「生きる意味」について考えていく-4- 生きる意味を考える人は傲慢である
生きる意味を考える人は少し傲慢だと思う。それは記事を読んでいても感じる。その傲慢さに気づいて疲れ切った記事を書く人も多くいる。
150記事読んでみて、生きる意味を考える人はどちらかであると気づいた。疲れ切っているか、過度にエネルギーに溢れているか。
そのどちらにせよ、根本にあるのは同じ傲慢さであると私は思う。そして、なによりその傲慢さを抱えていたのは私自身であるのだからどうしようもない。
今回は、なぜ生きる意味を考えることが傲慢であるのか書いていきたい。
コメント、歓迎します。
意味を問うのは脳による予測である
脳には予測という性質がある。それがいつ起こり始めたのかはわからないけど、ネズミなどの齧歯類やサルを含む霊長類を使って今も脳の予測に関する研究は進んでいる。
例えば、夜の森を歩いていたとして、木の影からガサゴソと音がしたとする。ふつう我々は否応なくそれに注意を向ける。身体が硬直し、木の影に潜むものを推測する。もし虎のような猛獣であれば我々には死の危険があるし、一方で小さな小動物であれば貴重な食物となるかもしれない。我々の脳はどちらの確率が大きいのか予測する。
猛獣であれば死
小動物であれば生
X であれば Y
これを考えてしまうことを予測という。そして、重要なことは我々の脳は無意識に予測をしてしまうということであって、何らかの生理学的物質が関与するということである。
言葉を変えれば、予測は対象のつながりを想像することである。この音は猛獣か、猛獣であるなら死か。ああすればこうなる、こうすればああなる、と養老先生はよく表現する。
この対象に生きることを当てはめることが、生きる意味を問うことでないか。つまり自分の人生が何につながりを持つのか、それを問うことである。
この辺りのことを図を使って以前説明しました。
予測の神経生理にも興味がある
何かに注意を向けたときに脳幹の Locus coeruleus にあるノルアドレナリン神経が活発になる。その神経は海馬や扁桃体、その他広範な脳部位に投射し、おそらく予測のための神経回路を活性化する。よく分からないから勉強している。
最近はこれを読んでいる。
we report that this subjective prior is encoded in at least 20% to 30% of brain regions that, notably, span all levels of processing, from early sensory areas (the lateral geniculate nucleus and primary visual cortex) to motor regions (secondary and primary motor cortex and gigantocellular reticular nucleus) and high-level cortical regions (the dorsal anterior cingulate area and ventrolateral orbitofrontal cortex).
それは感覚野や運動野やより高次の脳部位など、思っていたよりも広い範囲であるようだ、ということ。
予測に使う事前情報は脳のいたるところに眠っているようだ。
なぜ生きる意味をずっと考え続けてしまうのか?
最近ある本を読んでいて、ギフテッドは生きる意味をずっと考え続けるということを読んだ。

彼ら彼女らには、飽くなき好奇心、異常に強い意志などの特徴があり、大量に取り込んだ情報に強い情動反応を示す Overexicitabityという性質を持つという。
これらの特徴は、双極症や自閉症などの神経発達症の特徴とも重なるので、誤診に注意を要するという。
ギフテッドたちは高い好奇心を持つが、周囲に話が通じなかったりすると深刻なうつ病を発症することがあるという。
私は自分がギフテッドであるかどうかには興味がない。なぜ同じ疑問を反芻して考えてしまうのか、その具体的な神経回路とそれを駆動する仕組みを知りたいと思う。
話をもどそう
生きる意味を考えることは傲慢である、それはなぜか
生きるという大きなものを包むふろしき
意味を考えることは脳の機能(予測)であり、個人差があるということを上では書きたかった。
次は、生きるという言葉について一つ書きたい。といっても、生きるとは何か、という大きいふろしきを広げる必要はない。むしろ逆である。我々が生きる意味を問うとき、我々はふろしきを閉じて口を縛り上げている。
我々は生きていくあいだ、実にいろいろなことを経験する。家族と旅行に行ったり、喧嘩をしたり、恋人ができ、別れ、ひとりになり、ときには鬱になり、死に限りなく近いたりしながらも生き続ける。したくもない勉強や仕事をしたり、かといえば急にやる気が出て、突然他人から評価を受けたり、手のひらを返されたり、そしてまた孤独を望み、飽きれば海に出る。
そんな何もかもが生きているあいだに起こる。我々が意味を与えようとしている生きるという単語は、はたしてそんな何もかもを収容できるほど大きなものだろうか?
生きる意味を考えるという行為は、生きるという長く重くごちゃごちゃしているものを、一枚のふろしきにまとめ上げようとしているだけではないのか。それは無理な話だ。だから、それは傲慢であると思える。
仮に包み上げることができたとして、それを一体何に使いますかと問われれば、私なら困ってしまうと思う。
では生きる意味を問うことをやめるのか
少し疲れたので後で書く
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