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わざわざ、多様性

「多様性」に疑問を持つ人へ
気づきの一助になれば。



生物は、勝手に多様になっていくし、多様であるし、しかし人間というものはわざわざ「多様性」という文言を掲げる。掲げてもなお、その多様な状況が達成されているようには見えないなあ。

私は人間の社会こそ、多様でないように進化しているものだと感じるんですね。資本主義であったり、金・貨幣であったり、名声や美貌であったりと。強い強ーい軸があって、それからあたかも逃れられないような意識があると。

例えば海に生きる生物には沢山の種類がいる。

暖かい海、冷たい海、浅瀬、深い所。
海の中だけではなく、空も少し飛んじゃう。
光ったり、墨を吐いたり、擬態したり。雌雄同体だったり。

でも彼らは、自分たちが多様であることに気をつかってるわけじゃない。問題は多様性があり、互いに配慮されているかじゃない。まさに生きるか死ぬかの問題なんだな。多様であることは、今、そこにある結果でしかない。

多様であることと、現代の人間(社会)の抱き合わせは相性が悪いんじゃないの?お金という便利なツールがあれば、大抵なんでもできるということは、お金がない時にとっても困るくらいに他の手段が想像しにくいことにも思える。私たちは、画一的で単一なルールに則って、社会の秩序が保たれるという前提を抜きにすることはどうしても出来ないんじゃないって思うね。

多様性が、「配慮」の性質を帯びている。これ、なんか変じゃないかな。もちろん、困っている人の為にサポートすることが間違ってるわけじゃない。

ただ、多様であることは、結果だと思う。それが合理的であるからこそ、多様な状態になっているだけ。多様なことを望みます!って、生物はそうやって生きてるんじゃないような。

多用性を手段として捉え直した時に、どうして生物には、色々な姿や食性、住む場所の違いがあるのか。それは「資源を分け合う」ためだと思ってる。同じ木に住んでいる虫たちが、それぞれ「葉っぱが好きだな」「木の皮が好きだな」「木に生えたキノコが好きだな」って、興味のあるものが分かれることで、食べ物を奪い合わなくて済むんだよねきっと。

これは私たち人間だってそう。日本人の主食は最近ばか高ぇ米だけど、外国にはトウモロコシや、タロイモや、麦や、豆なんかがある。日本国内に絞っても、赤みそ白みそ、食べる海産物の違いなんかもある(東北で有名な「ほや」って食べ物知ってるかな?私は食べられない…)。興味のあることが違うというのは、それだけ資源が上手に分散されていくことだ。苦手なもの、食べ物として認識できないものを食べることで、奪い合いは少なくなる。私は「多様であること」の目的は、この「資源の分散」にあると思う。異なっているというのは、とても合理的。

でも、最近聞く「多様性」はどうにも違和感があるし、その言葉を繰り返せば繰り返すほど、

現代の人間社会は画一的だよ

ということを知らされているような気がする。最初から多様であるなら、そこに多様であることを求める声は生まれない。けど、けど人間の社会はある程度の画一性、大きな軸や物語に依存して、共通項を増やすことから逃れられないんじゃいかな。

働いて、お金を稼ぐ。現代の人間が生きる方法はこれが大体のセオリー。
これがある種の画一的な方法。

例えば、子供と過ごす時間とか、プライベートを充実させたいとか、そもそも働かないとか、もはや生きるのも疲れたとか、それは「働く」という状態からはもちろん違っている。違ってることは、全然良いこと。でも、働くことがまぁ当たり前だよね…みたいな「画一的」価値観が強くなっているとしたら、いくら多様性とやらを叫んでも、暖簾に腕押しで、結局多様な状態からは遠いんじゃないかと思う。

現代社会の人間が唱える・耳にする多様性は、あくまで既にもうある画一的で超強い(と思ってる)価値観や軸にはあまり触れないでちょこちょこやってる感じ。重箱の隅をつついてばっか。画一性の付属品。割りばしについてくる爪楊枝かな。資本主義をぶっ壊したら、今の人間はどうやって生きていくのだろう。どうにか生きていくのかもしれない。でも、画一的な価値観は生まれていくんだろう。人間だもの。

現代人は、画一的であることを求めているのでは。「ネットワーク効果」という現象があって、特定のサービスを利用するユーザー数が増えるほど、そのサービスの価値が高まる現象のことだ。これは資本主義や、有名になること、ひいては画一的価値観を量産するのにはもってこい。だって興味関心が特定の分野に集中するから。

みんなだれかがやってるじゃん

これで大体人は動く。有名だと言われるものに惹かれ、総資産額が多い銘柄に投資し、みんなが使っているSNSや電子機器を使う。人が多い分、金銭の流れや、人々の交流も起こり、サポートも充実しやすい。画一的だ。なんて合理的だ。同じような資源を共有することに、もはや喜びさえある。画一的であることは、生物が多様であることと同じくらい、人間にとって辿るべき道としてある程度正しいのかも。

ので、わざわざ、「多様性」という言葉が出てきながらも、依然として画一的な価値観やシステムに恩恵を受けつつ生きている。私もね。

違っているというのは、大変勇気のいることかもしれない。均一な価値観を生成することを、人間の社会はある程度その機能として内包してるから。

主食がレンガの人がいる。
虹を食べる人がいる。

へぇー。そうですか。別に気にしないけど、くらいの気持ちでいられたら、もっと社会は生きやすいのかもしれない。互いが互いの価値観を尊重するのではない、そもそも違っていることを前提として既に受け入れることで、画一的すぎる状況ではなくなる気がする。なんて机上の空論。

「多様性」という言葉が現代社会で消費される中で、その目的である「資源の分散」や「違いの自然な共存」から離れちゃって、表面的な「配慮」や「言いたいことを言えない雰囲気」、むしろ現代社会の根深い画一性を浮き彫りにしているのではないかと、警鐘なんてけたたましいことは言わないけど、私の違和感を吐露しました。

でも、画一性と多様性の間で揺れ動くくらいが、現代の人間の関の山なのかもしれないし、むしろそれこそが人間らしさなのかも。

まあ私はnoteという場所で、「主食がレンガ」だったり、「虹を食べる人」のような、そんな話も見てみたいと、そう思ったよ😌

現代社会は「情報化社会」だと言われます。これは言い換えれば意識中心社会、脳化社会ということです。近代的個人というのは、つまり己を情報だと規定すること。本当は常に変化=流転していて生老病死を抱えているのに、「私は私」と同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。(養老孟司,2003;54-55)

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