【榧の木祭り】 芥川賞読んでいく:49冊目【1977年受賞作】
芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。
今出せる自分の力で、読んだ本の感想を書いていきます。
今回は、第78回 芥川賞受賞作 榧の木祭り。
長い話だったので何回かに分けて書きます。
下の村は、食う物もない地獄
「下の村は、食う物もない地獄だぞ」
と、コウジが上ずった声で言った。下の村というのは、里の下を流れる川の下流一帯をさす言葉だったが、同時に里以外の世界全部をもさしていた。そこが、数年おきに打ち続く飢饉のため食う物とて満足にない地獄だということは、コッパでも知っていた。だからこそ里人も、切れ所から下へ降りようとはしなかった。まるで根が生えたように、里を動かなかったのである。
「そうだ。あんな酷い所はないぞ。ずうと下まで、どこまで行っても地獄だぞ。おまえが知っておるとおりの地獄だぞ」
里に住む人間たちは、下の村が地獄だと思い込んでいる。下の村がどんなところかも知らず、里以外のすべてを”下の村”と呼び、食べるものがない地獄だと信じている。コッパ(里の子供たち)も大人からそう言い聞かされて育っていく。
里には榧の森があり、そこで祭りをする。
榧の木から黄金色の実が降り、それを背負った籠いっぱいに集めていく。

ある年、地獄と呼ばれる下の村から里に一人の男が戻ってくる。かつて里を落ちたキーあんと呼ばれる老人で、祭りのオンボ掘りをやるために戻ってきたと彼は言う。榧の森の前に大きな三股杉があり、その木の前でキーあんは祈祷する。
誰も『青』なぞ見とらんのだぞ
「でえろ、でえろ、でえろ……」
と、唱え続けていた。
「誰も『青』なぞ見とらんのだぞ。『青』を見た者は気が触れて、見たもんを忘れてしまうちゅうが、あら、『青』のこつを忘れるんでのうて、初めから『青』なぞ見とらんのだぞ、見とらんもんを覚えておるはずがない。風が吹いた日には、「青』なぞ見んでも気が触れるぞ。あんな祭りの前の日だぞ」
キーあんは急に黙り込んだかと思うと、
「見えんからおらん、とは限らんぞ」
と、諭すような口調で言った。
里の人間は青と呼ばれる何かを信じている。青は榧の森をさらに登った三角山にいて、里の掟を破ると青に当たり、気が触れたり、腕や脚をもぎ取られたり、喉笛を掻っ切られたりするという。
疑い深いコウジという青年は、誰もその姿を見ていないだろと青を信じていない。気が触れるのも、青が原因ではなくて、ただ風のせいだと言う。

風が吹くと、気がおかしくなるのか?
ちょっとよくわからない。
「見えんからおるとは言えんぞ。正気で『青』を見るこつはでけんのだぞ」
と、コウジがすかさず言った。真剣な顔だった。しかしガシンは、なら、『青』にざっくと喉笛を搔っ切られたオカエあんはどうなるんだ、と思った。ハシバミの兄あんが右手を折られたのはどうしてだ、何でみんながびくびくするんだと思うと、「『青』は三角山におるぞ」と叫びたい気持ちだった。ガシンだけではなかった。里の誰にとっても、『青』がいると言うことは、榧の森があると言うのと同じに、確かなことだったのだ。
「見えんからおるとは言えんぞ」とコウジは言い返す。どっちの言い分も正しい。
見えないということは、いるかいないかわからないと言うことだから。
「誰にも風は見えんが、風は木の葉を揺するぞ。木の葉は青う見えても、誰も青い色を掴むことはでけんぞ。『青』は見えんでも、当れば片輪になるぞ」
「『青』に当らんでも片輪になるぞ。鎌で切っても、木から落ちても、サイカチの刺でもだぞ。『青』に当ったから片輪になったんではのうて、片輪になった者が、「青』に当ったと思い込んでおるだけだ。『青』に当るのは、気違いも出る祭りの前の日だぞ。あんな祭りの前だから」
片輪というのは手や脚が片方なくなった人を指している。一対ある車輪の片方がなくなった押し車(リアカー)を思い浮かべればイメージしやすい。今では差別用語として使われなくなっている。
青に当たったから片輪になったと言い張る人間(キーあん)と、片輪になった原因は青ではないと言い張る人間(コウジ)の言い合いは続く。

このように片輪になったことの原因は複数考えられる。

その原因が青に当たったからだと思い込む人は、青を下人だと強く信じている(9割以上)。それが鎌が原因だったかもしれない、と考えを変えることは信念の確率分布の変化として捉えることができるかもしれない。
「ええか、理屈っちゅうやつは、おのれの都合でつけるもんだぞ。辻褄さえ合えば、それで理屈は通るが、それだけのことだ。理屈に力があるわけではないぞ。
人間はいつの時代も何かを信じて生きている。(だから、この問題を考えて得られたことはあらゆる場面で応用可能だと私は思っている。)

実際、片輪になった直接の原因が青に当たったからだと里の人間も思っていないはずだ。というのは、腕を落としたりした本人は、直接の原因を見ているはずだから、それを隠蔽することはできない。
だから直接の原因の、さらなる原因として青を持ち出してくる。例えば、鎌で腕を切ったりしたとして、それは青に当たったからだと思い込む。では、なぜ青を原因に据えなければいけないのか?
「こんな里だから」
とキーあんが言った。やさしい声だった。
「どうでも『青』は要るんだぞ。どうでも要るからこそ、『青」はおるんだぞ。オンボが要るから、わしが里におるようにな」
そう言ってから、キーあんはまた「でえろ」を唱え始めた。
どうしても必要だからこそ、青は必要なのだ、とどこかで聞いたような構文でキーあんは主張する。こんなことでコウジが納得するわけもなく、
「なら、何のために、何で『青』は要るんだ」
突然薄ら笑いを浮べたコウジが、妙に落ち着き払って言った。
「祭りのためだぞ。榧の木祭りがちゃんとでけるようにだぞ」
「何で『青』は要るんだ」と聞くと、
キーあんは「祭りのため」と今度は答える。
「なら、何で祭りをせんならんのだ。あんな祭りを」と、コウジが畳みかけた。それは、かつてコウジが里のオセたちに投げかけては、「ヘッタ喰らい」と冷たくあしらわれた問だった。しかし、去年の祭りでコウジのお母がゲスをとって里を落ちてからは、もうそんなことは口にしなくなっていたのである。やがてコウジは、黙りこくって思いつめた顔をしているかと思うと、薄ら笑いを洩らし、また顔に不思議な影を浮べるようになった。そして徐々に痩せていき、理屈もこねなくなった。ただガシンにだけは、何かと話しかけて来た。それと共に、下の村から嫁入りして来た女たちの所へも、秘かに出入りし始めた。
「ちゃんと順を決めるためだぞ」
と、キーあんが言った。何でもないと言った調子だった。
ゲス…祭りで決められた最下位
「何で祭りをせんならんのだ」とコウジが聞くと、
「ちゃんと順を決めるためだぞ」とキーあんは言う。
コウジの母親は祭りでゲス(最下位)をとり、里から追い出された。それがあるからコウジは祭りを敵視している。
「何で順を決めんならんのだ」と、コウジが言った。
「順を決めて、しっかり安堵するためだぞ。カミとゲスを決めんことには落ち着けまいが」
里の人間で順位を決めるのは、安心するためだという。
カミとゲスを決めれば、みんな安心する。
「なら、何でカミとゲスが要るんだ」
コウジはそれだけ言うと、キーあんを睨みつけた。カミがなければ榧の木様にもなれんし、アケミを花嫁にすることもでけんぞ、と思って、ガシンはキーあんを見た。
「榧の木様が要るからだぞ」
キーあんはちらとガシンを見て言った。
「何で榧の木様が要るんだ」
「お宝様をざんざん降らせてもらうためよ」
お宝様というのは榧の実のことだった。
祭りで順を決め、カミとゲスを決める。カミは榧の木様になる。榧の木様が決まると、榧の実がさんざん降って食べ物には困らない。里の人間は本当に信じ込んでいる。
「なら、種の木様が決ったら、何でお宝様がざんざん降るんだ。理屈の通るように話してくれ。榧の木様は何だ。え、ガシンのお父はどうやって榧の木様になった。
と、叩きつけるように言った。キーあんが顔を強張らせた。ガシンはお父の話が出たのも忘れて、「あっ」と息を呑んだ。
なぜ榧の木様が決まると、お宝様がざんざん降るのか、とコウジは当たり前の質問をする。ガシンという青年(こっちは素直)のお父は榧の木様になった。ガシンのお父は里にいない。
この質問は里ではしてはいけない質問だった。
そんな不始末を起したら、泣きじゃくるコッパに、「そんなこたあ、聞くもんでねえ。そんなこたあ一人前のオセになりゃ分るぞ。お務めすりゃ分るぞ」と、大声で怒鳴り続けるのが里の習しだった。それも、里中に聞えるような大声でなくてはならない。そして吊されたコッパに、もう泣き叫ぶ力も失せたころ、里の奥からオンボがやって来て、「そんなもんでよかろう」と言うと、やっと引き降ろされるのだった。
里にはどうやら 掟がある。
知るちゅうことは、廻り道することだ
「おまえは何で、何もかも知りたがる」
「あの祭りが許せんからだ。おれが許せんもんだから、何もかも知っておきたいんだ」
「そうか、そうか」と、キーあんは頷いた。
「わしもなぁ、何もかも知りたがったもんだぞ。わしにも昔は思いつめたことがあった。思いつめると我慢ならなんだ。おかげで里を落ちてしもうた。里を落ちてからは、どこへでも行った。何でも見た。何でも知った。けどなあ、その挙句はここにおるんだぞ。知るちゅうことは、廻り道することだぞ」
「おれは、キーあんなら、爺あんならと思うておったんだぞ」
と、コウジはふてくされて言った。
「そうか、そうか」
と、キーあんは薄ら笑いを浮べながら、突然、見当違いの話を始めた。
キーあんも知りたがりでそのせいで里を落ちたという。
「知るちゅうことは、廻り道すること」この言葉は今回最も注目した言葉だと思う。本当にそうなのか?
下の村に落ちたキーあんはコウジたちに話して聞かせる。下の村では肥やしを作って田んぼに入れて地味を高めて白米を作る。上の里では傾斜があり雨水で養分が流され、地味が蓄積しない。だから肥やしを入れても無駄だ。
「なら、何で下の村は地獄だ」と、せっついた。
「お白様を作ると年貢を仰山とられるのよ。残ったもんも、みんな節期の払いに消えてしまう。何年かに一遍の豊作でそれだぞ。稲虫が出ればおしまいだぞ。長雨が続いても、日照りが続いてもおしまいだぞ。モヤイ川が切れたら、何もかも流されてしまうぞ。けどなあ、この里には榧の森があるぞ。種の森がある限り、そんなこたあねんだぞ。榧の木様さえ毎年決めりゃ、お宝様はざんざん降るぞ」
下の村では年貢をたくさん取られる。豊作の年でも全部消えるほど取られる。だから地獄だ、とキーあんは言う。何だか現代に通じるところがある気がしないだろうか。
それに対して、上の里なら年貢を取られることはないし、榧の木様さえ決めれば食べ物には困らない。果たしてどちらがいいだろうか。
「何にしても、祭りさえやっとれば、こんな安気な所はないぞ」
とキーあんは言う。
まだまだ書けことはたくさんありますが、疲れたので一旦切り上げます。多分、追加で書くと思います。
ここに読んできた本をまとめています。
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