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ディアスポラ・記憶・Kメンタル/オ・ヨンア 第4回 私のバレエ日誌―スプリッツ(前後開脚)、それがどうした―

 5月某日、バレエ教室に通いはじめてちょうど一年が経った今日、生まれて初めてスプリッツに成功した。当初は両脚は90度開けばいいほうで、前傾となるとせいぜい15度、背筋と膝を伸ばして長座するのもおぼつかなかった。(※第一回参照)その後、横開脚はできるようになっても前後となるとなかなか硬さがとれず、ある日先生に、スプリッツ、いったいいつごろできるようになりますかね? と尋ねると、「僕も子どものころ何年もかかったんで…ご年配の方はあまり焦らずに、けがしてもいけませんし…」と困り顔。ですよね、私ご年配だし、と気持ちもしぼみ、すっかり諦めていたのだった。あれから数カ月、それがどうしたことでしょう。レッスンで言われるままに期待ゼロで脚を伸ばしてみると、どこも痛くないし、つっぱらないのにひたひたひたーと開いたではありませんか。

 あれ? え? もしかしてこれが噂の? 何年もかかると言われたあれですか? 先生(どこ)? 鏡に映る自分を見ても信じられずにいると、先生が近づいてきて「ほら、できるじゃないですか、なんで今までやらなかったんですか」とつぶやき去って行った。おかしいな、一緒に感激するところじゃなかったの? ま、いいや、私は自分のためにやっているんだもの! ともかく嬉しかった。

 開脚のために何かを具体的にがんばってきたわけではないものの、この半年は常に脳内の一部に股関節、骨盤という言葉が鎮座していた。ずっと股関節と一緒だった。股関節がすべての瞬間だった、という感じ。なんなら私は先生じゃなくて股関節が好きなのかもしれない。わがお教室にはひそかに「骨盤の女王」と呼んでいる先生もいて、女鹿のようなオーラをまとった彼女がとにかく骨盤を攻めてくる。クールビューティーでめったに笑ってくれない先生が無言で股関節をゆるめてくれた日々。正しい位置と姿勢を求めて、いくらこちらがイダダダッとうめいても決して手をゆるめない、それどころかさらに押してくる、文字通りの押し(推し)ティーチャー。この二人の手によって私のガチガチの骨盤と股関節がなんとか稼働するようになったのは間違いないだろう。

 この日、レッスン終わりに勇気を出して先生に開脚記念の写真撮影をお願いした。写真を撮りながら先生が言った。「さっきめちゃくちゃびっくりしましたよ。ヨンアニムに初めて会ったとき、この方は相当時間かかるなと思ったんで。お友達にたくさん自慢してください」。いえいえこれもそれもすべては先生のご指導のおかげでございます。すると先生は言った。「僕は何もしてませんし」。(-ヨンアニム、一瞬気が遠くなる。)

 ということでこの日から、会う人会う人に写真を見せてまわった。(一方的に私から送りつけられたみなさん、すみませんでした。)周りの人は私のバレエ話にさぞうんざりしていることと思う。すると、こんな声も聞こえてきた。「もともと体柔らかいんじゃないの?」「ビフォー写真はないのか?」。翌週、先生にその旨を伝えた。写真は大反響でした。でも、みんなビフォーを見せろと言うんです。こんなことになるとわかっていたらビフォーを撮っておくんでした。先生は言った。「あはは、ビフォー写真ですか。さすがにそれはなかったですよね。ビフォーは、僕の中にだけあります(自分の胸元を指さしながら)」 ギャー。(ヨンアニム結局、軽く気絶。)

 近所の整形外科の先生によれば、柔軟性と自律神経は深いつながりがあるのだとか。心が整えば体はやわらかくなるし、柔軟性を高めれば自律神経も整うのだと。自分の体に集中して頭の中が真っ白になるとストレスがスーッと消えていくのがわかる。これには中毒性があるようで、まるで麻薬のよう?なこの感覚を手に入れたくて毎日通ってしまうのかもしれない。バレエでつまづくとランダムに開く『習得への情熱―チェスから武術へー』(ジョッシュ・ウェイツキン著、吉田俊太郎 訳、みすず書房)には「深く流れるように心を進行形の今にとどめることがごく自然にできるようになれば、生活にも芸術にも学習にも豊かさが生まれ、自分自身を驚嘆させ喜ばせ続けることになるだろう」とある。今という瞬間に心を置く方法を私はバレエから学んでいるところだ。

じゃーん。

オ・ヨンア(呉永雅)

日本で生まれ育った在日コリアン3世。現在ソウル在住23年目。初訪韓は小学6年の家族での「故国訪問団の旅」、93年大学在学中に一年間の語学留学、2003年に日韓・南北関係を学びに大学院留学したのをきっかけに、その後、通訳翻訳大学院を経て現在にいたる。二人の娘のオンマ。いろんなことが激しめの韓国で、穏やかなメンタリティーで日常生活を維持することが何よりの抵抗になっていると感じる、根っからのディアスポラです。翻訳を生業としながらの日々の暮らし、これまで出会ってきた人や風景、文章、記憶しておきたいことを綴っていきます。

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