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【きことわ】 芥川賞読んでいく:29冊目【2010年芥川賞】

芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。
今持っている力で読み終わった本をまとめていきます。
今回は、第144回 芥川賞受賞作 きことわ

これまでまとめてきたものは下にまとめています(随時更新)。



さびることさえ忘れたのか、家はかわらず建っていた

葉山にある別荘で25年ぶりに会う二人を描いている。

さびることさえ忘れたのか、家はかわらず建っていた。もとは貸別荘であったからか表札はどこにもでていなかった。柱が柱としていつまでも屋根と床とを支えつづけているのが、貴子にはふしぎでならなかった。敷石をひとつふたつと踏みしめてゆく。ありうべき番地に家が存在することにたじろぐ。人も家も、時と世の移りゆくのにしたがい、かたちを変えるものなのだから、放置していた庭は鬱林と化し、甍は崩落し、室内には蔓がよろめきまわるような幽霊屋敷の体をどこかで期待していた。それはあっけなく裏切られた。こわすことが惜しいなどとは思わないが、解体されて更地になることも、貴子には想像がつかなかった。

久しぶりに別荘に訪れる。「さびることさえ忘れたのか」綺麗な文章だなと思った。「人も家も、時と世の移りゆくのにしたがい、かたちを変えるものなのだから」と鴨長明をさらっと出してくる。

そしてひとつまたひとつと面影がたつ。身のうちのどこにおさめていたのか、置きどころも知れずにいたというのに、凝っていた記憶が、視線をなげるごとに、なにかしら浮かんでは消えた。追想というのが甘美さから逃れがたい性質を持つものであるとしても、さして甘やかにも感じられず、むしろ逆巻くようで騒々しかった。

こごっていた記憶」という表現がなんともいい。

室内の掃除はすんでいた。台所の水錆びもすくなく、ていねいに巻かれた柱時計の振り子がしきりと揺れている。
ひとしく流れつづけているはずの時間が、この家には流れそびれていたのかいまになってすこし多めに時を流して、外との帳尻を合わせようとしているのかもしれなかった。待ち合わせの時間までにこの家の時間は外に追いつくのか。何の書き込みもないまま、うっすら黄ばんでいるカレンダーが壁にかかっている。貴子は、身のうちに流れる生物時計と、この家の時刻と、なべて流れているはずの時間が、それぞれの理をもってべつべつに流れていたように思えた。また時計が鳴る。やはり鳴りすぎると貴子は思った。

こういう文章を感性が豊かな文章というのだろう。

つきあいがないというのもまたひとつの人間関係のとりむすびかたである

つきあいがないというのもまたひとつの人間関係のとりむすびかたであるのかもしれなかった。そういう可能性があった。ただそれだけのことにすぎない。

人間関係の結び方ではなく「とりむすびかた」と書くところがいい。また、「つきあいがないというのもまたひとつの人間関係のとりむすびかたである」というのも確かにと頷ける。明らかにわかることを丁寧に書くところがいい。

いっしょに寝ても、眠るときはひとりきりよ

「でも、私、夢をみたことがないから」
「夢をみないひとはいないのよ」
寝ている間、瞼は閉じている。眼球の外から視線ははじまるから瞼を閉じていたら夢はみられないと貴子は言った。
忘れているだけできっとみてる
人間はみた夢のことは忘れてまたべつの夢をみる。永遠子はそう言って、娘の百花がみた夢のことを話しはじめた。
真夜中、そろそろ眠ろうかと永遠子が思っていると、居間のドアをノックして、小学三年生になった類の百花がそっとドアをあけた。眉を寄せ、口をへの字にして、「夢をみた」と言った。
「夢?」
「うん」

眼球の外から視線ははじまるから瞼を閉じていたら夢はみられない」に対して、夢は眼球よりも内側で始まるということはできる、けども、もし瞼を閉じていても光は入ってき得るのだから夢を見る、と言うのはどうだろう。自分のただの感想です。

夢がつながってゆかないように私はもう二度と眠らないと決めたのだと言った。
「夢をみないように、今日はいっしょに寝ようか」
いっしょに寝ても、眠るときはひとりきりよ

記憶に残る文章だ。


過去の自分であれば、こうした小説はただ文章が綺麗なだけの小説だとして切り捨てていたと思う。たしかに考えさせることは少ないが、ただ文章が綺麗というのは、大切な評価基準じゃないだろうか?
でもなぜだろう。
もし人にそう説得するならどう説明したらいい



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