【ニムロッド】 芥川賞読んでいく:1冊目【2018年芥川賞】
芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。
背伸びせず、今持っている力でまとめていきます。
今回は、第160回(2018年)芥川賞受賞作、ニムロッド。
私にとって記念すべき1冊目の芥川賞受賞作です(メモを見ると2023年の1月ごろ読んでる)。これまでまとめてきたものは下のページにまとめています(随時更新)。
「ダメな飛行機コレクション」というのがNAVERまとめというサイトに上がっていて、それについて触れながら書かれた小説。NAVERまとめは一昔前に閉鎖していて、もう見れないよなと思いながら検索したら、なんと別のサイトでありました「ダメな飛行機コレクション」ネットの情報というのは良くも悪くも消えないんだね。
駄目じゃない、完全な人間ってなんだろう?

ねえ、中本さん、僕は思うんだけど、駄目な飛行機があったからこそ、駄目じゃない飛行機が今あるんだね。でも、もし、駄目な飛行機が造られるまでもなく、駄目じゃない飛行機が造られたのだとしたら、彼らは必要なかったということになるのかな?
中本という男にニムロッドは定期的にメールを送ってくる。ダメな飛行機コレクションとそれを説明する文章とともに。「駄目な飛行機が造られるまでもなく、駄目じゃない飛行機が造られたのだとしたら、彼らは必要なかったということになるのかな?」に対する回答はYESだろう。ただ、ダメな飛行機が作られることなく、ダメじゃない飛行機など作られるのだろうか?
そもそもダメな飛行機とはなんだろう?飛行機の役割は飛ぶことだ。さらに言えば、飛んで、人を運ぶことだ。旅客機であれば、飛んで大量の人を運ぶことが役割だ。とにかく、一番シンプルには、飛行機は飛んで人を運ぶものだと言えそうだ。だから、ダメな飛行機というのはその役割を遂行できないものだとすれば、上の垂直飛行形の飛行機はダメな飛行機だろう。
ところで今の僕たちは駄目な人間なんだろうか?いつか駄目じゃなくなるんだろうか?人間全体として駄目じゃなくなったとしたら、それまでの人間たちが駄目だったということになるんだろうか?でも駄目じゃない、完全な人間ってなんだろう?って聞かれても困るよね。とにかく僕は今、そんなことを考えながら筆を進めているよ。
では、ダメな人間とはなんだろう?
ダメな飛行機は、飛んで人を運べない飛行機であった。
ダメな X は、Y できない X である。と抽象化すれば、
ダメな人間は、Y できない人間である。となって、Y は役割であったから、人間の役割は何かという問いに変換できる。
これは大切な問題だと思う。これ自体大切な問題ではあるが、もう何度も問うた。もちろん何度も問うても良い問題だと思う(下の方で書くかも)けど、今は少し方向性を変えてみて問題の大切さについて考えてみたい(メタ的な思考だ)。
つまり、この世には実にさまざまな問題があると思う。そして、それらの大切さには大小があるように直感的に思える。それは人によって異なる。「人によるよね」で終わらせずに問いたい。どのように決まっているんだろう?
生きるためには考え続けなくちゃならない。明日の天気のことから、風呂の栓のサイズまでね。そうだろ? 【風の歌を聴け】
「うん。奴らは大事なことは何も考えない。考えてるフリをしてるだけさ。・・・・・何故だと思う?」
「さあね?」
「必要がないからさ。もちろん金持ちになるには少しばかり頭が要るけどね、金持ちであり続けるためには何も要らない。人工衛星にガソリンが要らないのと同じさ。グルグルと同じところを回ってりゃいいんだよ。でもね、俺はそうじゃないし、あんただって違う。
生きるためには考え続けなくちゃならない。明日の天気のことから、風呂の栓のサイズまでね。そうだろ?」「ああ。」と僕は言った。
明日の天気は晴れるのか?風呂の栓のサイズはなんだっけ?
この本は読むべきだろうか?このサイトは読み続けるべきだろうか?
来年は留学に行くべきか?アメリカの治安は悪いだろうか?
英語が話せなかったらどうしよう?中国語は必要か?
俺は一体何がしたい?退職後は何をしよう?一人で生きていけるのだろうか?
子供は必要か?人生とはなんだろう?生きる意味とは?
人は生きていく中でさまざまな問いを自然に発し続ける。それを完全に止めることは普通にはできない。
人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えること 【シーシュポスの神話】
真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるかとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、まずこの根本問題に答えなければならぬ。そして、ニーチェののぞんでいることだが、哲学者たるもの身をもって範をたれてこそはじめて尊敬に値するというのが真実であるとすれば、そのとき、この根本問題に答えることがどれほど重要なことであるか
ーーこの答えにつづいて決定的動作が起るかもしれないのであるーー
それが納得できよう。以上は心情では明白に感じられることだが、この明白さをさらに深くきわめて、精神にとって明瞭なものたらしめなければならない。
1900年代フランスの小説家カミュは、人生が生きるに値するかどうかが一番重要な問題であると言っている。なぜなら、その問いに答えを与えた瞬間に、死ぬか、生き続けるかが決まるし、死ねば他の問いなんて問えなくなるから、一番重要だということだ。一理ある気がする。
ある問題のほうが別のある問題より差迫っているということを、いったい何で判断するのかと考えてみると、ぼくの答えはこうだ、その問題が惹き起す行動を手がかりにしてだと。
その問題の答えが引き起こす行動を手がかりにして、問題の重要性を測る。実践的な思考だ。
この考え方をプラグマティズムと呼ぶ。ハーバードの生理学・哲学者W.ジェイムズの文章を下に引用しよう。
実際的な結果を辿りつめてみることによって各観念を解釈しようと試みる【プラグマティズム】
プラグマティックな方法とは、このような場合に当たって、各観念それぞれのもたらす実際的な結果を辿りつめてみることによって各観念を解釈しようと試みるものである。今もし一つの観念が他の観念よりも真であるとしたならば、実際上われわれにとってどれだけの違いが起きるであろうか?
各観念というのは各問題とここでは言い換えられるだろう。では、このプラグマティズムの思想に従って、風の歌の鼠があげた二つの問題を具体的に考えてみたい。即興なので変だと思ったらコメントください。
・「明日の天気」は何かという問題
答えは晴れ・雨・雪・台風・大雨などになるだろう。もし天気予報が晴れを告げていて、傘なしで出かけたとして、さらに電車から出た後で大雨に見舞われたとしよう。最悪だ。友達との約束ならばすぐにメッセージを送るかもしれない。あるいは、大切な面接があって、もっとやばいかもしれない。心臓がバクバクする。生理学的な反応が現実で起こってしまう。
友達との約束であれば、比較的重大度は低いだろう。
人生を決める大切な面接であれば、重大度は高いだろう。
だから、同じ問題でも状況によって(あるいは人によっても)問題の重大度は変わるものかもしれない、ということがわかる。
・「風呂の栓のサイズ」は何かという問題
回答は大・中・小などとなるとしよう。買い物に出かける前であれば風呂に見にいって実際に確かめれば良いので、取るに足らない問題だといえよう。
一方で出かけた後で「あ、風呂の栓買わないとだった、サイズは」という場面では、割と重要な問題である。今日は親戚が泊まりに来る予定になっていた、のならばもっと重大性は上がるだろう。
だから、やはり状況によって問題の大切さは変わるように思える。
ただ、少し落ち着いて考えてみると、そもそも風呂の栓のサイズなんて気にする場面あるか?親戚が泊まりに来るなんて滅多にないし、しかもその時風呂の栓がなくなっているなんてある得るか?となる。その問題が日常過ごしているうちにどれだけ切迫してくるか、現実問題となりうるか、それは問題の重大性を考える上で大事なんじゃないか。
そうすると、明日の天気は毎日のように気にする一方で、風呂の栓のサイズなんて人生に一回でも気にすれば良い方だ(すよね?)から、明日の天気の問題としての重要度は高い。しかも、判断を謝ればずぶ濡れになったり、タクシーを使うしかないなど、実際の行動にも影響が及びやすい。実際の行動を変える確率が高い。
まとめよう、つまり、
・その問題が日常的かどうか(日常で頻発するか)
・その問題によって起こす行動の結果、その差異でどれだけ困るか(傘を持たない時と持った時など)
これが問題の重要度を決める上で大切であるように思える。
では、カミュが一番大事であると言った「人生は生きるに値するか」という問題はどうだろう?
上のプラグマティックに導き出した基準で考えてみたい。
ところで『ニムロッド』という本にはまだ考える文章がある。それをどうするか。別の記事にしても良いけど、そんな切羽詰まって考えなくても良いんじゃないか、と今思う。けど、一応列挙してみて、同じプラグマティックな方法で順位付けしてみても面白いかもしれない。疲れたので、とりあえず一旦切り上げ。
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