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【道化師の蝶】 芥川賞読んでいく:41冊目【2011年受賞作】

芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。
今回は 第146回 芥川賞受賞作 道化師の蝶について書いていきます。

作者の円城塔さんは金子邦彦先生が指導教官だったということでずっと読みたかった。ブックオフでやっと見つけて去年あたりに読んだ本です。
金子先生は複雑系研究の有名な人で、よく著作を読みました。


正直今回の本はうまくまとめられる自信がないので、箇条書き的に記録しながら何か浮かび上がってきたら、それを書きたい。見切り発車!

そこに器があって、言語を注ぎ込まれているだけ

彼が用いていたのはわたしたちと同じ言語だったのかという問いが生まれる。まるでそこに器があって、言語を注ぎ込まれているだけという気持ちがしてくる。通常、言葉はそう用いられない。道具によって建築物は出現するが、ここには先に建築物があり、建築物がある以上、道具もあったのだろうというような逆転がある。それとも、あらかじめ全ての言語を知る生き物があり、使用に応じて都度都度、言語の細部を思い出していくような手触りがある。

特別なものとは、先ず完成形があり、そこに向けて実体が作業によってしだいに形成されていく。ということ以上に、それを作るのに使われた道具について言っている気がする。

あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋うまっているのを、鑿のみと槌つちの力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない

夏目漱石、夢十夜
第六夜

運慶が護国寺で仁王を彫っている光景を描写したものである。漱石は、ダビデを彫ったミケランジェロからこの思想を受けたようである。

運慶は木、ミケランジェロは石の中に特別な像を見出したが、上の文章の「そこに器があって、言語を注ぎ込まれているだけ」は、これと同じ意味のことを、書くことに対して言っていると思われる。が、「建築物がある以上、道具もあったのだろう」ということを文学作品に適用すると、完成した作品は像にあたるとして、道具は人(やペン)で木や石は文字か?でも、文字は石や木のようにはじめから目の前にあるわけではない。いや、はじめから文字があったとでもいうのだろうか?

三島由紀夫の金閣寺がなぜか思い浮かんだ。

わたしが忘れてしまうのは、記憶そのものではなくて、記憶の仕舞われる場所の住所だ。

「わたしはまず、ABCの歌を書くところからはじめる。どこの言葉であっても、その種の歌は存在している。あるいは数え歌からはじめる。それとも、ドレミの歌からはじめる。最後の例はわたしの心をかき乱す。なんといっても音階は、地域によって数が違うものだからだ。名前のないものは書きようがない。名前があったものがどこへ行ってしまったのかあたりを見回し、ペンは泳ぐ。ほんの東の間の出来事なのだが。しばらくすると今のこの感覚を忘れてしまい、わたしはこの文章の意味がわからなくなる。かつて書いたはずの文章を、その地でしか読み返すことができないように。こうして書き留めた文章が、他の文章の山にまぎれて、みつからなくなってしまうように。時間もまた空間と同じく作用する」

その後に続く文章も意味が取りづらい。

名前のないものは書きようがない。名前があったものがどこへ行ってしまったのかあたりを見回し、ペンは泳ぐ。

この感覚はわかるような気がする。思い出したいものがあるけど、それが思い出せない。タンスにしまわれているものを取り出したいのだけど、どこの段にあるか見当もつかない。現実のタンスなら上から開けていけば良いけど、脳のタンスの段は無数のように思える。し、取手がないから開けようがない。名前をつけるというのは、段に名札と取手をつけておくようなものなのだろうか。

わたしが忘れてしまうのは、記憶そのものではなくて、記憶の仕舞われる場所の住所だ。

p52

そう、とっかかりがない。

かつて書いたはずの文章を、その地でしか読み返すことができないように。こうして書き留めた文章が、他の文章の山にまぎれて、みつからなくなってしまうように。

私は、旅に出ている時にはノートを持っていく。ふとした時に、ホテルやカフェや何でもないベンチで、ふとした事を書きなぐる。そうした文章が山とは言えないまでも溜まっていく(正直山になるかどうかもわからないほど散らばっている)。

その一つを開いて読んでみると、書いた時の感覚は大抵失われている。だから、続きから書くことができない。
なので、単語や表現を部分的に修正していくことになる。そうして読んでいくと、新たに別の文章が立ち上がる時がある。出来上がるものは一見別物だけど、引いてみると共通点もある。その共通が自分が書きたかったものなんだなと思う時がある。その繰り返しで、共通したものの外形が明らかになっていく、時がある。


体が先に動くのならば、頭を動かす必要はない

不意に訪れた外国で、ある細工屋の軒先に藤椅子を出して刺繍をしているお婆さんがいる。わたしの姿を見かけると、もうひとつ藤椅子を出してくれ、わたしはそこに座り刺繍をする。別に話すわけでもなく、ひたすら手を動かすシーン。

幾何学模様を刺繍するのに、幾何学の知識は別に要らない。体が先に動くのならば、頭を動かす必要はない。会話は指先で行えば足りる。

そういうことはある。自転車とかピアノとか非陳述記憶ってやつだ。小脳で学習が進むらしい。

動くことは衝動ではない。留まり続けることが衝動なのだ

わたしにとって動くことは衝動ではない。留まり続けることが衝動なのだ。

よくわからない


その繝が捕まえるのは幸運ではなく、その網が捕まえたものが幸運となる

その繝が捕まえるのは幸運ではなく、その網が捕まえたものが幸運となる。

移動の間にだけ存在していて、次の移動を促すための種を捕える。動く体に取り残されて零れて消える連想たちを拾い集める。

奇跡を捕える網があるなら、網は奇跡の中で編み上げられる。

いつもみたいに図を描きながら考えてたんですがよく分からなくなって飽きました。

館員たちは、エージェントがわたしの作業場から持ち込む物品のうち手芸と見えるものたちを無造作に部屋へと投げ込むのだ。既製品と手芸品の境目がぼやけ、道具と作品の境界もそこでは揺らいでしまっている。

p 75

旅の間にだけ読める本。
本を読む間だけの旅。
本を読む間の旅の間にだけ読める本から再生される手芸。
手芸からまた読み出される本。

「この蝶は」
目の先を羽ばたいていく蝶を指さす。人工だろうと蝶は蝶かも知れない以上、捕まえる対象に含めるのかどうか、わたしは問いたい。老人は鼻で笑って、「そんなものは蝶ではないさ。人工物など勝手に砕けていくに任せておけ。むしろ捕まえたくない種類のものだ。わかるかね」
「わかりますね」

p 83

人工物など放っておけ。捕まえたくないものだから。とこれは分かる。意識的なものより、自然的・無意識的・非予測的なものを重視せよというメッセージだと理解した。

その区別がわからないから「人工だろうと蝶は蝶かも知れない以上、捕まえる対象に含めるのかどうか」と質問をしている。わからなければとりあえず捕まえておけというのではなく、そんなもの蝶ではないさと放っておけ、は意味わからない。わからないものは無視せよ?

なにごとにも適した時と場所と方法があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物であるにすぎない。
時と場所が変化をすれば、繁殖の方法だって変化をせずにはいられない。
旅の間にしか読めない本があるとよい。

また再読したいと思います。

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