【羊をめぐる冒険】一般論をいくら並べても人はどこにも行けない【村上春樹】
羊をめぐる冒険のラストのシーンです。
一般論をいくら並べても人はどこにも行けない
「キー・ポイントは弱さなんだ」と鼠は言った。「全てはそこから始まっているんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ」
「人はみんな弱い」
「一般論だよ」と言って鼠は何度か指を鳴らした。「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしているんだ」
鼠の言う弱さとはいったい何でしょうか。一般論とはなんでしょうか。
たしかに『僕』が言うように、人は誰しも弱さを持っているように思えます。
人前でうまく話せないだとか、逆に話すぎて相手を辟易させてしまうだとか。自分のことに集中しすぎて周りが見えなくなってしまうだとか、周りのことを気にしすぎて自分ことに集中できないだとか。そういう誰しもが経験する悩みのことを「弱さ」と一般的には言うのではないでしょうか?
読まなくていい私の文章
個人的な話をすれば、自分の長所や短所を書かされることが昔から大の苦手で、小学校の時なんかは授業の終わりを告げるチャイムが鳴っても一文字を書けなかったくらいだった。
家に宿題として持ち帰って考えてもやっぱり何も書けない。そうしてぐずぐず書けないでいると母親がやって来て、僕の短所や長所を洗いざらい話してくれる。とってもスルスルと話しちゃうわけ。そうすると(お母さんがそう言うんだからそうなんだろう)と思って、スラスラと書いちゃって、書いたA4のプリントをファイルに入れて安心してランドセルに突っ込んだ。
でも実は自分一人の時に何も書けなかったわけじゃない。自分の長所や短所を思いついては紙に書きまくっていた。でも、一度書いてみて、それを読み返してみると、途端に嘘くさくなって消しゴムで痕も残らないように丁寧に消していたんだ。
だって、たとえばさ、初対面の相手に気兼ねなく話しかけられると長所の欄に書いたとして、それを見返すと初対面でペラペラと話しかけられたくない人もいるよなと思ってしまう。それにペラペラ訳のわからないことをしゃべるってあんまり利口そうじゃないじゃない。大人しくしていて的確な場面で、的確なことをパッと言った方が格好いいでしょ?どこかの哲学者も分からないことには沈黙すべきだと言ってたよ。こうなってくるともうだめ、さっき自信満々で書いていた長所が短所に思えてくるんだ。消しゴムで一心不乱にごしごししちゃう。
だから、人の長所や短所は人の見方によって変わるってことが言えるんじゃないか。見ている人が変われば見方はもちろん変わるけど、同じ人間でさえ案外ころっと変わってしまうって思ってる。じゃあ、この見方とか言うやつは何だと考えた時に、自分と自分の特徴と他者の三点からなると考えるわけ。
自分と特徴(気兼ねなく誰かに話しかけられるとか)を固定すれば、他者の視点を変えて特徴がどう映るか見ることが(変数だね)、想定する他者を変えると、特徴が長所であるか短所であるかも変わるってことが言いたい。すごく当たり前のことのように思えるけど、案外大事な形式化じゃないかって自分では思ってる。

普通の考え方ですよね。他人の考えを尊重しましょうみたいな。
でも、話はここからだ。本当にその推測って正しいの?その誰かは推測にすぎない架空の誰かでしょう。
結局は、他人の目線なんていくらでも思いつけてしまうんじゃないか?それで、話しかけられたくないと思う人がいるから、自分からは話しかけないと意思決定しちゃっていいの?
一般論をいくら並べても人はどこにも行けない
一般論というのはシナリオを並べ立てることじゃないのだろうか。それだけではどんな選択も、どんな行動もできない、そういうことを鼠は言いたいんじゃないのか。
DéconstructionとProjet
長々と書いたけど、話を戻せば、一般論を考えるというのは見方を変えてみることなんだろうと思う。正確に言えば、あることに対して、見方を変えながら考えてみて、それをただ並べ立てるみたいなこと。
上の本で書いてあった例を紹介します。大盛りカツカレーを食べればダイエットには良くないけど美味しいと思えて幸せだし、逆にそれを我慢すればダイエットは達成できるけど不満がたまるかもしれない。カツカレーを食べるメリットもデメリットもあるし、食べないこともまた然り。ちなみにこれは『脱構築(Déconstruction)』という考え方でデリダとかが言ったらしい。
つまり、小説の『僕』は一般論を大切にする脱構築主義者って言えるかもしれない。物事に対して対立する考えを提示し、その良し悪しを判断するのを保留するわけで、とても冷静な、そして理性的な考え方のように見える。
でも、僕たちが行動する場合にはどちらかを選び取らないといけないんじゃない?
結局、カツカレー食べるか食べないのかどっちなんだいってことで。人に話しかけるのか話しかけないのかどっちなんだい、選ばないといけないよね(きんにくんってつまんないけど面白い、よね)。だから、一般論をいくら並べても人はどこにも行けないんじゃないのか。脱構築し、選択肢を得た上で選ぶ。この選ぶというのをサルトルは『投企(projet)』と呼んだんだよね、変な言葉だと思うけど。
ところで、個人的な弱さというものに鼠は執着したわけだけど、鼠の言う弱さっていったい何だろう。
つづく
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