【日蝕】芥川賞読んでいく:30冊目【1998年受賞作】
芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。
今回は 第120回 芥川賞受賞作 日蝕について書いていきます。
完全に消化不良の小説です。読み終わった方は何でもコメントいただけると嬉しいです。
話の中でピエェルという錬金術師が出てきます。
私がピエェルに見出したこの超絶の質は、云わば、不毛に畢るやも知れぬ、作業と云う行為そのものに困っていたからである。
私は些か思案した。抑この行為は、目的を遂げなければそれ自体としては何等意味を持たぬ筈のものである。私の不思議は、この単に手段に過ぎぬ作業と云う行為が、目的を離れて一つの本質的な価値を有するように映ることである。錬金術師が、作業と俱に人格上の鍛練をも重視すると云うのは屡耳にする話である。私はその為の具体的な方法を詳にはしない。しかし、彼等の言ずる所に拠れば、それは殆ど作業の進展に沿うようにして実現せられるらしいのである。
無駄に終わるかもしれない作業を黙々とする姿に主人公は感銘を受けます。
一方で、ブランコにずっと乗っている言葉の話せない少年も出てきます。
啞の少年は、昨日と同様に就しく鞦韆に揺られている。その気色は窺い知ること能わぬが、懼らくは今も、音無く笑っているに違いない。ギョオムは白痴とは云わなかった。所詮は、心無い村人等の中傷に過ぎぬやも知れぬのに、私にはそれが信ぜられた。が、憐憫の情は一向に起らなかった。私が抱いていたのは、寧ろ怯怖であり、憚らずに云えば、或る遣る方の無い憎悪であった。私には、無目的で無益なあの遊びが許し難かった。世界の中で、唯あの一点だけが奇妙に秩序を逸脱し、有らゆる聯関から放たれて孤立しているように思われた。
鞦韆というのはブランコのこと
啞というのは言葉を話せない人のこと
そういう啞の子どもが出てくるんですが、ブランコにずっと乗っているんです。しかも、満面の笑みで。
主人公は「無目的で無益なあの遊びが許し難かった」として憎悪を抱いています。
ただ、錬金術師も啞の少年も目的の見えないことをやっている点で似ているのに、なぜこうも抱く印象が正反対になってしまうのでしょうか。
錬金術師がやっていることが、ブランコに乗るような簡単な反復ではなく、勉学の積み重ねを必要とする鍛錬であるからと解釈することは可能だと思います。
また、錬金術は金など価値のあるものを作り出そうとする営みであり、もし目的が達せられれば多大な利益が得られることを期待させます。一方で、ブランコは乗っているだけで何の利益も生みません。だから、抱く印象が変わるのでしょう。
でも、錬金術で金が生み出せないならば、その営みすらブランコと同じだとみなされてしまうのではないでしょうか。価値を生み出すことを期待させるからこそ、その行為にも価値を見出してしまうことはあると思います。
ただ、小説の後半で啞の少年(ジャン)は変化を遂げます。
立ち尽くす私は、この時入垣を分けて環の中に走り出たひとつの影を認めた。視れば、ジャンであった。ジャンは、村を訪うて以来初めて私の前で鞦韆から降り、地上に立ったのである。私は喫驚し、猶且或る感動を以てその姿を眺めた。何故と云うに、少年の顔には、この瞬間慥かに意思らしいものが現れていたからである。
啞の少年はブランコから初めて降り、ある目的に向かっていきます。主人公は感動を持ってそれを眺めます。
それは、行為せむとする意思であり、目的を遂げむとする意思であった。虚無的な遊びは畢り、運動は一つ所を指していた。此処に至って、矢は驚く放たれむとしていたのである。
ただ、もう最後も謎なんです。何が起こったのかわからない。わからないので今は説明できないです。
文章も難しいし、内容も難しいです。ご教示いただければどんなことでも嬉しいです。
明らかな消化不良なので、また機会がある時に読んで考えたいと思っています。
注目した文章だけ後のために残しておきます。
幻影の衝撃は、私を或る思考へと連れ去った。私は、悪の実在に関する我々の教義を疑った。悪が、単に善の欠如に対して為された命名に過ぎぬのであるならば、何故その贖いの為に、斯の如き瞬間的で、無時間的な裁きが必要とせられるのであろうか。何故、永い運動の果てに得られるであろう、その本性の存在と完成とが待たれることがないのであろうか。・・・・・私は股栗した。被造物が悪としては存在し得ぬのであるならば、この焔が焼残せしめむとしているのは、啻に人の堕落のみではない筈である。それは、善悪を遍く孕んだこの世界の根源的な秩序であり、この世界そのものである筈であった。否、独り世界のみではない。眼前の焔の凄まじさは、世界と時間とを両つながらに呑み込まむとしていた。そのうねりと目眩く赫きとの裡に、或る瞬間的な到達の暗示と再生の劇的な予感とを閃かせながら。ーー世界の全的な到達と再生。そして私は、その濃緑の焔の渦中に、幽かに己自身の姿を垣間見たような気がした。…
股栗:恐ろしさで足が震えること
宇宙の一なる統宰者に由来する普遍的な秩序を免れて、何か知ら来なった秩序の下に服しているような、或いは、固より秩序自体を知らぬような世界のことである。この莫迦気た空想から、私はこの世界の裡なる別の層と云う考えに至った。個別的な因の秩序を逸脱した果が、奈何なる他の因へも還元せられるととなく、普遍的な因の秩序から零れ落ちて、世界の底深くに層を成して沈殿している様を想像した。そして今、それに就いての虚しい思索に呑まれむとしていた。しかし、この世界が殊なる二層に分れているなどと云うのは、抑私の恣意である。世界は創造の瞬間から、渾てを堅く結び防け、窮極的には、独り神のみを目的として欲求しているに違いない。然れば、二層を成しているのは割ろ私の認識そのものであり、穿たれた穴は、世界にではなく、私の睛の裡にこそ存しているのではあるまいか。
ジャンは、貫かれた世界の表層ではなく、神の放った一本の矢であり、而もその到かぬことを以て人を射むとする矢なのではあるまいか。
個別的な因の秩序を逸脱した果?
言葉と云うものが、本来理性の鞭杖に因って鍛えられた、筋肉の如くあるべきだとすれば、ジャックのそれは、感情に因って、その一部分のみに徒に脂肪の附いてしまったような、頬る均衡を久いたものであった。
彼の衰弱は、啻に聖職者たるべき男が信仰に蒙い民来の生活へと墜ちてしまったと云うのみであろうか。どうもそうは想われない。それは、少なくとも私が為には、より甚だしい堕落から月並な堕落へと衰弱してしまったかに見える。尚精確に記するならば、或る本質的な堕落から周辺的な堕落へと衰弱してしまったかに見える。
そして、それが私には、極近い過去にユスタス個人に於て起ったことではなく、遥か以前より、我々総ての者に於て起っていることのように想えてならぬのである。
私はふと、里昂で司教より借受け、旅立ち前に一読した『ヘルメス選集』の中の一説を思い出した。
「……そこで敢えて云おう、地上の人間は死すべき神であり、天界の神は、不死なる人間である、と。」
それは、独り肉体しか有さなかった。肉体しか有さぬが故に、唯肉の原理に因ってのみ生き続けるのである。故に、その死は生と無礼な程に親しかった。死の後に訪れるべき腐乱は、それを待ち敢えずに無邪気に生を訪うた。生はそれを容れたのである。
齢を重ねるほどに、私は人の為す所に於ては、或る結果が、栓ずれば必ず唯一つの原因に帰着すると云う単純な楽観主義を、益信ずることが出来なくなった一つの結果の出づる所は、我々の想うよりも遥かに微妙な混沌でしかなく、多くの場合、我々の見出だす原因なるものは、有機的なるそれから切取られた一片のかけらに過ぎぬのであろう。勿論、その大小の別は有ろうが。……
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