メキシコシティのタコス屋で、少年たちに助けられた夜のこと
その夜、メキシコシティの街中は車やバイクのクラクションが鳴り響き、ものすごい騒ぎに包まれていた。
なんといっても、この日、アステカ・スタジアムで行われたサッカーワールドカップの試合で、メキシコ代表がエクアドル代表に勝利したのだ。メキシコの人々が歓喜に包まれるのも、当然のことだった。
僕もスタジアムから街へ戻り、深夜0時にも近い大通りを、国旗を振ったり雄叫びを上げたりする人々とともに歩いていた。
肩に掛けたバッグを握りしめ、片手で覆うようにして、群衆とすれ違っていく。ただでさえ、治安が悪いと聞いていたメキシコシティ、目の前の騒然とした光景に、ちょっと身体を硬くしていた。

こんな時間でも、街中のタコス屋さんには、長い行列ができている。あるいは、メキシコ代表の勝利に酔いしれて、まだ帰りたくない人が多いのかもしれない。
そんな光景を見ているうちに、僕もお腹が空いていることを思い出した。考えてみれば、昼食をとってから、何も食べていなかったのだ。
そこで、ホテルへ戻る前に、どこかのタコス屋さんに寄っていくことにした。
最初の1軒はあまりに行列が長すぎて断念したけれど、次に訪れた1軒は、客の回転も速そうだったので、行列の最後尾に並ぶことにした。
楽しそうにお喋りしている家族連れやカップルと一緒に待っていると、予想通り10分くらいで、店の中へ入ることができた。
ところが、店員さんに渡されたメニューを見て、頭を抱えたくなってしまった。
それは料理の写真も載っていない、スペイン語だけで書かれたメニューだったからだ。
店員さんに訊いても、英語のメニューは置いていないという。
そこで、スマホの翻訳アプリに頼ることにした。しかし、再び困惑してしまう事態に陥っていることに気づいた。
スマホの電波が悪く、翻訳アプリを開いても、ほとんどまともに動かないのだ。どうやら、店内にも街中にも人々が押し寄せているせいで、通信が混雑してしまっているらしい。
さて、どうしよう。美味しいタコスが食べられればいいのだけれど、どれが美味しいタコスなのか、まったく見当が付かない。
POLLO、ARRACHERA、COCHINITA、CAMPECHANOなどと書いてあっても、何のことなのかわからないし、さらにそれらが、ALAMBRE、VOLCÁNなどに分かれているとなると、何が何だか混乱してくる。

もう仕方がない、ここは適当に注文してしまおうか……と思い、ふと、窓の外に目を向けたときだった。
店の前に立っている若者たちが、僕の姿をぼんやりと見つめていることに気づいた。
中学生と思しき少年が2人に、高校生らしき少女が1人。あるいは彼らも、サッカーの勝利を喜びたくて、夜の街に出てきた若者たちなのかもしれない。
思わず僕は、彼らに手を振った。すると、パッと目を輝かせて、笑顔で彼らも手を振ってくれた。
僕が再びメニューに目を落としていると、突然、誰かに声を掛けられた。
目の前にいたのは、さっきまで店の外にいた、中学生の2人の少年だった。
すぐに、年上らしい方の少年が、ちょっと恥ずかしそうにしながら、スマホの画面を見せてきた。
そこには、翻訳された日本語で、こうあった。
「日本人ですか?」
たぶん、日本代表の青いユニフォームを着ている僕を見て、すぐに気づいてくれたのだろう。
僕が笑いながら頷くと、彼らは興奮したような、それでいてホッと安心したような、高らかな声を同時に上げた。
さらに、年上の少年はスマホを操作すると、再びその画面を僕に向けてきた。
そこに書かれた日本語を見て、思わずびっくりしてしまった。
「何の料理を注文したいですか?」
どうやら彼らは、僕がメニューを読めなくて困っていることに、店の外にいたときに気づいていたらしいのだ。
思いがけない彼らの優しさに心を打たれながら、僕が言えた言葉はもちろんひとつだった。
「タコス……!」
それを聞くと、メキシコの料理の名を口にしたことを喜んでくれたかのように、彼らはまた歓声を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
その彼らの奮闘が始まったのは、そこからだった。
スマホの翻訳アプリを駆使しながら、メニューにスペイン語で書かれたタコスを、一つひとつ日本語に訳して、説明してくれたのだ。
「これは牛肉のタコス、これは鶏肉で、これは豚肉のタコス、これは野菜が多めのタコスで……」
窓の外では、彼らと一緒にいた高校生らしき少女が、そんな僕たちのやり取りを、嬉しそうにスマホで撮影している。
すると、年上の少年が、簡潔な英語で言ってくれた。
「僕のお姉ちゃんなんだ」
それにしても、彼らに教えてもらうタコスは、どれもこれも美味しそうで、ますます迷ってしまう。
そこで、僕は年上の少年に訊いてみた。
「君のおすすめのタコスはどれ?」
英語だったけれど、すぐに伝わったらしく、彼は瞬時にメニューのひとつを指差した。
それは、ステーキとソーセージのタコスだった。
年下の少年も、やっぱりそれが美味しいよねみたいな感じで、楽しそうに頷いている。
もう迷うことなく、僕はそのタコスを注文することにした。
僕が店員さんを呼ぼうとすると、また年上の少年はスマホを使い、その画面を見せてきた。
そこにある言葉を目にして、僕の心はさらに温まることになった。
「では、この料理を注文しましょうか?」
すぐに頷くと、彼らは当たり前のように店員さんを呼び、そのステーキとソーセージのタコスを注文してくれた。
そんな親切な彼らに、僕が伝えることができた言葉は、たったひとつだけだった。
「グラシアス」
そして、日本語で付け加えた。
「ありがとう」
年上の少年も、年下の少年も、その日本語が珍しかったのか、面白そうに笑いながら、ニコニコと顔を見合わせていた。
そのとき、ふと思い出すことがあった。
この日、メキシコシティの街中でも、そしてスタジアムでも、メキシコの人々から、一緒に写真を撮ってほしいとお願いされることが多かった。
どうやら、ワールドカップでの日本代表の活躍もあって、青いユニフォームを着ているだけで、人気者になってしまうようなのだ。
あるいは、僕が彼らにできるお礼があるとすれば、そのくらいなのかもしれない。
「よかったら、一緒に写真を撮ろうか?」
僕が言うと、彼らはまさに、この夜1番の弾けるような笑顔になって、店内に響き渡るような歓声を上げた。

彼らと別れ、しばらくすると、待ちに待ったタコスが運ばれてきた。
香ばしそうに焼かれたステーキとソーセージを、柔らかなトルティーヤで包み、口に運ぶ。その瞬間、彼らのおすすめが正しかったことを知った。それは僕が知っているタコスとはまったく違う、初めて出会えた美味しさのタコスだったのだ。
辛みの効いたステーキもソーセージも、旨みが口の中で溢れていく。なにより、それをトルティーヤとともに食べると、ひとつの完成された料理として、美味しく味わうことができるのだ。
店内の喧噪の中で、僕はひとりタコスを堪能しながら、あの少年たちに心から感謝していた。
もしも、彼らが助けてくれなければ、僕はいい加減に料理を注文して、失敗してしまうことになったかもしれない。
こんなにも美味しいタコスを味わい、幸せな夜を過ごすことができているのは、困っていた僕に彼らが気づいて、声を掛けてくれたからだった。
まさにサッカーでいえば、彼らはファインプレーを魅せてくれたのだ。
その瞬間だった。夜のメキシコシティに緊張していたはずの心が、自然と柔らかく解き放たれていくことに、ふと気づいたのは。

翌日から、メキシコシティの街の散策を本格的に始めた。
街中でスリに遭ったという、日本人のサポーターの話も聞いていた。だから、街を歩くときも、地下鉄に乗るときも、細心の注意を払いながら行動していた。
ただ、むやみに怖がりすぎることなく、未知の世界へと心を開きながら、メキシコシティを歩いている自分もいた。
たぶん、あのタコス屋さんで出会った少年たちが、気づかせてくれたからだ。
このメキシコシティは、そんなに悪い街でもなく、素敵なことにも出会える街だということに。
もちろん、この高原の大都市には、悪い人だってたくさんいるだろう。
でも、それだけではない。あの少年たちのように、純粋な優しさを持った人々だって、たくさんいるはずなのだ。
遠い日本からこの街に来た旅人として、それだけは信じたいし、忘れたくない気がした。
もしかしたら、僕はあの少年たちに、タコスの注文で助けてもらっただけではないのかもしれない。
彼らに出会えたおかげで、このメキシコの旅を、どこまでも自由に、そして軽快に、楽しく始めることができた。
きっと、あの少年たちは、僕のメキシコの旅を、そっと優しく後押ししてくれる存在でもあったのだ。

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