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何度も読み返す漫画に共通するのは、強さじゃなく「積もった時間」だった

漫画は子どもの娯楽で、コスパの悪い暇つぶし。そういう空気が、今もどこかにある。

大人になったら卒業するもの。読むにしても、今バズっている話題作を追うべき。乗り遅れると恥ずかしい。そういう前提で語られる。

でも僕の本棚には、もう何度読んだか数えられない漫画が数冊ある。話題かどうかとは関係ない。何年経っても、また最初から開いてしまう。

なぜ同じ巻を、また開くのか

新刊を追う読書と、読み返す読書は別物だ。

続きが気になって読むのは、消費に近い。展開を知ってしまえば熱は引く。話題作を追う焦りも、たぶんここに属する。乗り遅れないための読書。

読み返しは違う。オチも展開も全部知っている。それでも開く。次の展開を知りたいわけじゃないのに、なぜか本棚から手が伸びる。ここに、自分でも説明のつかない引力がある。

長く手元に残る作家を並べてみた。藤田和日郎。皆川亮二。そしてフリーレン。ジャンルはばらばらだ。絵柄も時代も違う。話題になった時期もずれている。共通点がないように見えて、たぶん一本、太い線が通っている。その線が何なのかを、長いこと言葉にできずにいた。

派手なバトルが好き、だと思っていた

最初は単純に「熱いバトルが好きなんだ」と思っていた。

藤田和日郎も皆川亮二も、能力バトルの手練れだ。ページをめくる速度が上がる、あの高揚。僕はそれを買っているんだと、長いこと信じていた。

でも、読み返すとき自分がどこで手を止めているかを観察して、少し驚いた。

止まるのは戦闘の最中じゃない。勝った瞬間でもない。もっと前、その戦いに至るまでに積もった時間のところで、喉が詰まる。長く連れ添った相棒。取り返しのつかない別れ。何十年も抱えてきた執念。爽快感じゃなくて、時間そのものに反応していた。

派手なコマは、むしろ流し読みしていた。手が止まるのは、何気ない一コマや、勝負の前の静かな間だった。自分が何に金を払っているのか、ずっと勘違いしていたことになる。

強さは、実は理由じゃない

強さや勝敗は、たぶん器でしかない。

バトル漫画が刺さるのは、殴り合いが派手だからじゃない。その一撃に、それまでの時間が全部乗っているからだ。長く一緒にいた者同士だから、一発が重い。失って初めて、積もっていたものの厚みが見える。

フリーレンが刺さる理由も、同じ線の上にある。あれは戦闘の派手さで読ませる漫画じゃない。人間の一生の短さと、後から効いてくる喪失を描く漫画だ。過ぎた時間を、過ぎてから確かめる話。

だから僕が反応していたのは「強さ」じゃなかった。時間の積もり方であり、喪失であり、執念だった。派手なコマの下に埋まっていた、地味なものの方だった。

たぶん、余白に惹かれている

これは漫画に限った話じゃない気がしている。

僕は推しとか、時間をかけて育てた関係に弱い。理屈で説明しきれない、あの余白の部分。効率で測れば、同じ巻を何度も開くのは無駄そのものだ。展開はもう知っている。新しい情報はゼロ。

でも、無駄に見えるその往復にしか宿らないものがある。二度目、三度目に開いたとき、初読では素通りしたコマが急に効いてくる。こちらが年を取った分だけ、同じページの見え方が変わる。読み返すたびに、作品と自分の間にも時間が積もっていく。速さや新しさで消費するものと、時間をかけて厚くなっていくもの。漫画は前者だと世間は思っているけれど、僕にとってはずっと後者だった。

だから、何度も読み返す

漫画は子どもの娯楽でも、コスパの悪い暇つぶしでもない。少なくとも、僕が読み返しているそれは違う。

爽快さで消費する娯楽なら、一度読めば済む。二度目はない。何度も開くという事実そのものが、そこに強さ以外の何かが埋まっている証拠だ。

僕はこれからも、話題かどうかと関係なく、同じ数冊を開き直す。積もった時間に、また喉を詰まらせるために。

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