【飼育】 芥川賞読んでいく:15冊目【1958年芥川賞】
芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。
今持っている力で読み終わった本をまとめていきます。
今回は、第39回(1958年)芥川賞受賞作、飼育。ノーベル文学賞作家の大江健三郎の作品です。
私にとって15冊目の芥川賞受賞作です。これまでまとめてきたものは下のページにまとめています(随時更新)。
日本の寒村の近くに戦闘機が墜落してくる。そこに乗っていた一人の黒人兵だけを残して後は死んだ。唯一生き残った黒人兵は寒村に生捕りにされる。子どもたちは捉えられた黒人兵をまるで珍獣が捕獲されたかのように覗きにくる。
大江健三郎は特殊な作家だ。彼の書く文章は特殊だ。
僕らはそのままの姿勢で暫くいた。小さな欠伸がいくつも僕らの細い喉へあふれ、そのたびに僕らは透明で意味のない涙を少しずつ流すのだった。
あくびが細い喉へいくつもあふれ、透明で意味のない涙を流す。イメージを沸き立たせる重たい文章、だと自分は思う。村上春樹と似ているところがある。似て非なるものか。
それらすべての充満と律動を、僕はどう伝えればいい?
囚われの黒人兵に”餌”を与えたり、一緒に過ごしていくうちに子どもたちの黒人兵への恐怖はしだいに薄れていく。
僕らは躰を下肢に支えることができなくなるまで笑い、そのあげく疲れきって倒れた僕らの柔かい頭に哀しみがしのびこむほどだった。僕らは黒人兵をたぐいまれなすばらしい家畜、天才的な動物だと考えるのだった。僕らがいかに黒人兵を愛していたか、あの遠く輝かしい夏の午後の水に濡れて重い皮膚の上にきらめく陽、敷石の濃い影、子供たちや黒人兵の臭い、喜びに嗄れた声、それらすべての充満と律動を、僕はどう伝えればいい?
自分は芥川賞作品然り、小説を読む時にはその本がどれだけ示唆を含んでいるのかを重視して読んできた。つまり、何かしら哲学的に考えさせてくれる本を高く評価する傾向があったのだけど、大江の小説を読むと、その態度が浅はかだったのではないかと考えさせられる。芥川賞作品でも、特殊な文体が評価されることがあり、例えば「きことわ」とか「乳と卵」とかが思いつく。後者の作者はおそらく無理矢理文体を特殊にしていた様に感じたが、前者の文章には文体の特殊さが文章に馴染んでいる感覚を覚えた。大江の文章自体は特殊ではないが、目の付け所や表現が独特かつ心に残る。村上春樹も比喩の名手と言われるが、文章は読みやすく似たものを感じる。
夏が空虚な脱けがらになってしまう
黒人兵は村から町へ引き渡されることになる。その時の子どもたちの気持ちが表れた文章。
大人たちの迷惑は、黒人兵を運びおろすという作業によってひきおこされるものだけにすぎない。
しかし、僕らは驚きと失望の底にいたのだ、黒人兵を引渡す、そのあと、村に何が残るだろう、夏が空虚な脱けがらになってしまう。
夏が空虚な抜け殻になってしまう。さっきの「透明で意味のない涙」もそうだけど、実体+抽象的な形容+具体的な形容、という表現になっていないか?

一方、空虚や意味のないというのは概念的な単語といえよう。
その二つで、注目する夏や涙といった実体?を形容していく。
もし、「空虚な夏」とか「抜け殻みたいな夏」だと伝わるのだけど、脳の中で意味的な空間?が生まれて、そこを補完するプロセスが入るような気がする。
川の石を飛んでいくことに喩えよう。石と石の空間が広すぎると人は自然と躊躇してしまうもので、確実に飛ぼうとすれば意識的に石を付け足す作業が入ってしまう。石が近すぎても、どれを選ぼうかという意識が入り込んできてしまう。近すぎても遠すぎてもだめなのだ。
大江健三郎の他の文章、村上春樹、他の作家でもあるか今度から意識して読みたい。
物語は進む
すっかり黒人兵に慣れて子どもたちも安心して接していた頃、突如黒人兵が”餌”をやりにきた子どものひとりを生捕りにし物語は急変する。
揚蓋の上に大人たちが来て、始めは優しく、そして急激におそわれた鶏のように大騒ぎで、揚蓋にからんだ猪罠を揺さぶり始めた。しかし、かつて村の大人たちが黒人兵を地下倉に安心して閉じこめておくために役だった厚い樫材の蓋は、いま黒人兵のために、村の大人たち、子供ら、勘木、谷間、それらすべてを外側に閉じこめていたのだ。
そもそも捉えられた子ども目線で物語は語られていて(視点をそこにして書けるというのもすごいなと思う)、言葉の通じない黒人兵と過ごしている描写もありながら、結局は村の大人たちから保護される。ただ、子どもの拳は潰されている。
僕が死んでしまったと思っていた、と弟は畏敬の念のこもった声でくりかえしていった。二日間も何一つ食べないで寝ただけなのだから死んだのだと思っていた。僕は死のように強く誘い、深く引きこむ眠りの中へ弟の掌の下で入って行った。
僕は昼すぎに眼ざめ、自分の砕けた掌に布がまきつけられているのを始めて見た。自分のものとは思えない腫れあがった腕を胸の上に見ながら、僕はじっとそのままで長い間、眼を開いていた。部屋には誰もいなかった。厩な臭いが窓からしのび込んできていた。僕にはその臭いの意味がわかったが哀しみは湧かなかった。
何もいうことはない。文章がひたすらうまい。説明したくない。
僕はもう子供ではない、という考えが啓示のように僕をみたした。兎口との血まみれの戦、月夜の小鳥狩り、構あそび、山犬の仔、それらすべては子供のためのものなのだ。
僕はその種の、世界との結びつき方とは無縁になってしまっている。
救出された子どもの世界の見方は変わってしまったようだ。遊ぶ子どもたちの群れにも参加せず、離れて眺めている。
「橇あそびをやらないのか、蛙」と書記はいった。「お前が考え出したんだと思っていたがなあ」
僕は頑なに黙っていた。書記は義肢をがちがち鳴らして坐りこむと上衣から黒人兵が彼に献じたパイプを取り出し、彼の煙草をつめた。鼻孔の柔かい粘膜にいがらっぽい刺澈と動物的な情念を炎えあがらせる強い匂い、雑木林を焼く野火の香りがそこから立ちのぼり、僕と書記を同じ淡青いろの靄に閉じこめた。
「戦争も、こうなるとひどいものだな。子供の指まで叩きつぶす」と書記がいった。
僕は息を深く吸いこみ黙っていた。戦争、血まみれの大規模な長い闘い、それが続いているはずだった。遠い国で、羊の群や、刈りこまれた芝生を押し流す洪水のように、それは決して僕らの村へは届いてこない筈の戦争。ところが、それが僕の指と掌をぐしゃぐしゃに叩きつぶしに来る、父が鉈をふるって戦争の血に躰を酔わせながら。そして、急に村は戦争におおいつくされ、その雑の中で僕は息もつけない。
さっきまで個人的な物語として進んでいたのに、気づけば村の外へ、町の外へ、ひいては国外へ視点が展開されていく。彼の作品をもっと読みたいと思った。彼の文章は自分を変えてくれる。
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