綺譚集《アンソロジー》』、後に改題され『第一綺譚集』が出たのは敗戦の年のことだ。

 当初ガリ版刷りで出版されたその本は物語に飢えていた国民の心を捉え、ベストセラーになり、ルナは芳紀十六にして有名人になった。

 ――以前の経歴は一切不明ながら。

 その後、第二、第三と綺譚集は一年毎に出版され、その度に売れに売れた。

 初めてズデンカへの献辞が描かれたのは『第十綺譚集』。つまり、今年初めに出た本だ。

 ――まだあの頃はあたしも出会って日が浅かったな。

 十年を一月ぐらいに感じてしまうズデンカも、ルナと手会ってからの一年は何度も何度も反芻する。 

 このホテルにある『綺譚集』は全てトゥールーズ語への翻訳だ。ズデンカはざっと目を通して見たが、編者《ルナ》の意図を読み違えているとしか思えない酷い代物だった。

「あんなどうしようもない翻訳を放って置いていいのか?」

 本棚を指差して言った。

「良いんだよ。お金にはなるしね。ちーん!」

 ルナはまた鼻をかんだ。

「仕事にこだわりがないんだな」
「わたしは何にもこだわりはないよ。ゴミを籠の中へ入れることすらね」

「やっぱりわざとやってるだろ!」
「そんなことないよ。ちーん! さあいこう」

 ズデンカはルナに帽子と外套を着せてやり、マフラーまで持ってきた。

「首が冷えないようにな」

 グルグルと首の周りにきつく巻く。

「締め付けられるー」
「ガタガタ抜かすんじゃねえ!」

 ちり紙入れを腕に持ったズデンカと、まだ鼻をかみ続けるルナは出発した。

 集会場所となったのは、繁華街にあるほとんど客のいない小さなカフェだった。

「ルナァ!」

 出迎えたのはアデーレ・シュニッツラーだった。

 ズデンカは驚いた。いつのまにルナは会う約束を取り付けていたのだろう。

 オルランド公国陸軍軍医総監という有力な地位にある者がトゥールーズ人民共和国に姿を現すなんて滅多にないことだ。

「何でお前がいるんだよ!」
「それはこちらのセリフだ、メイド!」 

 アデーレはズデンカを指差して嘲笑った。

「実質はともあれ、オルランドとトゥールーズの国交は開かれているからな。予はとある大学の視察に行く途中なのだ! 汽車を使えばあっという間に来れるぞ!」

 その両頬にルナはキスした。

「ちーん。あ、鼻水、ついちゃった? だったらごめん。伝染したら大変だ。この国流の挨拶《ビズ》しようって思ってね」

 アデーレは顔を真っ赤にしていた。

 ズデンカは黙々とルナから渡される使用済みのちり紙を袋に詰めていた。

「いやいやいやっ、そんなことない! 会えて嬉しいぞルナァ!」

 頬を押さえながら、あたふたと隅の席に腰掛けた。
 ルナとすっかり表情が死んでしまったズデンカも坐る。

 席がもう一つ空いていた。

「誰か来るの?」

 ルナは訊いた。

「ルナの知り合いだ!」

 アデーレは言った。

「今日集まって貰ったのは他ではない。我々シエラフィータ族にとって由々しき事態が起こりつつあるのだ」

「どういう?」

 ルナは訊いた。

「スワスティカの残党が動いている」

 後ろから別の重苦しい声が響いた。ズデンカは立ち上がって身構えた。

 黒髪で背広を着、腰には刀の鞘を下げた痩せ身の男が近付いて来た。

「フランツ! 久しぶり! ちーん!」

 ルナは顔を輝かせ、鼻をかみながらフランツと呼ばれた男に近寄っていった。

「挨拶の接吻《ビズ》はいらん。お前風邪引いてるだろ」

 神経質そうに太い眉根を細め、顔の前で黒手袋の手を振る男。

 ルナはしょんぼり後退した。

 ズデンカはまた表情が死にかけるのを感じながら、ほっとした。

「この男はフランツ・シュルツ。スワスティカ猟人《ハンター》だ。シエラレオーネに所属している。ルナにとっては紹介するまでもないな。お前にしてやってるんだぞ、メイド。ありがたく思え」

 アデーレが紹介した。

 スワスティカ猟人《ハンター》。いまだ生き残っているスワスティカの残党を狩るため、シエラフィータ族の国シエラレオーネによって作られた機関だ。

 シエラレオーネはトゥールーズを挟んで黒羊海を南東はるかにくだった土地に、戦後立てられたばかりの新しい国家だった。大虐殺を免れたシエラフィータ族が集結しているのだ。

 知人も多いはずのルナも再三呼ばれているが、いつも断っていることをズデンカは知っていた。

「スワスティカの残党かぁ」

 ルナはぼんやりと訊いた。

「今までのような小物じゃなく、かなりの大物――旧幹部クラスが関わっていることは間違いない」

 席に坐って、フランツは断言した。

「例えば、カスパー・ハウザー」

 びくん、とルナが背をそらした。傍目で分かるぐらい青白くなり、両手が震えている。

「どうした?」

 ズデンカは心配して訊いた。

「ちょっと寒気がして」
「風邪のせいだ。帰ろうぜ」

「まだ、居たい」
「ルナはハウザーには……」

 アデーレは苦虫を噛みつぶすような顔で言いかけた。 

「言わないで!」

 ルナはいつになく悲痛に叫んだ。

「いい。あたしたちは過去について話さないことにしてるんで」

 ズデンカはきっぱり断った。

 カスパー・ハウザー。

 旧スワスティカ親衛部長・通称『銀髪の幻獣《キマイラ》』。

 医学博士を自称したものの、収容所に入れられたシエラフィータ族を使って非人道的な実験を行ったと伝わっている。

 そんな大物が戦後忽然と姿を消し、以後一切の消息を絶っているのだ。
 これは知識として良く知られたこと。

 ハウザーとルナの間で過去に何かあったのは間違いないだろう。
 アデーレは詳しく知っているだろうが……。

 ズデンカは好奇心を殺した。ルナを苦しませることはしたくなかった。

「推測の域は出ないけどな。各地で妙な事件が繰り返し起こっている。普通の人間がいきなり凶暴化して暴れ出すような事件が。お前の探している『鐘楼の悪魔』。あれもきっと関係があるに違いない」

 フランツは両手を組んで静かに言った。

 ルナは身震いを押さえるかのようにパイプを取り出し、火を点けた。

「どっちにしても、わたしは君たちの助けは借りないよ」
「あのな、ルナ」

 フランツは深く息を吸った。

「俺たちと一緒に来い! ハウザーが関わっていなかったとしても、スワスティカの連中はお前一人でなんとかなる相手じゃない。ろくに実戦経験だってないようなお前が」

「わたしは単純に綺譚《おはなし》を集めたいだけなんだ。他と連むつもりはない」

 きっぱりと断ったルナの表情には、だんだん笑みが甦ってきていた。

「ちーん!」

 また鼻をかむ。

「相変わらずだな。……俺からは以上だ。気が変わったら連絡をくれ」
 諦め顔でフランツは立ち上がり、カフェの外へと歩いていった。
「じゃ、あたしらもいくわ」

 ズデンカは早く場を去りたい一心で言った。

「待って」

 ルナはそれを止めた。

「アデーレはさっき大学に行くって言ってたよね。わたしも付いていって良い? ぜひ、詳しく教えて欲しい」

ジャックの声明文より――

 俺は大人し過ぎた。

 幼い頃から、町の工場で働き、寝て、食って、また起きる、同じような毎日。

 誰からも見向きされず、同僚の男たちにはからかわれ馬鹿にされた。

 女がいないからだ。

 いい歳なのに奥手で女とうまく話せない。 どもって、話が続かなくなる。
だから、事あるごとに嘲笑われた。

「そんな年で童貞かよ!」
「ついてってやるから、娼館でもいきゃいいだろ?」

 断った。

 俺は女の味方だ。

 清らかな女性と純情な恋愛がしたいだけなのだ。

 好きな相手と結ばれる。

 誰もが持つ当然の権利だろう? なのに俺にだけは与えられない。
 もちろん売女なんかは願い下げだ。心からの認めた相手とだけ愛し合いたい。

 にも関わらず、にも関わらずだ。

 どの女も俺と話しただけで嫌そうな顔をする。

 逃げていく。

 避けていく。

 意を決して告白したら、前言ったようなことを繰り返し言われた。

 憎い。

 全ての女が憎い。

 だが、一番憎いのは、花屋の女ブランシュだ。

 俺は、そもそも花屋なんかと縁がなかった。
 近所にあって工場に通う際に何度も前を通り過ぎていただけだ。

 そしたら中で働いているブランシュと自然と眼が合うようになって、一つ買ってやろうと思い付いた。

 正直花を売るような女に興味はなかったのだが、向こうがしきりと話しかけてくるので、俺もポツポツと答えてやることにしていたのだ。

 この女、もしかして俺に気があるのか?

 俺はそう思い始めた。

 なら、ひとつ付き合ってやってもいいかもしれない。

 俺はこの女と歩いているところを何となく夢想した。

 雑誌などで盗み見た、この女とすけべなことをすることも考えた。

 ふん、わるくない。

 いつの間にか毎日のように通い詰めるようになっていた。

「ジャックさんはほんとにお花が好きなんですね」

 別に花は好きじゃない。毎日一輪ずつ買って、花束のようにまとめて、枯れるまで机の花瓶に飾っておいた。

 これを書いている机の上だ。

 今、花は全部枯れている。

 もう、買い足すつもりもない。

 裏切られたのだ。

 その日俺は花束を持ってブランシュに会いに急いでいた。

 もちろん普段行く花屋の花ではなく、休みにわざわざ汽車で遠乗りして南部の花を買ってきたのだ。

 ところがだ。

 街で、他の男と歩いているブランシュを見てしまった。

 眼が合った。

 いや、俺はすぐにそらした。

 花束を、落としていた。

 ブランシュの俺を見た時の気まずいような、哀れみながらこちらを蔑む微笑みが眼に焼き付いて離れない。

 許さん。

 絶対に許さん。

 結局こいつも、大人しく優しい俺を弄んで、別に男と遊んでやがったのか。

 女なんて糞ばかりだ。

 俺は怒り狂った。

 そんな俺に、『鐘楼の悪魔』は真実を教えてくれた。
 速い話、俺は騙されていたのだ。

 女は守るべき弱者なんかじゃない。やつらは性的な資本を持った強者だ。

 資本とは何か?

 戦争で捕虜になっても男ばかりが殺され、女は生かされるだろう?

 男がたくさん死んでいっても話題にならず、女の死の場合だけ派手に喧伝されるだろう?

 子供を産めるからだ。

 女は、人間の再生産が可能だ。

 娼婦は男に身体を売るだけで金が取れる。男はできたとしてもかなり少ない額だ。

 これを資本と呼ばず、他に何と呼ぶ?
 管理せず放っておくと女は、限られた美男にその再生産能力を提供する。

 俺のような不細工な大勢の男は眼を掛けない。より好みする。

 あいつらの頭は数万年前、地球に涌いてきた時から変わらない。

 俺のような優しい男ではなく、より食い物を多く獲られる暴力的な、女を取っかえ引っかえする美男にばかり惹かれるわけだ。

 これが、進化の理《ことわり》だ。

 擁護者だったつもりの俺は、すっかり騙されていた。

 真の弱者は、俺だ。
 ――ようやく分かったようだ。君の見ていたのが巧く作られた嘘《おはなし》
だったってことが。

 頭の中の声は教えてくれた。

 ――私は嘘《おはなし》を否定する。真実を見ろ。闇にこそ正しさがあると知れ。

 そうだ、真実だ。

 女は社会が抱え込んでおかなければならない。

 必要な男に宛がれるべきだ。

 学ばせたり、知識を付けさせて男に高望みされるようになっては再生産は行われず、人類は滅亡する。

 女は優遇され過ぎている。学ぼうとする女を破壊しなければならない。

 俺は連発式のライフルを手に取った。

 昨日、貯めていた給料を全額叩いて買ったものだ。

 これを使えば、出来るだけ多くの女をこの世から消し去ることができる。

 最初に狙うのはもちろん決まりだ。ブランシュだ。

 俺は鞄に銃を詰めて何食わぬ顔で花屋へ歩いていった。

 夕暮れ時だから、他の客はいなかった。

 いつも通りブランシュはレジの前で出迎えてくれた。
 俺の顔を見て、何か口にしようとしたその顔に――

 弾丸をお見舞いしてやった!

 血を流してぶっ倒れるブランシュを見て、俺は笑いが止まらなかった。

 ざまあ見やがれ!

 さんざん馬鹿にしてくれた罰だ。

 俺は急いで店から出ると、ある場所へ向かうことにした。

 女に教育などを施している不届き千万なところへな。

トゥールーズ人民共和国首都エルキュール――

「へー、大学で女子学生を学ばせるのか!」

 ルナは驚いていた。

「うむ。それで珍しく女で軍医として成功した予に視察のお声が掛かったのだ。同じ性と言うだけで、なんで予がって思うがな」

 アデーレは鼻の下を掻いた。

「いいじゃないか。君が皆から尊敬を集めているって証拠だよ。ね、わたしも連れてって。ちーん!」

 ルナは鼻をかみつつ、アデーレの袖を引いた。

「ルナァ! もちろん一緒に来い! 寧ろ来て欲しい!」

 ズデンカは呆れてそれを見つめていた。

「大学なんか通って何の役に立つんだ」
「人間が当たり前にこの世で生きていくためにはまず学ばないといけない」

「世間さまが大学の代わりになってくれるさ」

 ズデンカはあっさり答えた。

「君みたいに長く生きているとそうなのかもしれないけど、わたしたち普通の人間は寿命があるんだ。その限られた中でやっていくしかないからね。若いうちに学問を身に付けておくのは悪いことじゃない。ちーん!」

「そういえば、大学行くのは男ばっかだよな」

 ズデンカは考え込んだ。

「女は大学には行かない方がいいって訳だろう。かく言うわたしも行ってないしね」

「お前もかよ」
「だから、どんなとこか興味あるんだ。さあ、出発! ちーん!」

 三人はのろのろと歩き出した。ルナの豪快な使いっぷりに、そろそろちり紙が尽きてくるのではないかとズデンカは気が気でなかった。

 さほど歩くことなく目的の場所に辿りついた。

 聳える大学の門塀が威圧するかのように目の前に立ちはだかっている。

 中に入ると一列にずらりと並んだ身嗜みの良い男たちに迎えられた。いずれも大学職員のようだ。

「これはこれはシュニッツラーさま。それに著名なペルッツさまもいらっしゃるではありませんか」

 理事長と思われる人物が挨拶した。アデーレは無言で握手する。

「オルランド公国名代として参った。ペルッツ殿は予の視察の随行員となっている。よろしく頼む!」
 アデーレは硬い口調で述べた。

「はあ、何分私どもの大学も初めての試みでして、シュニッツラーさまに満足して頂けるかどうか……」

「やあやあ、前置きはいいから、女子学生たちに会わせて貰いましょうか」

 ルナはいつになくウキウキして職員たちと握手していった。職員たちにまで挨拶《ビズ》をしようとするのではないかとズデンカは注意して見ていた。

 広々とした構内で迷ってしまいそうなルナの手を握りしめてズデンカは先導した。

「メイド、貴様いい加減分をわきまえてはどうかね」

 鎖付き眼鏡の柄を人差し指でカチャリと上げ、アデーレは注意した。

「なぜわきまえないといけない?」
「普通、主人と親しく並んで歩くメイドなどいない。家にいるのが普通だ」

「あたしはメイド専業って訳じゃないんでね」
「じゃあ、その服は何だぁ!」

 アデーレではズデンカの纏うメイド服を指差した。

「好きだから着てるんだよ。何か文句あっか?」
「ねえねえ。そんなことよりさぁ。ちーん!」

 子供みたいな声を上げてルナが遠くを指差した。

 確かに講義室を繋ぐ長い廊下をこちらに向かって女子学生たちが歩いてきている。

「おーい!」

 ルナは手を大仰に振った。

 遠目からでもルナの姿に気付いたのか、学生たちは急ぎ足で周りに集まってくる。

「ペルッツさま!」

 ズデンカは嫌な顔をしながらルナを近くへ引き寄せた。

「あの『綺譚集』の編者ペルッツさまですよね!」
「うん、いかにも。ちーん!」

 ルナは胸を張ってポーズを取りながら、また鼻をかんだ。

 さすがに鼻頭が赤くなってきている。

「ペルッツさま、お風邪ですか?」
「大したことないですよ。それより、綺譚《おはなし》はありますか?」

 ――また始まったぜ。

 ズデンカは呆れた。ルナの行動原理は何を措いてもそれなのだ。

「お聞かせ出来るようなお話があればいいのですが、残念ながら! でも、ペルッツさまのご本はいつも肌身離さず持っていまして」

 と鞄から本を取り出す女子学生。

「ふむふむ。サインして欲しいんですね」

 本を受け取ってルナは言った。

「えっ! いいんですか!」
「お名前は?」

「イヴォナです」
「ほう、こちらのご出身じゃないですよね?」

 ルナは見事な筆跡で、その本に名前を記して渡した。

「はい。ゴルダヴァの生まれです」
「あー、ならうちのメイドのズデンカもですよ! ちーん!」

 ルナは顔を輝かせた。

「余計なこと言うなよ」
「そうなんですか! 私アイバル好きでなんでもつけて食べちゃうんです。ズデンカさまはどうですか?」

「ん? アイバル? パプリカを使った調味料だろ。かなり昔に食ったことあるぜ!」

 話が弾むイヴォナとズデンカ。

「そういえば、ズデンカさまのお肌の色は私たちと違いますね。どうしてなんでしょうか。あ、差別的な意味で訊いたわけじゃないですよ! 不思議だなあって思って」

 ズデンカの浅黒い肌を見てイヴォナは言った。

「まあ、これには色々理由があってだな……」

 口ごもるズデンカ。

「大学に進むまで、いろいろあったんじゃないですか?」

 ルナは訊いた。

「はい。私は元々移民なのでお金がなくて。親に勉強なんて受けないでいいから早く結婚しろって言われました。……国から奨学金を得られなきゃ、とてもここまで来れなかったです。私一人の力でじゃありませんよ」

「でも、勉強は出来るんでしょう? わたしの本を読むぐらいだ」

 ズデンカは笑いを噛み殺しながらルナの裾を引いた。

「それほどでも! 試験は通りましたけど、ギリギリってところで! まだまだ精進が必要です!」 

「大学を出たら、どうされるか決まっているんですか?」
「決まっていません! でも、せっかく色々学べるんだから、ペルッツさまのように各地に広がるお話を集めようかと!」

「それは光栄だ! わたしも助手が欲しいと思ってたんだ。大学を出たらぜひ連絡をくれ。すぐにでも来て!」

 ルナは顔を輝かせた。

「はい! もっとお話したいのですが、時間なので失礼します!」

 イヴォナは笑顔で頷き、少し足早に講義室の方へと歩みを進めた。

「皆こんなに勉強熱心なんだなあ。予もますます頑張らねばと思えてしまう」

 他の生徒から話を聞き取っていたアデーレは感心していた。

 イヴォナと別れた後もズデンカとルナは他の生徒たちと話をした。
 中には働きながら通っている者もいた。

「周りから変な目で見られたりします」
「女が学ぶと言うだけで、どうしてあれこれ言われるんだろうね。ちーん!」

 ルナは鼻を拭きながら言った。

「結婚しながら学ぼうとすると同期生の男性から色々言われますよ。奥様のお遊びだって。でも、ここで学びたいことが自分にはあるんです。お遊びなんかでここに来ているんじゃありません」
「自立しろ、と言われるのだろうな」

 ズデンカは真顔で言った。

「確かに私は自立出来ていません。お金も出して貰っている身です。でも、それでも、いつかは何とか出来るかなって」
「いつかいつかじゃ、なんにもなんねえさ」

 ズデンカは厳しかった。

「まあまあ、ズデンカは厳しいけど自立ってそう簡単にできるものじゃない。不労所得のあるわたしでも、いまだに出来てるか分からないほどで。ちーん!」
「お前は出来てねえよ」

 ズデンカは苦々しく笑った。

 その時だった。

 一発。

 鋭い銃声が聞こえた。

 ルナとズデンカは身構えた。二人にはそれが何の音か聞き分けられたからだ。

 やがて、その音は数を増して聞こえた。

 鳴き叫ぶ声、逃げ惑う声。

 とても近い場所で、何者かが乱射しているのだ。

「講義室の方です!」

 ガタガタと震えながら理事長が言った。

 だが、その声を待たずにルナとズデンカは駆け出していた。

「さっきイヴォナさんが入っていった教室だ!」

 二人は急いで中へ入った。
 ライフルを構えた取り立てて特徴のない平凡な顔立ちの男が立っていた。

 床にはたくさんの生徒が血を流して倒れている。

 中にはイヴォナの姿もあった。

「イヴォナさん!」

 ルナは悲痛な声を上げて駆け寄った。

「ペルッツさま……」

 蒼白になったイヴォナは口から血を流しながらルナを見つめた。

「私、もっと勉強がしたかった……ペルッツさまとお仕事したかったです……」
「それ以上言わないで! 血が出てしまう!」

 ルナは流れるイヴォナの血を押さえようと胸を手で押さえた。

 でも、止めることが出来ず、血はルナの掌から溢れ服を紅く染めた。

 イヴォナはことりと顎を落とした。

「また……守れなかった」

 ルナは項垂れ、ぽつんと呟いた。

「女がまた来やがったか。死ねよぉ!」

 男はルナ目掛けて発砲した。

 しかし、弾は前に立ち塞がったズデンカに防がれた。その胸元に吸い込まれたのだ。

「死ね。死ね。何で死なねえんだよ!」

 男は顔を歪ませながら何発も何発もズデンカに撃ち込んだ。

「死ね。死ね。女は死ね!」

 だがズデンカは平然と男に向かって歩いていく。

 一撃の下に爪で首を落とそうとするズデンカ。

 だが男はそれを素早くかわし、講義用の黒板の端に両の手足を絡めると、素早く天井に這い登った。

「なんなんだ、こいつ?」

 ズデンカは呆れてそれを見上げた。

 男はよだれを垂らしながら銃を担ぎ、天井を這い進む。
 ヤモリのようにその手足は湿り気を帯び、天井に張り付いていたのだ。

「待てよ!」

 ズデンカは座席に上がって跳躍し、天井に張り付く男の脚に縋り付いた。
 男はわめき声を上げ、身を揺すってズデンカを振り放そうとした。

「離れろ! 離れろよぉ!」

 ズデンカは男の背中に爪を立てた。男はズデンカをおぶったまま、ズルズルと講義室の向かい側へと這っていく。

 ズデンカは男が背負っていた銃をもぎ取り、床へ放り投げた。

「何をしやがるっ!」

 男は叫んで背中のズデンカを殴り付けた。

 しかし、ズデンカはビクとも動かない。

「女は死ねよぉ!」

 男の顔が引き歪み、眼は飛び出して黄色い光を帯びた。

 服が破れ、背中はなめらかな鱗で覆われ始めた。尾っぽがズボンを突き破って伸びる。
 五本指の先が綿棒のように膨れ上がり、より強く天井へ張り付いた。

 本当に巨大なヤモリへと変わりつつあったのだ。

 思わず滑りそうになったズデンカは、爪を尖らせてその隙間の皮膚へ食い込ませた。

 「ぎゃああ、ぎゃああ」

 もはや人の声ではない音を上げながら、男だったものはズデンカに噛み付いた。

 「あたしに噛み付くとはいい度胸だなぁ!」

 ズデンカはヤモリの頭を掴み、その口を両側へ大きく引き広げた。

 そのまま強い勢いでねじ切ろうとするが、さすがのヤモリも顎の力は強く容易には出来ない。

 焦ったズデンカがもつれ合ったまま、下へずり落ちそうになった時だ。

 ――鋭い銃声が響いた。

 床に落ちたライフルを拾ったルナが、ヤモリの眉間を撃ち抜いていたのだ。

「しけた幻想に報いあれ」

 額に黒い穴を穿たれ、天井に張り付いたままま、ヤモリの化け物は死んでいた。

「ルナ!」

と叫んだズデンカだったが、ふと思い立って、ヤモリの死骸へ腕を入れ、一冊の本を引きずり出した。

「やっぱり。こいつも『鐘楼の悪魔』を読んでいた」

 本を抱え、座席の上へ落ちるズデンカ。

「燃やさなきゃ……」

 ルナはぼんやりそう言ってズデンカの元へ歩いてきたが、突然ふらりと揺らめき倒れそうになった。

「ルナ!」

 ズデンカはルナの身体を受け止め、額に手を当てた。

「凄い熱だ! だから早く帰れって言っただろうがよ」
「他にこんなものもあったよ」

 ルナはそれを無視して、震える手で何枚かの紙束を差し出した。イヴォナの血で赤く染まっていたが。

「なんだよこれ」
「犯行声明文みたいだ……綺譚《おはなし》になりそうかな?」

 捩れた筆跡で紙一面にびっしり書き込まれた文をズデンカはさっと目を通したが、
「妄想だな」

 と一蹴した。

「ルナ、さあ帰るぞ」

 ズデンカはルナを抱えながら、歩き出した。

 出る際にズデンカは膝で本を折り、粉々に叩きつぶした。

 紙屑がバラバラと宙を舞う。

 死んで腹部を裂かれたヤモリは手足を天井に張り付き、眼を濁らせたまま動きを止めていた。

 あたふたしながら理事長とアデーレがやってくる。

「メイド、貴様何を……」
「お前なんかと会わなけりゃよかった。ルナが死んだらどうしてくれる?」

 ズデンカはアデーレを怒鳴り付け、先へ急いだ。腕の中でルナは目をつむりぐったりしていた。

 廊下が長く感じられる。

「守れ……なかった」

 魘されるようにルナはズデンカの耳元で呟いていた。

「馬鹿言え」

 ズデンカは怒鳴った。

「お前が守る必要はない」
「……」

 ルナは黙っていた。
 
  
 多くの人間が大学の構内に押し寄せてきていた。警察の姿もあったがズデンカは身をかわした。

 ――早く帰りたい。

 それだけが望みだった。

 大分離れたところで、一軒の花屋の前を通り過ぎた。そこも警察官や野次馬で溢れていた。

 花屋の店員が怯えながら事情聴取されている。

「お客さんは無口な人でした。私とは話さなかったんですけど、殺されたブランシュとは仲良かったんです……はい、なんでいきなりそんなことをしたのかぜんぜん分かりません。ブランシュ、今の彼氏とは上手くいってないらしくて……お客さんのこと、もっと知れたらいいのになって言ってましたよ」

 ズデンカは声明文を思い出したが、すぐに記憶の隅に追いやった。

 ――構ってられるか。

 ズデンカは先を急いだ。

 ホテルに着くと、ズデンカはルナの外套を脱がせた。

 ズボンを脱がせシャツだけにして、ベッドへ寝かせる。

 タオルを水で濡らし、ルナの額に置いて何度も代え続けた。氷嚢を用意して頭の下に乗せた。

「口を開けろ。薬を飲め」
「うん」

 ズデンカはアスピリンの錠剤をルナの口の中に入れ、水と一緒に流し込んだ。

「高い金を払って混ぜ物とかしてないやつを選んやってるんだぞ」

 ズデンカは恩を着せたが答えはない。

「眠れるか?」
「なかなかそうはいかないみたいだ」

 ルナはズデンカとは眼を合わせようとせずと顔を伏せていた。

「お前は結局弱虫だな」

 ズデンカは言った。

「ああ」

 ルナは否定しなかった。

「何も出来なかったことを言っているわけじゃねえ。お前があたしの目を見て語れねえからだ。苦しみを分け合わないからだ」
「……」

「怯えている顔を覗かれたくないんだろ? 苦しんでいる様子を見せたくないんだな?」
「何とでも言えよ」

「ヴィルヘルミーネもイヴォナもお前に救って貰おうなんて言ってねえよ。お前は誰も救えないんだ」

 ズデンカはイライラしていた。

「わたしも救おうなんて……」
「守れなかったって言ったろ?」

「うん」

「何で守ろうとした? お前の目的は面白い話を集めることじゃなかったのかよ? 何で変わってるんだ?」

「変わってないさ」

「あいつらの庇護者にならなきゃいけない、みたいな使命感を覚えてないか?」
「覚えてないよ」

 オウム返しに否定するルナをズデンカは殴ってやろうかとすら思った。

 だが、間髪置かずルナは、

「わたしも……彼女たちも女だから」
 と言った。

 ズデンカはルナが同じことを多少気取った言い方で口にするのを聞いたことがあった。だが、今のルナにそんな余裕がないのは目に見えて明らかだった。

「そうだ。あたしも女だ。あるいは、だったといってもいいが」

 ズデンカは不死者だ。子供が作れない。犯人の書いた声明文の内容を思い出していた。

「女でいいよ」

 初めてルナは笑った。ズデンカは顔を見たわけでないが。

「お前なんかに決められてたまるか」
 そう言うズデンカだったが、わずかに口元を弛めていた。

「彼女たちが苦しむのは……苦しんで死んでいかなきゃならないのは、女だからだろ?」
「そうかもしれん。だが苦しんで死んでいくのはあいつらだけじゃない。誰だって同じだ――とにかく、お前が気に病む必要はない」

「病まないよ」
「またかよ」

 ズデンカはベッドから離れて椅子に坐った。

「向こう行っちゃうの?」

 ルナは訊いた。

「ああ」

 ズデンカは短く答えた。

「そうか」

 ルナは黙った。

 ズデンカは椅子に坐ったまま、懐から取り出した皺茶くれた紙を広げながら読んだ。
 
 暁がまた去りゆく
 独り立つ暮れ
 化石の首は落ち
 砂は珊瑚のように引いていく

 
 四行詩だった。

「なんなんだよ、化石の首って」

 ルナがむくりと顔を上げた。
 ズデンカは見つめられていることに気付いた。

 ルナの口元は引き攣っていた。笑いを堪えているのだろう。

「それに珊瑚のようにって! あまりにも月並みな比喩だな」
「悪かったな月並みで!」

 ズデンカはまた紙をくちゃっと丸めて懐へしまった。

 趣味で詩を書いているズデンカはルナにだけ読み聞かせているのだった。

「でも、おかげで元気になった」

 ルナがぽつりと漏らした。にんまりと笑いながら。
「こんのぅ!」

ズデンカはごしごしとルナの頭を撫でた。

「痛い」
「熱は下がってるが、それは薬のお陰だからまた上がるぜ。安静にしとけよ」

「はいはい」
「はいは一回でいい」

 大人しく横になるルナへ羽根布団を深めに被せてやるズデンカだった。

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