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【スティル・ライフ】 芥川賞読んでいく:4冊目【1987年芥川賞】

芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。
今持っている力で読み終わった本をまとめていきます。
今回は、第98回 芥川賞受賞作 スティルライフ

これまで、まとめてきたものはここにまとめています(随時更新)。
正直この本は好きになれなかった。そういうものもまとめていきます。

佐々井という男と僕の二人で話が展開していく。

佐々井にはぼくのように、何かするに値することを探しているという気配はまるでなかった。具体的に何をしているのでもなく、何のマニアでもなく、会えばいつもどことなく理科っぽい話題を話すだけだった。家族とか友人とか、他人のことを口にすることもなかった。女友達の話も出ない。
彼は、時おり、ぼくが探しているもの、長い生を投入すべき対象を、もう見つけてしまったという印象を与えた。そういうことについてつっこんだことを聞いても、彼はただふらふらしているだけだよと言って、それ以上は話さない。しかし、少なくとも、彼はぼくと違って、ちゃんと世界の全体を見ているように思われた。

まず読み始めて思ったのは文章が村上春樹に酷似しているということ。デタッチな人間が出てくる雰囲気も似ている。ただ、書かれる内容は全く違う。それが自分にとってどう作用するのか、半分楽しみに、半分嫌悪しながら読み進めた。

例えば「長い生を投入すべき対象」がどんなものであると著者は示唆してくれるのかとかを念頭に読んだ。

大事なのは全体についての真理だ。部分的な真理ならばいつでも手に入る。
それでいいのならば、人生で何をするかを決めることだってたやすい。全体を見てから決めようとするから、ぼくのようなふらふら人間が出来上がるのだ。
佐々井は何も迷ってはいなかった。するべきことが明瞭に見えていた。ただ、それが何なのか、ぼくには言わなかったし、言えることではないのかもしれないとぼくは思った。あるいは、彼はしかるべき時期が到来するのを、確実に到来するとわかっている何かを、おとなしく待っていたのかもしれない。

村上の鼠は「するべきことが明瞭に見えて」おらず、自分で苦しみながら真理を追求しようとした。真理を追求しようとした点で似ているが、佐々井はおとなしく、鼠はいわば破天荒で、その点で異なる。

意味を追ってはいけない

「ただの山の写真だ。特別に高い山ではないし、特別に名の知れた山でもない。
だから見方にちょっとこつがある」と佐々井は小さな声で言った。「なるべくものを考えない。意味を追ってはいけない。山の形には何の意味もない。意味のない単なる形だから、ぼくはこういう写真を見るんだ。意味ではなく、形だけ」
「きみが写したの?」
「いや。ぼくが撮ったのもあるけれど、たいていは本から複写した。これは、ほら、新聞からだからちょっとザラついて見えるだろ。選別してはいけないんだ。山の形態が何かに印刷されていれば、カメラで複写する。そうするうちに個々の山は消えて、抽象化された山のエッセンスが残る」佐々井はそう言いながら、マガジンを取り替えた。
「今度は、山だけじゃなくて、地形全般。心を空にして、ものを考えず、ぼんやりと見るんだ。地球の表面はだいたいこういう形をしている。沙漠もあるし、森林もあり、氷河もあるけれど、いずれにしてもこれくらいの変化の密度だし、曲率だし、粒子のザラつき具合だ。色の変化もざっとこんなものだろう」見ているうちに一種の運動感が生じた。

佐々井はスクリーンに映し出された写真を見るという趣味がある。
佐々井の上の言葉に全てが集約されているのではないかと思った。「なるべくものを考えない。意味を追ってはいけない

「おもしろいだろ。写真というのは意味がなくてもおもしろい。一つの山がその山の形をしているだけで、見るに値する」

おもしろいのはわかる。ただ、意味がないと言っておきながら「見るに値する」という発言をするところに違和感を感じた。

意味というものには種類があると思う。
使用的な意味(ハイデガーは道具的価値Zuhandenseinと言った。もう片方を何と呼んだっけ)と非使用的な意味があり、「写真というのは意味がなくておもしろい」というのは使用的な価値はないけどおもしろい、という意味だと思った。
つまり、ハサミのように何かを知るような具体的な用途はなさそうだけれど、心理的に面白さを感じさせてくれるのだ。
「見るに値する」という表現は私に使用価値を感じさせた。(なぜだろう、他の人はどう感じるのか気になる。)
自分なら違う表現をすると思った。例えば、「許せてしまう」とか。村上の僕は確かそういう表現をしていたと思う。

「何故本ばかり読む?」
 僕は鯵の最後のひと切れをビールと一緒に飲み込んでから皿を片付け、傍に置いた読みかけの「感情教育」を手に取ってパラパラとページを繰った。
「フローベルがもう死んじまった人間だからさ」
「生きてる作家の本は読まない?」
「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」
「何故?」
「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな」

そういう繊細な表現が著者には欠けていて(すみません)、自分は好きになれなかった。
ストーリーの構成は面白いし、示唆もあるので、そこがひたすら残念だった。小説の表現というのは難しい。(自分自身の課題でもあるから反面教師的にもっと読みたいし、文章に眠る哲学的なトピックに共感するから、それも読みたい理由である)

自分の体内だけが温度において周囲から突出していることが感じとれた

雪は次第に濃く空気を満たし、火力発電所の煙突は見えなくなった。岩は冷たかった。まわりの全部が冷たかった。ここから見える風景の全体、この地域にあるもののすべてが雪の温度になって、冷たさは均等にゆきわたっていた。
自分の体内だけが温度において周囲から突出していることが感じとれた。ぼくはこの場では異物だった。それでも、衣類を透して皮膚が次第にゆっくりと雪の温度に近づいていった。この岩の一部になったら、一日は一秒のように感じられ、一年が一時間のように思われるのだろうか。

生命はどんなに頑張っても自然と溶け合う(平衡状態)ことができない、とか。

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