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【アサッテの人】芥川賞読んでいく:9冊目

芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。というのは、芥川賞は生きている人が書いた本が受賞するからです(もちろん死んだ人の昔の本もある)。昔から古い本を好んで読んできたのですが、やはり僕も生きているので、同じ生きている人の本を読んで何かを学び取りたいという動機で始めた個人的なプロジェクトです。
現在(2025/04/18)は、僕にとって四十五冊目を読んでいますが、一冊目からNoteにまとめるとなるとやる気を失うので、好きなようにやりたいと思います。それに過去のものを振り返るというのはなんかいいじゃないですか。

背伸びせず、今持っている力でまとめていきますので冗長になります。計画性なしの見切り発車で書いていきます。
それでも、もし読んでくれる人があるなら「ここの解釈はおかしいんじゃない?」とか「私はこう思うよ」とか「いいね」とか些細なものでもコメントしてくれたら嬉しいです。
ちなみに僕は文学科でも哲学科でも何でもありませんので、多くのことを知りません。どんなことでもご教示いただければ幸いです。


「何もしない」ことで、なぜ人間は不幸へのみ向かわざるを得ないのか(9章)

人間は何もしなければ死ぬ。死を避けるには食わねばならない。食うためには働かねばならない。当時僕は、人間には「何もしない」ことを選びとることはできない、という万古不易の命題に、言い知れぬ不条理を感じていた。「何もしない」ことで、なぜ人間は不幸へのみ向かわざるを得ないのか。

何もしなくても腹が減るもんな。腹が減るってのは、身体のエネルギーが足りないことを脳が教えてくれてるんだ。身体のエネルギーがなくなるとどうなる。どうなって死ぬんだ。

食うためには働かないといけない。概ね正しい。だけど、もし金が手元にあれば、食べ物が手元に手に入るから、働かなくてもいい。食うためには、食べ物があればいい。自分で育てたもので十分足りるなら。

この世に、完全に無垢な存在として生まれ、いかなる利害関係からも無縁な赤子が、その誕生の瞬間からひとりでに、快ならぬ不快の方角へ墜ちてゆかねばならないという矛盾。赤子は落下を逃れるためには、必死で乳房を含み、吸うであろう。下り方向のエスカレーターの途中にとどまり続けるため、このように彼は初めの一歩を踏み出すのだ。僕らの生は、そもそもの始まりから、この避け様のない落下に定義づけられている。

なぜ落下と捉えているのか。なぜ不快の方へ落ちていると思っているのだろうか。腹が減ると不快だからだろうか?

ベルクソンの孤

ベルクソンの孤というものを思い出した。

https://193pub.com/?page_id=22854 
ベルクソンの弧 ──「いのち」の数理モデル:福岡伸一

生命というのは、斜面を登り続ける欠けた輪っかだという。欠けた輪の一方からは分解が生じ、もう一方からは合成される。この合成速度よりも分解速度が速ければ、輪の重心が左に寄る。すると、斜面を転がるかたちで登り続けるのだけれど、分解のほうが速いので、いずれ消滅を迎えるというモデルだ。登り続けるためには消える運命にあるというのがなんとも儚い。

アサッテの人の文章で「何もしない」というのは、合成が起こらないことを意味する、と思う。合成とは食べることを意味すると思う。食べたら身体の成分合成されるもんね。正確には、食べることは生きるための部分的な条件で、息を吸うことや水を飲むことも必要だし合成だ。合成は内に取り入れることだ。
一方で、息を吐くこと、排泄することだって生きるためには必要だ。これは外に出すことだ。分解したら外に出すことが必要だ。

完全に無垢な存在、いかなる利害からも無縁、快と不快、
あまりにも考えることがここでは多い。
とりあえず、次に続く文章を見てみよう。

「意志」の欲求には最終的に何らの目的もない

ショーペンハウアーは、世界の根底に盲目的な「意志」、目的を持たずただひたすらに欲望するだけの「生きんとする意志」を観た。世界に存するあらゆるものがこの宇宙的な「意志」より出て、「意志」の欲するとおりに欲し、それがすべての行動の規範をつくる。一人の人間の食欲、性欲、そしてなにより生き続けたいという無我夢中な本能は、ショーペンハウアー流に言えば大いなる「意志」の分化、個別化したものに他ならなかった。僕は、それまでの人生を「意志」に従って食べ、「意志」に従って性を渇望し、「意志」に従って生きていた。ここには僕自身の自発性などどこにも見当たらなかった。僕は目的もなく、ただずるずると生かされていた。死なないために生きていたのだ。

ショーペンハウアーを恥ずかしながら読み通したことがない。大学の頃、仲の良かった(唯一卒業後も続いた)友人が当時読んでいたのが「意志と表象としての世界」しかも英語。僕が結局その本を買って読んだのは去年かな。最後まで読めてないし、消化してない。

ただ、食欲・性欲・生存欲みたいなものは、大いなる「意志」が分化・個別化してきたものだという。
ただ、大いなる「意志」を仮定して何が嬉しいのか自分はわかっていない。(プラグマティズム的な切り口。)おそらく、目的というものが本来ないことを主張するために意志を仮定するのだけど、思いつかない。

生きること自体が目的だと人は言う。だが個人が生きたいと欲することは、「意志」という宇宙的な欲望の渦の、ほんの一端に過ぎないのだ。僕の「食べたい」、「抱きたい」、「生き続けたい」という当たり前な欲望は人間という種を存続させるための巨大なプロジェクトの一環なのだ。さらにここでもっとも重要なことは、この「意志」の欲求には最終的に何らの目的もないという一点だ。

『「意志」の欲求には最終的に何らの目的もない』のであれば、『人間という種を存続させるための巨大なプロジェクトの一環』というのはおかしいのではないか?

人間という種の存続のために俺たちは生きている、という人がいるけど、僕はそうは思わない。ただ、どう反論すればいいんだろう。目的というのは脳が作り出すものだ。脳は個々人で違う(全ての脳を包括する脳はない)から、目的も唯一のものなんかない、というのはどうだろう。(これはもっと書かないといけない)
あるいは、そもそも人間という種はどこからどこまでなんだ。人と猿(赤毛猿とか)は別種だ。それは子が作れない(どうして?)からだ。一方、ネアンデルタール人と交雑は可能だったという。ネアンデルタール人のDNAが我々のゲノムに含まれているというから。こうした種を維持することが我々の目的だとして、この考えが何を生む?人類は一つだという人類愛護、どんな人種でも手を取り合っていこうとする流れを生むかもしれないし、逆に猿などの他の種の排他につながるかもしれない、だって我々の種の存続を脅かすかもしれないのだから。どっちにしろ、何が面白い?と思う、から考えがまとまってない。

我々は遺伝子の乗り物に過ぎないと言ったのはドーキンスだった。なぜそう言ったのかは分かっていない。

続きを読もう。

僕らは自分の意志で生きているように見せかけられているだけだった

哲学者曰く、
「本能とは目的概念に従った行為に極めて似ていながら、しかも完全に目的概念を欠いた行為であり、自然の行うあらゆる造形もまた、この本能と同様、目的概念に極めて似ていながら、しかしこれを完全に欠いているのである。……」
 要するに、僕らは自分の意志で生きているように見せかけられているだけだった。汗と涙と感動、それらはすべて、この苦悩の淵から一時的に目を逸らすための、体のいい麻薬のようなものに過ぎなかった。

例えば、食べたいという本能の目的は何なのだろう。身体のエネルギーを補充するためだと言って、じゃあ、エネルギーを補充するのは何のためだ、体を維持するためだ、それは何のためだ、分からない、みたいに食べることの根本の目的が見定められないので、本能は『完全に目的概念を欠いた行為』であると言っている。(無限後退とか言ったのは誰だっけ、何が後退なんだろう。)

『目的概念に従った行為』とは何だろう。あなたにはありますか?

例えば、台湾に行くことは目的に従っているのだろうか。僕はなぜ台湾に行ったのか。台湾料理を食べたかったから、夜市に行きたかったから、中国語を話したかったから、知らない土地を歩きたかったから、文章を書きたかったから、、いずれの理由もありそうだ。でも、問題は僕が目的を持って行ったのか、どうやって示せばいいのか、というところにあると思う。僕がそう発言すれば、目的がそうなるのか。じゃあ、なぜ僕は台湾の夜市に行きたかったのだろう。また多くの答えを用意することができ、それぞれについて、さらになぜと問うことができる。(無限になんか後退しないのではないか?ひとつひとつ丁寧に手繰っていき、全体を俯瞰することで何か見えるのではないか?今度やってみよう

本能以外の行為においても、それが目的を欠いていると判明した時に『僕らは自分の意志で生きているように見せかけられている』と思うのだろう。『汗と涙と感動、それらはすべて、この苦悩の淵から一時的に目を逸らすための、体のいい麻薬のようなものに過ぎ』ない、よくわかるよ、この気持ち、絶望だよな笑。(今は絶望してないけど)

ちなみに、汗と涙と感動のように体のいい麻薬のようなものに浸かっていること(そしてそれに気づかないこと)をキルケゴールは絶望と呼んだし、そうだと気づいてもまた絶望だと言ったよね。つまり絶望には種類がある。これどうやって呼び分けてるんだっけ。

 絶望は僕に当然の帰結として、自殺の思想を抱かせた。僕はプリニウスの、次のような言葉にいたく惹かれた。「……神といえども、決してすべてを成し得るわけではない。何故なら神は、たとい彼がみずからそれを欲したとしても、自殺することだけはかなわないのだ。ところが、神は人間に対しては、かくも多くの苦難に充ちた人生における最上の賜物として、自殺の能力を試与してくれた。……」
当時の僕には、自殺こそ「意志」の盲目的な欲望の渦から逃れ、抗う、唯一の術に思われた。自殺とは「意志」と刺し違えることだと強く信じた。

『当然の帰結』とはいうけれども。死ねば欲望の渦から逃れられる。ここは結構な飛躍があると思う。とにかく、自ら死ぬことが大いなる意志と刺し違えることだと思ったらしい。

だが一方で、僕はそのころ読んだ本の中に、生物の個体数調整という話を発見した。
 その話はネズミなどを例にとって説明されていた。食物連鎖の破綻などから、ひとつの種が爆発的に増加し、一定の個体数を越えて増え続けると、ネズミたちは盲目的に河に飛び込んで溺死し、その全体数を調整するといわれる。自然界には有史以前からこのような目に見えないバランス調整のシステムが機能しており、人間もまた、いままでは戦争やペストなどによって個体数調整が行われてきた。しかし戦争が終結し世の中が安定した今では、調整手段も様変わりし、自殺やAIDSや環境ホルモンなどが台頭してきていると。そういった話だった。
 ここでは既に自殺さえもが「意志」の思う壺になってしまっていた。もはや逃げ場などなかった。人間は、出口の見えぬ無変化な長い廊下を、目的を失いた新陳代謝によって、ただ移行してゆくだけだった。

レミングのことだろう。他にも例えばクジラの集団自殺などが昭和あたりには巷を賑わしたみたいだけど。それを意志のせいだと思い込む。何とも馬鹿らしいことだけど、そういう思考の運びはあり得るかもな。『無変化な長い廊下』という表現はよく分からない。新陳代謝ってのは確かに冗長だけど、ゆらぎつつ、変動するものだから。ホメオスタシス。

人間だって鯨のような死に方をしないという保証はどこにもない(安部公房)

なんか思い出したので引用します。関係あるかは分からない。

鯨の集団自殺は謎めいている。かなり高い知能をもっているはずの鯨の群れが、とつぜん狂ったように岸をめがけて泳ぎだし、浅瀬に乗り上げ、座礁してしまうのだ。
いくら追い返しても逆らうばかりで、そのまま空気に溺れて死んでしまう。何かにおびえて逃げようとしているのだろうか。鯨を恐がらせるものと言えば、海の猛獣といわれるシャチか鮫だろう。しかし鮫のいない海域でも見られる現象だし、シャチ自身が鯨の仲間で、やはり集団自殺をくわだてるのだ。そこで、もしかすると溺死の恐怖におびえた鯨が海から逃れようとしているのかもしれない、と言う説さえあらわれた。
海の生物が溺死を恐れるというのは逆説的で、考え方としてはたしかに面白い。鯨は魚ではなく、もともと肺で呼吸する地上の動物だったのだから、ことと次第によっては先祖返りして水による窒息死に恐怖心を抱きはじめないとも限らないわけだ。寄生虫か細菌に脳をおかされ、浮上する力が失われたとき、可能性としての溺死におびえるあまり、現実の死を見失うこともあるだろう。
人間だって鯨のような死に方をしないという保証はどこにもない。

死に急ぐ鯨たち、安部公房

鯨たちが大量に浅瀬に座礁して死んでしまう現象の原因を推測している。もともと鯨は陸の動物だったのだから、肺呼吸していた時の名残が残っていて突然水中で苦しくなるから陸を目指すのかも、という。安部公房は本当にこれが原因だと主張したいわけではない。彼が言いたいのは最後の部分。『人間だって鯨のような死に方をしないという保証はどこにもない』ということだ。つまり、当たり前であった状況・環境が実は窒息をもたらす落とし穴になりうるということだ。
アサッテの人と関係があると思ったんだけど、うまく繋げられないな。後で書きます。

もしこの話題に興味があれば上の動画はおすすめです。養老孟司は、クジラは超音波で障害物を検知しているけど、浅瀬だと検知がうまくいかなくて、結果座礁してしまう、とサイエンティフィックに述べた後、確かに人間だってそういう死に方があるかもとうなづいている。動画は後編もあって、そっちで話しているかも。すごく貴重な動画だと思うけど、いつか消えちゃうのかなあ。

ちょっと小説の文章は中略して、まとめます。

食べたいなどの本能行動にせよ、外国に行くみたいな意思的な行動にせよ、目的の連鎖的な追求が起こってしまう。すると根本的に自分の自由意志でやっていることなんてないんじゃないかと思ってしまう。全ては大いなる意志によって操られているのだという解釈がここで生じる。その意志から逃れる自殺も、実は意志の範疇に入っていたと気づく。これはまるで銃口を背後から突きつけられているようだと小説では表現している。
自殺が大いなる意志と刺し違える手段であったが、実は『自殺さえもが「意志」の思う壺』であることを銃口を背後に構えられることとして表現している。それに気づくことが以下に書かれた『身を翻す』ということにほかならない。

何かから「身を翻す」という反射衝動は概念化されて僕の中にとどまり根を張った

銃口の幻影は消え去ったが、何かから「身を翻す」という反射衝動は概念化されて僕の中にとどまり根を張った。やがて吃音の消滅が訪れ、反動による言語的な懐疑に陥ってよりのち、僕は、通念的なものの裏をたえずかきつづけるという、極めて特殊な叛骨精神を宗とするに至ったのである。それは一個の「アサッテ男」の誕生でもあった。

アサッテの人

『通念的なものの裏をかきつづける』というのがアサッテ男であるという。

自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世を統べる法に対して、圧倒的に無関係な位置に至ること。これがあの頃の僕の、「アサッテ男」としての抵抗のすべてだった。

今までの文章で行動の”意味”という表現を果たして使っていただろうか。ずっと目的という単語を使ってきたのではないか。
検索をかけたところ、やはりそうだった。ずっと目的と言っていたのに、ここでついに行動の意味という言葉を使っている。作者はこれを意図しているのだろうか。

僕はここについては少し神経質だ。目的と意味はおおよそ同じ意味だけど、完全なイコールではない。そして、それが考察に重要であると信じている。

というか、どこからか考察がずれてきているように思える。おそらく大いなる意志とやらが理解できてない。

僕はそんな意志を仮定せず、欲望とかについて考えていたから、よく理解できてない。

とにかく、意志とっていう小難しい本読んでみるのと、台湾なんで行くのか考えてみようと思います。疲れたのでとりあえずここまで。

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